1892(明治25) 年8月1日
八月一日 月 今晩次郎公着
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
八月一日 月 今晩次郎公着
八月一日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事大元気にて一昨晩帰巴仕候 白耳義国ニては松方氏ニ厄介相成居面白く暮し申候 同氏も来る十日頃ニハいよいよ帰朝致被筈ニ御座候(後略) 父上様 清輝拝
八月二日 火 今晩八時ノ汽車デ久米公ト次郎公武烈波へ立ツ
八月三日 水 昼後車デカケ廻ル チエブラン里昂停車場 法主ノメサジユリ ユボン婆 林 ブランシエ 荷造屋等へ行タ
八月四日 木 川村写真屋 ブラウン ムリエ氏等へ行
八月五日 金(記述無し)
八月六日 午後四時半平田ハーブル港より着 川村兄弟等と夜食す
八月七日 日 十二時十五分の汽車で平田と同道暮村へ行く 清泉駅より美天 森江両夫人ト連ニ為る 皆と清泉の森ニ遊
八月八日 月 朝舟遊 おひるハ森江さんのお馳走 夕七時の汽車で平田と巴里へ帰る 曾我 桜田等同道火車見物
八月九日 火 平田終日不快 サンドニ大砲製造所ナドの見物取り止メの事 医者の内や薬屋ニ行てから諸生町で飲む
八月十日 水 十二時十五分の汽車で鞠屋の為薬ヲ持て暮村ニ行ク 夕七時の汽車で巴里へ帰て暮より清泉迄森江老婆ト同道ス 里昂停車場ニて夜食 富貴楼の店先ニテ平田 曾我 桜田等待合す 共ニ午前二時頃迄ぶら付 当地名物のはだかの女郎屋等見物 今夜曾我 桜田氏方へ一泊
八月十一日 木 昨日曾我の案内で平田サンドニニ行タリ 今朝平田が其サンドニの大砲製造所の事務所(Me Royaleニ在)ニ行キ度いと云ので行タ 桜田氏も一緒ニ行た 午後平田ハ桜田氏とエイフエル塔見物 又序に荷物ヲ内ニ取りニ行ク 僕ハ曾我と少しく町をぶら付油絵の見世などのぞく 余り暑いから曾我の内へ帰て休息 平田等も帰て来タ 平田ハ今晩立ツ積故早々と夜食ニ行 近所の安めし屋(Me Vivienne)で吸物など飲みながら今夜迄巴里ニ居ルナラ内デ日本のめしヲやるがどうだ それぢや居ようと云事ニ極まる 直ニめし屋ヲ出オレハ桜田と同道内に帰りめしの仕度をやる 平田も曾我と程なく来る 豚鍋のお馳走ヲ頂く 十時頃から諸生町ニぶら付あつちこつちで飲む 河北道介と新参の日本人二人ニ逢ふ 午前二時頃内ニ帰る 皆とごろ寝
八月十二日 金 内の下の居酒屋で皆と十一時頃ニ玉子焼や牛など食ふて腹をこしらへる それから皆に別れて立つ 十二時十五分の汽車ニ乗り暮村ニ向ふ 平田ハ一時頃の汽車ニ乗てハーブルへ帰る積なりし
八月十三日 土 長田と門番の婆やへ端書 久米公へ手紙ヲ出す
八月十四日 日 今朝の便で曾我からの端書ヲ受取直ニこつちからも端書一枚出す 今夕七時の汽車で桜田が着て来た 宿屋ニもどこニも明部屋が無いので拙者の内ニ来て泊る 例のごろねをやらかす
八月十五日 月 終日桜田と一緒也 晩めしニ奴の企で牛の汁にそうめんを入れて食ふ オレの内でやるのだから気楽此の上なし 二人共大はだぬぎでやつゝけた 若し夷人でも来上つたら随分驚くのだつたろうに 宿屋ニ部屋の明が出来たので桜田ハ今夜から宿屋ニねる
八月十六日 火 朝の便で新二郎の手紙と巴里の御本城の門番から送て来た久米公からの電信ヲ受取ル ひる後の便で母上様へ手紙ト日記ヲ出し横浜開通社へ向ケ船積証書ヲ書留で送ル 又久米公へ端書で電信の返事ヲ出す 後桜田氏と釣ヲ試む 夜鞠屋方ニテ少しく話す 又桜田と散歩ス
八月十六日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたしハこのごろハいなかニをります どうもこの五六日のあつさニハまことニへいこう あせがでてかないません こないだのにつきのつゞきをおくつてあげます ことしのきようしんくわいのためニかきましたゑを一まいおくりました このてがみのつくころニはとゞくだろうとぞんじます よこはまの開通社といふところニあてゝだしました そのかいつうしやからうちニとゞけてくれるでしようとぞんじます このをんなのゑハきようしんくわいでハことわられましたけれどもわたしハずいぶんほねをおつてかきましたのですからどこにだしてもまたひとがなんとゆつてもはづかしくハないつもりです がくぶちハとりはづしたゞゑだけをくりましたからがくぶちハそちらでこしらへさしてくださいますようニ父上様ニ申上げてくださいまし ひのきのまさめかなんかたゞきぢのまゝのがくぶちのほうがきんぱくなどのついたのよりよつぽどよろしうございます またくろぬりのふちでもいゝでしよう なニしろかざりのないものニかぎります 父上様のおかんがへどうりのものでけつこうでございます そのかいてあるかほのをんなはこゝのいなかでよくしごとなどしてたいそうしんせつニせわをしてくれるやつですがこのごろハびようきニてよつぽどよくようじようしないとなかなかよくハなるまいとのことまことニきのどくなことです さくらださんといふひとがこの二三日まへからこゝニあすびニきてをりますのではなしあいてがあつていゝことです まづこんどハこれだけ めでたくかしく 母上様 グレより 新太拝
八月十七日 水 久米公からの手紙ヲ受取羽書で返事ス 昼後四時頃より六時頃迄久し振で勉強す それから桜田と鰻釣りニ行く 一匹も取れず 又一寸水あびヲやらかす 夜食後九時半頃にジヨルジユ等と車でモンクールへ行 帰て来て桜田の処ニ行キ宿屋の連中(オーギスト夫婦等)とレモン水など飲む
八月十八日 木 朝郵便で地南見物ヲ日本へ送る 久米公ニ羽書ヲ出ス 十時頃より画ヲかく 出来非常ニ悪ク不平極る 午後五時頃迄桜田と話ヲなし夫レから七時半頃迄描く 夜食後桜田が話しニ来豆茶など飲む 新二郎へやる手紙ヲ書く 一時半頃ニ寝床に入る