1892(明治25) 年9月15日


 九月十五日 木 (ブレハ紀行)
 今朝なんかハ実ニいゝ天気ダ オレの心地ハあんまり昨日ニ変らず おまけニ今日ハ頭が痛いわい づくんづくんと痛いのぢやネヘ カーンとした様ニいたいのだ 夜も汗が始終出た様ニして心地よくねられず いつ迄もこんな風ニして暮らすのハ不意気千万パンポルニ行テ一番医者ニ見せてはつきりと理屈ヲ聞て見度い なニしろ此処ヲ引上るニしかず パンポルの宿屋ニ電信ヲ懸けて今夜の用ニ部屋が有るかないかを聞合す 使ニやつた奴が帰来て電信局でオレの書テヤツタ電信文を分りよくするが為メニ別ニ二字加へたと云 なんだ畜生め実ニ此処の電信局の野郎ハ失敬ナ野郎だ 此間河北ニ電信ヲ出シタ時モ糞と云字ハ電信で出せないとかなんとか云訳で自分勝手ニ字ヲ替へ上ツタそうだ 糞と云様ナ字電信でやる事が出来ナイと云規則ガ有ルノナラナゼまるつきりオレの電信ヲ辞て仕舞ハネへのだ 人の文章ヲ我儘ニ直すとハ不届き千万だ 一字でも半字でもオレの考から出た字でネへ字が這入た日ニハ長い手紙の文の様ナものならともかくも電信文なんかハ実ニメチヤメチヤだ 十二時ニ為て返事が来た 部屋が有るとの事だからいよいよ立て行事ニ極め直ニ渡し舟とラリクセストからパンポル迄の車とを申付く 四時頃ニ立つ 次郎公も一緒ニ立つのだ 久米公も送てパンポル迄来る パンポルでハ先づ第一ニ町を散歩ス オレはやつぱりだるくていけねへ とうとうお医者様の内ニ行て見て貰ふ 此の医者様六十計の老人ニテもとハ海軍の医者ヲつとめ東京(トンキン)などニ行た事の有る奴だそうだ 何ニオレの病気ハ本当の立派な病気の様でハない なんでも一寸暑ニ当たのだろうと云見立也 キナを少し用ろと云て書付ヲシテ呉れた 診察料の安いのニハ驚き入た たつた一仏サ 夫レから薬ヲ買ヒニ行キ又豆茶屋ニ行きリモナード水ヲ飲む 此の茶屋ニさつきの医者様が見えて居た 夜食ニハ玉子ヲ二つ入れた汁ヲ一杯飲だ計り お医者があんまり食ふナと云た 又めしハ食ヒ度くもネへ 食後久米公と次郎公ハ一寸散歩ニ出懸た オレハ歩くのハいやだつたから引込で居る 奴等が帰て来てからカルタ取ヲ始メル オレが一番勝た お茶なんかを部屋ニ取寄てのむ オレハ薬をのんだ お茶も飲み度くネへわい 十一時頃ニ寝る

同日の「久米圭一郎日記」より
黒田中村両人島ヲ出立ツ故一緒ニパンポル迄行ク 四時比島ヲ出デ六時ニパンポルニ着ク オテルジッケルニ泊ル 黒田熱気アリテ外出セス部屋ニテカルタヲ取ル九月十五日