1892(明治25) 年9月16日


 九月十六日 金 (ブレハ紀行)
 七時頃ニ起き朝めしニ汁ヲ一杯のむ 薬ものんだ お立ちと云もんだからなんだか少しハ気分がいゝ様だ 八時少し過キニ次郎公と乗合馬車ニ乗り込む 久米公ハ今日ハ此処の隣り村のケリチとか云処ニ住て居るランデルと云画かきと鳥打ちニ行くと云て行た 奴も之レからたつた独りニ為て淋しいだろうと思ふ 八時半頃ニ車が出た 合込人はオレナンカの外ニばゞあが二人四十位の男が独りと小供一人也 オレの隣ニ座たばゞあいやな奴 ベドス老婆の二代目也 オレハしばらく眠て居て知らん面ヲして居てやつたがとうとう仕舞ニぶつちめられた つまらネへ 次郎公ハ始メつから野郎ニつかまつて色々ナ事聞カレテ居上る guingaup ニ十二時十七八分頃ニ着た 汽車ハ十二時二十三分ニ出るのだからいそがしいわけさ おまけニばゞあの畜生ニ荷物の無代運賃の周旋を頼まれオレなんかの切符ヲ出シテ糞老婆荷物ヲオレなんかの物の様ニして出すやら大騒き 先づ首尾よくすんでおめでたし だがめしヲ食ふ暇もなけれバ又此の停車場ニめし屋ハネへ どうせ三分龍迄行かなければだめだ 婆やハ下等でオレなんかハ中等だから一と先づお別れニ及びたり 一時間計たつて三分龍ニ着た 汽車の中で食ふ様ニ出来て居る食物入りの籠ヲ一ツ買ふ 冷肉とパンを少し計り食ヒ酒ヲ飲だら胸がへんニ悪い様ニ為た 三時過ニレンヌと云処ニ着た 一寸下りて水など飲む 気分あんまりすぐれず 七時頃ニルマンニ着く 此処ニ三十分計の止りが有ルのでめし屋ニ這入り食ふ オレハ汁ニ玉子ヲ一ツ入れて食つた計り 又時ガ有つたから糞場ニも行く 帰りがけニ今朝のばあやニ出ツこあす 又少シしやべられた どうも気分が本当でネへぞ さむけがして来上つた うつうつネた様ニしてやつてくる だんだん進で巴里から二十五里有ると云シヤルトルと云処ニ着たら少し心地が晴れて来た 十一時半頃ニ巴里高元原停車場ニ御着 あのばゞあの迎ニぢいやが来て居た 丸デベドス夫婦ニちつとも変らず 矢張ベドスの様ニ大黒頭巾ヲ冠て居ルから ベドスと違て居ル処ハ二代目ベトスハばあやより丈が低い そうして奇ナ事ハ此のばゞあも二度婚礼した奴だそうだ
 今日の気車ニも随分乗込人ハ多かつたが巴里ニ着前ニハオレなんかの外ニ法主独りと町人一人よ 町人の野郎ハだまつた様ナ奴で極おとなしくして居たが法主ハいやナ奴さ 次郎公が色々ナつまらネへ話しの御相手さ 次郎公ニよつかゝつた様ニ為たり又次郎公のもゝの処ニ手ヲついたりして話ヲし上ら いつかのフオテヌブローの金玉握ヲ思ヒ出シテおかしく為た 次郎公を指して之レハ日本のお方だ 前ニ居る人も 之レハオレよ 日本人だそうだがあの人は支那人面だ 日本でも支那の方へ近い処で生レタ人だろう どうお考へなさると乗合の者共へ聞上ら そうするとオレの直前ニ居た馬場がかさをかいたと云面体の男が答ニ 丸で支那人の通りだと云上ら ナサケネへ奴等ダ 人の面の不出来ヲ大声で評するのハアンマリダネ 此の話ヲ知らん面して聞て居るオレの腹立だしくもおかしさよ 又法主の畜生が次郎公ニ色々宗旨の話ヲ始メたので次郎公ハいよいよ面倒臭く思ひ宗旨の事ハわたしハちつともかまはないと答たそうだ そうすると法主が云ふのニ そうだつて先きの世の事がこわくハないかと ナアーニ死でから先きの事ハ丸つきり考へないからこわくもなんともネへ 此の次郎の返詞は中中甘かつたと思ふ お着ニ為るや直ニお車に被召宇治里御本城へ御帰り相成 のどがかわいて居たから炭をおこして砂糖湯ヲこしらへて飲む

同日の「久米圭一郎日記」より
朝八時黒田、中村ニ別レケリチ迄歩シランデルヲ訪ヒ磯辺ニテ猟ヲ為シ小鳥一疋打ツ 昼飯ハパンポルノ宿屋ニテオゴル 歩イテ帰島九月十六日