本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年7月1日

 七月一日 水 晴 十時半頃ニ長沼がやつて来て昨夜の話のつゞきをやつた つまり明治美術会の展覧会ニ画を出せと云話だ 条件次第でハ Oui と云ハなけれバなるまい ça dépend! 一緒ニめしを食た そうして居る処ニ菊地が来安藤が来た 長沼ハ帰つた しばらく立つて小川が会の事を云ひニやつて来た 菊地と安藤ハ一足先ニ出て仕舞つた オレハ小山の方の用をすまし約束して置た山王山ニ出かけた しばらく安仲と話をして居る内ニ合田と菊地がやつて来た 四人で色々評議の末何春とか云鳥料理ニ行つた 此処の神さん菊地のむかしの知人で大層取り持つ積ハよかつたが四人の処ニ氷ハ三杯丈出したのハ可笑かつた 遂ニ芸者 Yonehati etc を呼で散々悪つくちを云ふ事と為つた 料理屋を出てからぼつぼつ歩いて小林萬吾を引出し京極迄行つた 安藤ニ別れ帰りニ箱館屋で休息

1896(明治29) 年7月2日

 七月二日 木 晴 夕方から少しポツポツ 今朝和田英作つゞいて岡田三郎助の二人がやつて来た 午後天真道場ニ画を直しニ行た 又三重の藤島へ学校の助手ニならぬかと云事を云てやつた 五時頃ニ小代が来た 一緒ニ出て合田をたづねたら留守 菊地ハ額縁屋ニ行たとの事 直ニ行て見たら居らず 佐野の処ニ行たら此処ニ居た 其処で四人ニ為り麻布のいろはで晩めし 溜池ニ又走つた 菊地ハ途中で別ニなりあとからやつて来た 合田が決心した原因を研究する事と為つたのが今夜の出来事 お蔭で日本でハ西洋ノ道徳ハ丸で通用しない場合が有ると云事をたしかニ知つた 十二時過ニ連中ニ別れて帰る

1896(明治29) 年7月3日

 七月三日 金 雨 雨で植木屋ハ来ぬ 十一時頃から清秀の処ニ病気見舞ニ行き序ニ橋口家ニも立寄る めしニハ内ニ帰つた 三時頃から出かけ先づ衆議院の奥田氏の処へ名札を置きそれからおぢやる処へも名札を出した 久米 合田 菊地等をたづねたが皆留守で内へ帰つた 今夜ハたつた一人でめしを食た 食後運動がてら菊地の処ニ行き九時半頃まで話し山王山ニ登つて十時を聞き赤阪の方へ下つて堀のふちをぼつぼつ歩いて内へ帰る 中村から大和旅行ノ途ニ上候云々汽車の中ニてと云端書が来て居た 母上ハ此の二三日ハ七丁目ニお泊りだ 今日ハ雨ハ降るしをかしく淋みしい様な日だつた

1896(明治29) 年7月4日

 七月四日 土 雨 十時頃ニ一寸西園寺氏を訪た処丁度出る処でだめ 序ニ散歩して山王山ニ登つて赤阪の方へ廻つて帰つた 昼めしニ合田が来て佐久間がかいてる今度仏蘭西へやるつなみの画を見ニ来てくれと云ので一緒ニ奴の処ニ行た 合田の兄の田島氏夫婦ニ紹介された 四時半頃から合田とぶらぶら溜池の方ニ来て又山王ニ上つて茶見世ニ一寸休み下つてすし屋ニ這入り菊地を呼ニやり三人ニ為つた すし屋から出てまごまごして居る処ニ久米 佐野の二人に出逢ひ都合五人ニ為り又あとがへつてすし屋ニ入りそれから合田の工場ニ行て借家などの事を十時頃まで話した 久米ハ此処から車で帰つたがオレなどハ又横町の牛屋ニ寄つて牛を少し食つてラムネや酒を飲み又一時間位話した 合田と二人で永田町を通つて内へ帰つた 帰つて見ると杉竹公からサロンのカタローグが二冊と手紙 ブレール・ブルス氏からカランダーシユの画が来て居た 実ニうれしく寝られない様だ

1896(明治29) 年7月5日

 七月五日 日 晴 合田が十一時頃ニ来て菊地が十二時頃ニ来た 一緒ニめしを食ひ又昨日受取つたカタローグなど見せた オレハかたわら植木屋ノ下知などをやつて四時過まで内ニ居りそれから三人連で出かけ貸家などを冷かし菊地の内へ行き今日奴が新らしく買つた書物棚の中ニ古道具をならべるのなどを見 それから溜池の米福とか云内で鰻を食た 丁度此の家ニ這入つて居た処ニ小代と佐野がたづねつけてやつて来て急ニ又勢がつよく為つた 合田 菊地ハ早く去りオレ等ハ例の如ク運動 十二時過ニ内へ帰る 今朝三重の藤山から承知の返事が来た 今日オレが出てから佐野等と一緒ニ久米やつて来 又夜ニ為つて吉岡それから安藤も見へたとの事

1896(明治29) 年7月6日

 七月六日 月 Pluie  Je suis réveillé vers 8h par Gauda qui est venu me montrer les dessins sur bois. A 11h moins un quart j’étais à l’Ecole. 久米も間もなく来た 十二時半頃ニ j’ai été voir les peintures à l’huile conservées au Musés avec M. Okakura. J’ai déjeuné à Seï-yo-ken en compagnie de Koumé 久米と一緒ニ安藤をたづねた 久米ハ安藤の処から帰りオレハ安藤と奴ノ案内で Dôbôchio の茶屋ニめし食ニ行た 此処で藤島武二ニやる手紙をかいた 後又 Ando et moi nous avons été passer la soirée dans une toute petite maison bien tranquille. mais un peu sale située aux bords du lac d’Oyéno. Quand nous nous sommes quittés il n’était pas encore 11h. Avant minuit je suis rentré chez moi, le chemin était mauvais !

1896(明治29) 年7月7日

 七月七日 火 Pluie Les jardiniers sont venus travailler malgré la pluie. Je suis réveillé par Gauda à 9h. Aussitôt après Sakuma est venu, j’ai déjeuné avec ma mère seuls. Mon père est venu vers 1 1/2h et il est resté à peu près 1h. Vers 5h j’ai reçu la visite de Shira-Osan. C’est le premier que j’ai reçu dans mon atelier où je venais de m’emménager. Vers 6h Gauda est venu suivi par Yoshioka de quelques minutes nous avons dîné ensemble ils sont restés causer jusqu’à 11 1/2h.

1896(明治29) 年7月8日

 七月八日 水 Vers 11h j’ai reçu la réponse de Foudjishima par dépêche. J’ai été donc la porter à l’Ecole après le déjeuner. J’ai été aussi à Tenshin-dojo corriger les élèves. A 6h j’ai reçu la visite d’Inohouyé et en même temps Ando est venu. Je suis sorti avec les deux amis pour aller dîner à Nihonbashi chez un Restaurant “Kanghikaï” ou Inohouyé nous a montrer plusieurs peintures. Ando et moi nous avons quitté cette maison à 11 1/2h.

1896(明治29) 年7月9日

 七月九日 木 Aujourd’hui jusqu’à ce que Inohouyé arriva c’est-à-dire jusqu’à 5h du soir j’ai passé mon temps à planter et déplacer les arbres avec mes jardiniers j’ai écrit aussi quelques lettres. Inohouyé parti, Gauda et Sano sont venus suivis de Kikutchi et Ogoura j’ai envoyé une dépêche à Inohouyé pour refuser son invitation à dîner et je suis allés avec les quatre artistes dans une maison où on mange du poulet à Akassaka. Après le dîner pendant lequel nous avons bien bavardé nous nous sommes promenés sur le Bd Tameiké et je suis rentré chez moi à 11 1/2h.

1896(明治29) 年7月10日

 七月十日 金 Papa est venu déjeuner avec nous. En écrivant une lettre pour Soughi je me suis occupé des jardiniers et du jardin jusqu’à 3 1/2h l’heure à laquelle Shiodaï est venu. Ando n’a pas tardé non plus d’arriver. J’ai reçu aussi la visite du Colonel Akiyama qui est venu me demander de faire une portrait d’un lieutenant tué à la guerre. J’ai refusé de travailler moi-même et j’ai remis la photo. à Ando Shiodai, Ando et moi nous avons été dîner à la Colline Fertile, puis nous avons été sur Ghïnza, nous nous sommes reposés à Hakodateya. En revenant avec Shiodai, nous avons vu le marché des fleurs de Konpira. Rentré …

1896(明治29) 年7月11日

 七月十一日 土 A 10h je me suis rendu à la distribution du diplôme à l’Ecole des Beaux-Arts; déjeuner à Séïyoken. De là j’ai été chez Koumé avec lui, là où j’ai changé le costume et Koumé et moi nous sommes allés à l’atelier de Sano, nous y avons rencontré Sano et Shiodaï, nous allions sortir lorsque il commence à tomber de l’eau. 三口の岩窟でめしを食つて汽車で十一時頃ニ帰つた

1896(明治29) 年7月12日

 七月十二日 日 岡倉氏の例の葬式で九時ニ染井の墓地迄行キ帰リニ久米と小山のあとに付て団子坂ニ行く 不図安藤に出遭ひ一緒ニ為り四人でめしを食つた 小山の御馳走だ 会の事ニ付て条件を定めた 料理屋に這入てから雨が盛ニふつて来た 安藤と二人ニ為つてから長原の処ニ行きしばらく話それから又二人で久米ノ処ニ一寸立寄り遂に二人で加賀町でめし 合田が不図やつて来久米も遅くなつてから来た モデルになるべきものを見る

1896(明治29) 年7月13日

 七月十三日 月 晩めしを食てから散歩ニ出かけた 菊地も久米も留守 箱館屋でアイスクリームを食ひ車で橋口家へ向ふ 母上が丁度行てお出だつた 後麹町を歩きそれでも足らずニ赤阪を一と廻りした 今夜の道連ハ母上の外ニハ清と婢秋

1896(明治29) 年7月14日

 七月十四日 火 十時半頃ニ菊地が来 昼に為つて二人でめしを食て居た処ニ安藤が来て三人でめしを食た 食後菊地ハ去り安藤としばらく話した 後に二人で出かけ芝浦の潮湯に行てねころんだ 井上ニ置手紙をしてそれからめし食ニ安藤の東京バンブーと称する処ニ行つた 出品の挙動が中々尋常でなく京都以来の愉快だつたナと安藤とかたりながら箱館屋でアイスクリームを食ひウイスキーを飲だのハ十時半頃 京橋で安藤ニ別れ新橋から車ニ乗つて内へ帰つた 潮湯に行前ニ毎日社ニ寄り吉岡ニ逢ひ会ニ対する議案を話した

1896(明治29) 年7月15日

 七月十五日 水 雨 終日内にてアトリエの幕かけだの額かけなどの下知をした 合田の頼付けの指物師と磯谷が来て仕事した 又後天真道場の事で小林と何とか云人と二人が一寸見えた 夕方の四時半頃から内を出て菊地の処ニ行き合田と一緒ニ為り二人で牛屋ニ行きそれから内へ奴を引張て来た 十二時迄巴里の昔話などしてかへつた

1896(明治29) 年7月16日

 七月十六日 木 天真道場で画を直してから清新軒で昼めしを食た Cafe ニ久米がやつて来た 美術学校ニ行て剣持ニ逢ひ入学試験の期や用意の事ニ付て略話を極めた 久し振ニ新二郎が処ニ見舞ニ行き内へ帰りめしを食て仕舞つて居た処ニ井上が見へた 一緒ニ日本橋へ出かけ寒菊ニて十二時過迄のむ

1896(明治29) 年7月17日

 七月十七日 金 昼めしを食て仕舞つて一寸とした時ニ井上から電信が来て扇芳亭ニ出かけた 吉田と云人も一緒で例の女連も来て居た 五時過ニ合田の処ニ行き佐野 菊地等と一緒ニ為つて汽車で三口の岩窟ニ行きすしやどぢよう鍋で腹をふくらし十二時ニ東京ニ帰り箱館屋ニゆつくりして合田の話で大ニ興じた

1896(明治29) 年7月18日

 七月十八日 土 朝七八時の頃大雨 十一時頃ニ天真道場ニ行て画を直し又コンポジシヨンの評をし清新軒でお昼を吉岡君と一緒ニたべ一時少しすぎニ約束通り寒菊ニ行たら誰も来て居ず 花火が二十五日ニ延びたので来ないのぢやないかなどと色々考へて待て居た 其内ニ井上が子分を四人程連れて馬車を二台用意してやつて来た 直ニ奴の呼付けの芸姐三人を呼び寄せて出懸る事と為つた 向島の植半と云処ニハ始めて来て見た 中々いゝ 静かで涼しいが蚊が多い 水あびなどもやらかした 夜ニ入つて向島の桜の土手を風ニふかれて馬車で通る心地ハ一刻千金だ 月が出て居たので一層感が強かつた 再び寒菊ニ乗り込み十時頃ニ別れて帰る

1896(明治29) 年7月19日

 七月十九日 日 今日の暑さハ三十度 夕方ニ雨 今日ハ少しくたびれた様な気味で内ニごろごろして小説など読で居た 五時頃ニ父上がお出ニ為つて肖像を少し計かいた 丁度かいて居た処ニ合田が来佐野が来菊地が来した 皆と六時前ニ内を出て小代と日吉町とか何とか云通の玉突屋で一緒ニ為り又安藤と東京バンブウで逢ひそれから皆で金六亭でめしを食た 出品も二つ計有つて中々盛ニやつた 小代と菊地ハ帰りあとの者共ハ遂ニバンブウニ会し散じたのハ十二時頃だつた 合田とハ赤阪門下で別れた

1896(明治29) 年7月20日

 七月二十日 月 朝大雨 終日時々雨 風強し 朝一寸小督の下画に取りかゝつた これが今度のアトリエの中ニての仕事の初めだ 昼めし後合田の処ニ行き二時半の汽車で三口の岩窟ニ押しかけた 佐野も同じ汽車ニ乗つて来た 合田ニ電話をかけて一時間余たつて小代と合田がやつて来た これで大ニ勢力がついて面白く為つた 今日ハいつもの給仕娘ハ芝居ニ行たとかで亭主が相手ニ出て酒ニ酔つてとうとう仕舞ニ君だのなんだのと云様ニ為つた 佐野と小代ニ別れ十一時頃ニ汽車で東京ニ合田と二人で帰つて来た

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