1892(明治25) 年10月1日


 十月一日 土
 今朝鞠屋巴里へ立ツタカラ手本無シト為ル 昼めし後二時頃ニブルス氏ヲ訪ふ 奴の妻ニ日本から来タきぬの布ニ多賀城の碑文の織出シテ有ルノヲ呉れてやつた 豆茶など飲でしばらく話ヲし後ブルスの妻の仕事部屋を見ニ行ク 大きな男のはだかぼが腕の傷ヲ布でくびつて居る処の形ヲ作りかけて居る 女で之れだけ彫刻が出来ると云のハ感心さ 処で色々話の末オレの面ヲ作り度いから此の冬暇の時ニ来て呉れないかとぬかした 阿保糞だ阿保糞だ之レだから美術家なんてものハこまつたもんだ 少しちかしくなると直ニこんな事ヲぬかし上る アヽもう之レで御付合ハいやニ為た いつかムールの野郎ニ久米が此の流ヲやられそれからもう一切奴の内ニハ行かぬ事として仕舞た事など思ヒ出すわい ブルス夫妻ニ別れてからコリンスニ出逢ふ 奴ニオレの画部屋ヲ見せてやる それから奴の画部屋ニ一寸行ク 奴も大きなものをかきかけて居る 矢張オレの様ニ心ハ矢竹ニはやれ共の風有り 後画部屋ニ帰て夕方迄布の張り直シなどやる 夜食後七時半頃ニモーリ氏ニ逢ニ行く 妻ト二人連で来て居る あすの晩巴里へ帰て行くとの事 奴の内の庭で画をかきたけれバ勝手ニかけと云た 仕合也 巴里ニ行たら奴の内ニめし食ニ行くと云約束ヲして置て帰る 朝鮮国の郵便切手に書てある字の翻訳ヲしてもらをうとの事 昨日日本から為換が来たと今日久米公ニ威張て端書で知らしてやつた