本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年4月10日

 四月十日 金 (京都日記) ナンダカ頭痛がする様で少し変だ ホテルで Cafe au lait を飲んだ 知恩院の中を散歩して内へ帰り午後仕事をした いやに暑いやらで気分が悪く我慢して勉強をして居る処ニヒヨツと河野嘉平が見へた 奴ハ暫らく国へ帰つて居たとの事 何処かへ晩めしを一緒ニ食ひニ行ふと云事ニ為つて中村も来合して居たを幸一緒ニ行た 河野の撰でみの吉ニ行た 此のめしの間ハ気分が最もよろしくなかつた それから河野が大可から仲居や芸子を呼び寄せるさわぎと為つた これが始まりで円山の桜見ニ行くやら又都踊ニ行くやら又踊を見てから大可で幇間の芸を見ると云次第 皆河野のおごりなり 十二時半頃ニ内へ帰る 昨日見おさめと思つた都踊を又一度見 幇間なる動物ニハ生れてから始めての対面

1896(明治29) 年4月11日

 四月十一日 土 (京都日記) 安藤が十時頃ニ来た 一緒ニホテルニ行てカフエーを飲みぼつぼつ散歩 知恩院の中をぬけて遂ニ中村を攻撃し昼めしハ中村の近所の鳥屋で食た 食後又中村の処ニ一寸寄つたら駒田氏が来た 氏ハ今度米国から帰つたのだ 駒田氏が去つて後安 中両人と三条通を直ぐ東へ通つてアトリエに帰つた 庄が来て居たから又夕方迄勉強した 疋田の親爺がやつて来たから四人連で平野屋ニめし食ニ行た 疋田がしきりニくだを巻いた 疋田ハ車で返へし僕等三人散歩して京極でラムネなど飲んだ これが今年の氷水屋ニ這入始めだ 十一時過ニ内へ帰つて汗をふいて居た処ニお栄がヒヨツト現ハれた

1896(明治29) 年4月12日

 四月十二日 日 (京都日記) 世阿弥で Cafe au lait をやらかし高台寺の中を一人で散歩しお昼頃ニ帰り二時から庄的を手本ニして勉強した 今日ハお栄が改めて御機嫌伺と云調子で三時頃ニやつて来た 又遅く中村も来た 横山某と云人もやつて来た 仕事をやめてからしばらく雑談を云て居て後ち中村とお栄と三人で小堀ニ今度出来た寿司屋ニ入つて酒などのんだ

1896(明治29) 年4月13日

 四月十三日 月 (吉野紀行) 朝酒屋の坪内から銀行へ行た 用を済ましそれから中村の処ニ行き一緒ニ松葉で昼めしを食ひ午後一時頃ニ二人で出かけた 伏見迄電車ニ乗り伏見の茶見世筑紫亭で一時間程休みそれから二時四十二分の気車で木津迄来た 木津から人力で奈良に着たのハ丁度夜の入る頃 三景楼に泊る つるいとねると蚊が出て来て手を食ひ上つた 之レが今年の蚊ニ食ハれ始也

1896(明治29) 年4月14日

 四月十四日 火 (吉野紀行) 八時四十分の大阪行の気車に乗つて王子迄行き此処で桜井線ニ乗り替へ高田で下りた 時ニ十時半頃 雨も全く本式ニ為つて来た ステーシヨン前の茶見世で茶漬同然のめしをかき込み車を命じて吉野ニ向つた 此の高田から吉野迄ハ五十町一里で六里だそうだ 車代一台で八十五銭 雨降だから二割増しと云事 三時十五分前ニ吉野川ニ来て六田の渡を渡つた 此の六田から吉野までハ僅一里 併しこれからハ坂道で車ハ通るが乗る訳ニハ行かぬ 道の両側ニ桜が有るので吉野ニ近づいた様な心地がして来た 六田の渡場の辺ニ山籠がいくらも見へ又籠に乗つて山を下つて来る人も見受けた 成程此の道ハ籠でなけれバだめだ 金の鳥居の左脇の巽屋と云ニ泊る 此の宿屋ハ此の宿一等の宿屋だと云話だ

1896(明治29) 年4月15日

 四月十五日 水 (吉野紀行) 七時頃ニ起された 今朝霧雨で景色がぼんやりして居る体ハ丸で仏蘭西の秋から冬ニかけての天気の様だ 宿の若主人の杏之助の案内で権現様から吉水神社又如意輪堂等を見物した〔図 吉野にて〕 それから案内者に別れて一目千本と云処の谷ニ下り花見をして十二時過ニ宿屋ニ帰り杏之助の頼で桜花の画をかいて二時ニ立つた 今日もいゝ天気ぢやないが雨ハ止んだので道ハよく為つた 今度ハ六田の渡を渡らないで下市とか云村ニ向つて行た 此の村ニ芝居で名高い寿司屋の弥助の家が有るのでそれを見ニ行つたのだ 寿司など食て一寸休息した 高田ニ暗く為つてから着た 七時半の汽車で大阪へ入る 時ニ九時過 中村の手引で丸万と云処でめしを食ふ 此の丸万ハ東京の松田 隣ニ座つて居た酔つ払いニ洋服やシヤツポの悪口を云ハれた 料理の安いのニハ驚いた 二人で五十銭余 又中村の案内で大和橋ぎハの或る宿屋ニ行たがさばかり今少々進んで大イと云ニ入つた 非常ニきたない家だ 中村ハ丸万の酒ニ酔ふて直ニねて仕舞つた

1896(明治29) 年4月16日

 四月十六日 木 (吉野紀行) 僅二十銭の茶代で神さんがお礼ニ出て来るやら下女が靴をみがくやら 堺ニ行うかと云説もポツポツ雨がやつて来たのでやめニなり山内愚仙を攻撃する事ニ議決シタ 愚仙が内ニ居て仕合 一緒ニ出て西村天囚と大牟礼を尋ねたがいづれも留守 遂ニ山内ノ案内で待合如き一つの御茶屋ニ入つた 其家の名ハ網干屋と云 四時過の汽車で京都へ帰り小堀でめしを食ひ後少し散歩して中村に別れて帰つた

1896(明治29) 年4月17日

 四月十七日 金 (京都日記) 留守の間ニ山本が家を見つけたと云て来たそうだから今朝直ニ山本の処ニ行た 又それ迄ニ安井神社の鳥居氏ニモ逢つて来た 此の人も売屋敷を知らしてくれたから山本を案内として岡崎ニ家を二三軒見た 十二時頃ニ中村の処ニ行き父上へ上る手紙をかきそれから中村とホテルニて一緒ニ食事した 食後安藤の処ニ行て誕生祝の御馳走ニ為つた 夕方から大和橋の丸住と云茶屋へ行た 此の丸住ニ入る迄の内ニ五六軒川端辺をひやかしとうとう丸住ニ這入る事が出来た これハ安藤が「ナガイ事」だの「去年来たのを忘れたか」と云様な事を甘くやつたので知つた人と思つて上げたのだつたらしい 兎ニ角上つた上ハこつちのもの大ニあばれてやつた そうして其結果が一円五十銭と云安値ニハ驚いた

1896(明治29) 年4月18日

 四月十八日 土 (京都日記) 世阿弥ニ朝のカツフエを飲みニ行き昼頃ニ中村をたづねたら或る客と松葉ニ行たと云事故松葉ニ押かけた 客ハ山科の人で中村好夫と云あの辺の名望家だそうだ さつぱりとした人だつた 此処迄案内同然ニ連れて来た中村方の松田市兵衛爺を頼で銀行ニ金を受取りニ行てもらつた 銀行に預けて置た丈の金を受取る積だつたが代人では出来ぬと云事 それでハこれ丈取つて来て呉れと爺を二度銀行迄やつた 中村と山へ帰り三時過から相乗ニあとをしを付け渋谷を径て清閑寺ニ行て写生をした 陵の様子を写したのだ 夕方ニいそいで山へ帰り河原町のホテルニ行た時ハ早七時 松原と安藤夫妻ハもう来て待て居た 今夜ハお別れの為ニ皆を招待したのだ 食後ハ男四人で前夜の丸住ニ行き十二時頃迄騒いだ 今夜ハ昨夜より一層勢よくやつた

1896(明治29) 年4月19日

 四月十九日 日 (京都日記) 十一時頃ニめし食ニ勝栄亭ニ出掛けて行く途中桜の東手で堀江松華君ニ出逢ヒ一緒ニ行た めしを食ひかけてる処ニ安藤が来又大迫重威氏と其連の人が尋ねて来た 食後安藤 堀江と成井で写真を取り内へ帰つたら中村が来て待て居た 暫らく内で話をして居りそれから四人連で平野屋ニ行き二階の四畳半ニ這入込み六時過迄居た 又一寸内へ帰り何処かへ押掛けやうと云事ニ議決して久し振りニ尾張楼の新座敷へ上る 昨夜と同じく非常ニあばれた 玉葉 お□(原文不明)其他の出品が有つた こう云京美人の連中ニモしばらくこれがお名残りだろうと思ふ 十一時半頃ニ出て皆ニ祇園町で別れて内へ帰る 今日終日雨

1896(明治29) 年4月20日

 四月二十日 月 (京都日記) 銀行ニ金受取ニ行き中村から正春堂へ寄り内へ帰り小堀で昼めしを食 中村 安藤 川野等がやつて来た 食後皆と内へ一寸帰りそれから清閑寺ニ行き紅葉の木を写生した 途中清水のそばやでそばなど食た 夜食ハ平野屋でやらかし八時過から美濃竹ニ上り十二時半迄居た

1896(明治29) 年4月21日

 四月二十一日 火 (京都日記) 今日ハぼんやりした天気だ 九時ニ起きて荷造を始めた 十一時頃ニ中村が来又間も無く安藤が来た 十二時頃ニ三人で鳥居元ニめし食ニ行き二時五十分の気車で立つた 安藤ハ荷造の手伝などして呉れてステーシヨン迄送つて来て呉れた 又吉川泉一氏が荷と一緒ニステーシヨン迄先ニ来て居て呉れた 吉川氏ハ山科迄中村ハ馬場迄来て呉れた 中村ニ別れる時ニハ変な心地がした 段々東へ行程天気が悪くなり夕方ニハ霧雨ニ為つて来た 名古屋で女連の英人が下りたら今度ハ芸者を四人連れた紳士が乗つた 此の連中が浜松で下りたからそれから先ハ楽ニ寝る事が出来た

1896(明治29) 年4月22日

 四月二十二日 水 大船のステーシヨンで目がさめて見れバ今日も雨降りだ 新橋ニ九時頃ニ着た place de station の restaurant でシヨコラを飲み久米の処ニ行き上野の美術学校ニ行て岡倉氏ニ逢ひ又久米の処ニ帰り奴及び毎日の吉岡君を引出し一緒ニ清新軒で昼めし 二時頃迄話をしてそれから皆と別れて笄ニ行き父上様ニお目にかゝり屋敷の話から進でメナージユ及び七丁目ニ来たら母上様もお出で都合よし 晩めしなど御一緒ニたべて十一時頃ニ内へ帰つた

1896(明治29) 年4月23日

 四月二十三日 木 八時半頃ニ起て朝めしを食た 天気もよく気分もよし 道具の片附方などしてゐる内ニ大熊が来た 午後伊木氏が来られて始めて逢つた 二時頃から内を出て茂 雪が学校帰りに内ニ寄つたのを引連れて七丁目ニ行きそれから又一寸内へ帰り車を雇はせ杉氏と大山氏ニ名札を置き合田の処ニ行き菊地と一緒ニ出て久米公の処ニ行く 途中銀座で井上ニ出逢ひ井上ニ引張られて日本橋のなんとか云先日奴ニ連られて行た料理屋兼 Maison de ren-dez-vous と云処ニ行た 九時五十分の新橋の気車で伊木氏が立つのでそれを井上と一緒ニ見送ニ行き又料理屋ニ帰り十二時頃迄遊んで帰つた 内へ帰り着いたのハ一時前だつた J’ai choisi le salon comme ma chambre a coucher, la je serai plus tranquille.

1896(明治29) 年4月24日

 四月二十四日 金 小林萬吾がやつて来て十一時迄話して居た 井上と今日ハ鹿鳴館で昼めしを食ふ事を約して置たから出掛けて行て電話で菊の家ニ幾遍問合しても一向ニやつて来ず 遂に向ニ待て居ると云返事 其処で一人でめしを食て二時頃ニ菊の家ニ行く 井上ハ用が有つて出ると云ので一緒ニ出て今夜再会せんと約してオレハ久米の処ニ行く 夕方迄久米の処で遊で又菊の家ニ行く 井上の外ニ二人程居合せた 今夜の散財ハオレが引受る事としてやつた 十一時半頃迄飲で根津の神泉亭ニ一文なしでにげこむ 時ニ一時頃也

1896(明治29) 年4月25日

 四月二十五日 土 朝八時頃ニ起きて風呂ニ入り中村氏へやる手紙などかきおしげを呼で京都の話などし車ニ乗つて出掛けた 長原ハ留守 小山ハ居た 小山ニ神泉亭の払を頼で置て一緒ニ出かけて浅草のパノラマを見 一直で昼めしの御馳走ニ為つた 此の時ニ非常ニ雨が降つて来たがめしを食て出る時ニハ上つた 十二階ニモ登つて見た 小山ニ別れて車ニ乗り七丁目ニ行た 新二郎の処ニモ行つてしばらく話し夜食ハ橋口家にて御馳走ニ為る 一人で天神の市など見て九時頃ニ帰る 帰つて見たら京都の中村 安藤等からの手紙が来て居た 其返事など書いて十二時頃ニ寝る

1896(明治29) 年4月26日

 四月二十六日 日 八時頃ニ酒井雄三が来て去ると間もなく長原が来又石原助が来た 此の二人を相手ニ昼めしを食ひ長原ハ帰り石原と一緒ニ芝公園の前田正名氏を訪ふ 帰り途ニ磯谷に立寄る 雨が降りそうに為つて来たから車ニ乗つて姉さん宿ニ行き晩めしニ鹿児島ずしの御馳走が有つた 夜八時過ニ内へ帰つたら伊木氏の妻に為つたお幾が来て居た 始めて逢つたのだ

1896(明治29) 年4月27日

 四月二十七日 月 朝早くから磯谷と白瀧がやつて来た 磯谷ニハ額のわくを注文した 今日ハ天気ハいゝけれどなんだかぼんやりしてねむい 家の系図 古文書等をお久殿より受取り調方をした 昼過ニ為つてつるつと昼寝をやらかし少し気分がはつきりしたので樺山伯の処ニ Visite ニ出掛けた 又内を出る前ニ pere Hashiguchi が玄関迄来られた 樺山伯ニ逢つてから内へ帰り菊掛の処に行き合田の処ニ行き又日本橋の菊屋迄払ニ行ツタ 井上が居合せたので六時頃迄話しそれから久米の処ニ行た 菊地が久米の処ニ待ち合せて居たから奴と二人で清新軒でめしを食ひ又久米の処ニ行て十時半頃迄話をして帰る 今夜ハ月ハよしはだもちも至極よし 清新軒で織田万蔵ニ十五六年振ニ逢つた 内へ帰つて中村と敦盛ニやる手紙をかき二時頃ニなつた

1896(明治29) 年4月28日

 四月二十八日 火 大阪の清永氏の弟の鬼塚六郎と云人が来て八時前ニ起された 十時過ニ長田忠が白百合第一号を持つて来た 昼めしを一緒ニ食てから帰つて行た 今朝京都の安藤からとお栄から手紙が来た 午後和田英作のおやぢがやつて来て画を見て行た 父上様が一寸お出ニなりいよいよ明後日から御肖像をかき始める御約束をした 母上様ハオレが神泉亭へ泊つた晩からお留守だつたが今朝お帰りなされた 又藤井氏おばあさんは昨朝樺山家からお帰りニ為つて居たが今晩石原家へ御出掛けなされた Se prepare-t-il l’evenement? O ! Comme il me fait atten-dre! A present je m’en fiche pas mal de ce qu’on dira. C’est très encourageant qui mon père a l’air de me comprendre.

1896(明治29) 年4月29日

 四月二十九日 水 昨夜十一時から寝て今朝九時頃までゆつくり寝て居た 朝書物の片附けなどした 昼めし後ニ衆議院の属官が肖像注文の事でやつて来た 二時少し過から車で磯谷の処に行き又山本芳翠をたづね六時頃迄遊で帰る 今日ハ二度共内でめしを食た 夜食後母上様と二人で姉さん宿ニ遊ニ行き十一時頃ニ帰る それから安藤とお栄の返事をかき一時過ねる

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