本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年4月9日

 四月九日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至而壮健今日迄ハ只書物など読居画の趣向など工夫罷在候のみの事にて筆を取ての勉強ハ余リ不仕候 併し此頃ハ天気殊外快晴全く夏の如きはだ持に相成花なども急ニ咲始候間二三日内ニ是非共何ニか描き始申度心組ニ御座候 共進会へ持ち出し候画不幸にして二枚共はねられ申候 戦に負勝有るが如きものとあきらめ自分ハ先々平気ニ御座候得共世間の上べのみニ気を付くる人達ニ対してハ少し肩幅狭く相成し心地ニ御座候 久米氏も私と同し事ニて気の毒の事ニ御座候 能く考へ候得ば当年の失敗ハ私ニ取リてハ却而薬ニ相成候事と被存申候 其故ハ之レが為力落どころにてハ無御座候 来年こそハ一番人の目ニ附く様ナものを描き持ち出し呉れんと云心胸ニ満ち申候 何と申ても当地ニテ画かきと称し其画ヲ以テ生活ヲ立て行程ニ相成らざれバ甲斐なき儀ニ御座候 共進会ニテ二等の賞を得何地より如何なる画ヲ持ち出しても審査官の評議をへずして陳列品ニ加へらるゝと云迄ニ相成帰朝する様なれバ此の上も無き好都合ニ御座候得共外の学問とハ違ヒ何ケ月学べバ何段ニ昇ると云様ナ訳ニハ不参候間先づ名誉かれこれの世間ニ対しての事ハ全く思ハず只自分の心任せニ描き而其画が人の気ニ入レバ徳気ニ入らざれハ夫レ迄の事と別ニ心配なく静ニ勉強するが上策と奉存候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年4月22日

 四月二十二日附 グレー発信 母宛 封書 一ふで申上度候 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのよしおんめでたくぞんじ上度候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてこのごろハまたまたいなかにひきこみをりべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのびんから父上様へ申上ましたとうりことしのきようしんくわいニてハまことニぶしびなことニてめんもくないことでございます どうもこのつらでにつぽんへかへつていくのハいかニもざんねんでたまりませんからかへるまでのうちニぜひなニかもう一まいかいていこうとおもいせつかくほねをおつてをります(中略) わたくしももうそんなニいつまでもこゝニをるわけニハいきますまいからをそくもらいねんハかえつていきます それともまたひよいとことしのうちニかへるかもしれません なニもかもおかねしだいです くめさんハどうしてもこのあきごろニハかへつていこうとゆつてをります いまハただにつぽんからおかねがおくつてくるのをまつてをるのです わたしもくめさんと一しよにかへるようなつごうニなれバとちゆうもさみしくなくてよいがとかんがへてをります ことしのうちニかへるようニなるとたゞざんねんなのハきようしんくわいではねられたまゝでかへつていくのですからこゝろもちがわるうございます いままでこゝにをつたにつぽんじんできようしんくわいニうけとられたのハわたしのほかにふたりをりますがそのふたりのひとたちもみんな一どうけとられたばかりで二どめニははねられそのまゝでかへつてしまいました わたしもいまのまゝでかへつていけバそのひとたちとにたりよつたり そのひとたちハおかねがつゞかずニかへつていつたといふことができますがわたしハそうゆうわけでハないのですからわたしのほうがまけニなります こればつかりハかへすがへすもざんねんしごくでございます くめさんはひとりむすこのうへにおつかさんがもうよほどまへからごびようきだそうでぜひもうかへつてきてくれとおつしやるそうでこちらニじつとしていてゑをかくきニもならずどうしてもかへつていくほうがましだろうとゆつてをります いよいよことしのうちニハかへつていくニハちがひハございますまい あたしがかへりましたらご一しよニかごしまニくだりましようからたのしみニしてまつていてくださいまし こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1892(明治25) 年4月29日

 四月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気ニテ相暮し居候間御休神可被下候 此頃ハ矢張不順の天気勝にて野にての稽古ハ六ケ敷候 此の十一二日前より描き掛居候女の肖像一枚昨日仕上候ニ付本日より又々十五日か二十日計の見込にて一と先都ニ引上ノ積ニ御座候 今度都にてハ卒業試験の様な心持にて日本への御土産の為当地名物の女のはだかの画一枚心に任て描き申度存候 小さな考をして居る日本の小理屈先生方へ見せて一と笑ひ仕度候 巴里にてハ社会党が大ニ流行あそここゝにて家をはねとばし負傷者も少なからざるさ、あ子ニ御座候 裁判官と警視の役人が一番のにくまれ者ニ候 五月の一日ハ毎年職人共のさわぎ廻る日故当年ハ社会党の者等が必ず何ニ事かやらかすならんと巴里の者共ハ怖れ居るとの事ニ御座候 社会のさわぎを高見からの見物一寸面白き事に御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝 御自愛専要ニ奉願候

1892(明治25) 年5月10日

 五月十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしハこのごろハやつぱりぱりすニをります あしたからはくぶつくわんニまいりましてむかしのひとのかいたゑのうつしかたをやるつもりです じつハをんなのはだかぼのゑを一とつかくつもりでてほんニなつてくれるをんななんかをたのんだりまたおゝきなきれをかつたりしてちよつとかきかけてみましたがよくよくつもつてみるとおかねがとてもたりませんのでまづとうぶんおやめニいたしました またこんどかはせがきてからこのゑをかくことゝいたしました 二三日まへニせんせいにあいニいきましていろいろことしのきようしんくわいのおはなしをうけたまわりましたらせんせいもわたしがことしことわられたことをたいそうきのどくニおもつてくださいましてずいぶんよくできてをつたのニことわられたのだからちつともちからををとすことハない たゞうんがわるかつたのだとゆつてくださることニてそうきいてみるとまたすこしハきぶんもよくなります まあすんだことハしかたがございませんからこれからなるたけべんきようしてらいねんのゑをかこうとおもつてをります いなかでひとつをゝきなのをかくつもりでそのしたごしらへをしてをきましたがこれもいまハおかねのつごうがあんまりよろしくございませんからまづまづなかいりニいたしてをきました そのほかニもう一まい一せうけんめいニちからをだしてりつぱなのをかいてみたいとかんがへてをります くめさんもおつかさんがごびようきだもんですからもうことしのうちニにつぽんへどうしてもかへるとゆつてをりましたがこないだくめさんのうちからおてがみがきておつかさんのごびようきもわるいことハわるいがまだ五六ねんのうちニどうこうというようなことハあるまいとおいしやさまがをつしやることだからせめてもう一ねんもべんきようしてからかへつてこいとゆつてきたそうにてくめさんハおゝよろこびです そのうへわたしなんかハらいねんの九月とかのまへニかへるとちようへいニとられるとか申ことです これハどうだかいろいろいふひとがありますからわかりません わたしもなんならせめてきようしんくわいでほうびをもらうぐらいニなつてからかへりとうございますがそういうわけニもいきますまいからどうしてもおそくともらいねんハまづまづかへつていくかんがへですからおたのしみニしてまつていてくださいまし(後略) 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまニよろしく

1892(明治25) 年5月17日

 五月十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略) 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし わたくしハこのごろはやつぱりぱりすニをりましてはくぶつくわんニまいにちむかしのゑをうつしニまいります

1892(明治25) 年5月31日

 五月三十一日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのはづおんめでたくぞんじあげ奉候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてさくばんまたまたいなかニまいりました ぱりすでハまいじつはくぶつくわんにむかしのゑをうつしニいきました そのうつしハまだすつかりすみませんがどうもどうもこのごろハおてんきがまことニよくぱりすニをるのハまことニいやですからまづそのうつしハまたのことニしていなかニきてしまいました いなかのほうハまたかくべつです これからをゝきなゑでもかこうとおもつてをります このごろのあつさハなかなかつようございます あせがでることニハまことニへいこうです くめさんも二三にちのうちニこゝのいなかニをいでなさるはづですからそうしたらはなしあいてもできておもしろかろうとぞんじます わたしハながくせいようニをりますけれどもせいようじんとはなしなんかするのハときどきハよろしゆうございますがしじうハめんどうでいやです こまつたもんです このいなかでハやどやニハまいりませんでうちでちよつとしたせいようりようりをこしらへてたべてをります これのほうがよほどけんやくニなります まづこの六月ぢうハこゝでくらそうとおもつてをります 七月ニなつたらまたどこかちがつたところニいきたいもんです 父上様にハこのごろハこうがいのいゑつくりでおたのしみのよしまことニけつこうなことです せつぺおたのしみをたくさんなさるがなニよりのことゝぞんじあげます あなたさまニもなるべくおもしろいことをなさつておくらしなさいまし このせいようのめいしよやまたきれいなところを父上様やあなたさまニ一とめみせてあげとうございますよ けれどもあなたさまハふねやまたせいようりようりがおきらいですからまことニこまりますね ふねのほうハしじゆうゆれてばつかりハをりませんからよろしゆうございますがせいようのたびニにつぽんりようりばかりたべてをることハちとむづかしゆうございます ぱりすなんかでハごぜんをたいてにつぽんのとうりニしてたべることができます わたしがもうすこしゑがじようずニなつたらぜひ父上様のおともをしてせいようのたびをしたいもんだとおもつてをりますよ ずいぶんかんがへたよりもおもしろいものやめづらしいものがたくさんございます とてもげんにみなけれバはなしばかりでハわかりません まづこんどハこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1892(明治25) 年6月3日

 六月三日附 グレー発信 父宛 封書 四月十五日附ノ御尊書并ニ二百五十円の為換券本日慥ニ相届き難有御礼申上候 先頃帰朝相成候諸氏ニも御逢ひ直左右御聞被下候由安心仕候 加藤恒忠氏トハ近々の内ニ当地着可相成と折角相待居申候 私の額画芝公園地内の油画展覧会へ相出し被下候由奉謝候 評判も不悪由面白キ事ニ御座候 尤も驚ク可きハ私の画などが大きなる者の内なる由 彼の画の如きは当地の共進会ニては小さ過て人の目ニハ付き難き方ニて有之候 日本と仏蘭西と油画の上手へたも大抵額の大小の差の位の者かと被察申候 当年共進会へ持ち出し候女の肖像と秋の景色も御送申上度存候得共何分運賃高く掛り候由承り候間当分差し控へ置候 いつれ其内金都合よき時分ニ御送り可申上候 当年ハ一層大きな者を描き申度已ニ其用意仕下画等相始メ申候 趣向ハ夏と云ものニて女子共川辺の涼き処の岡の上ニ臥ころびたり又釣などして居る体ニテ少なくも人の五六人ハかき可申候 教師も何ニか女の裸体の者を是非試み候様申呉候間右夏の画の中ニはだかの者も二三人入れ可申やニ存候 併し此の方は手本雇入丈ニ一ケ月分三百仏余(我百円近く)かゝり候故実行余程六ケ敷ものニ御座候 新二郎の洋行もいよいよ極り候由大慶此事ニ奉存上候 米国と申処ハ知恵と忍耐と有る者ニ取てハ独立の道ニもとぼしからざる国の由兼而承り及候 新二郎も一通り学問致し候上ハ通常の洋行帰りの人の如く日本ニ帰りてつまらぬ学校の教師位ニ為て安心する様ナる小ナ事ハやめて何ニか面白き工夫を出し日本の旗を米国に立つる様ナ都合ニても相成候ハヾ家ニ取ても国ニ取ても此の上もなき名誉の儀と奉存候 之レハ口に云う事易くして為す事至而難ク候 併し今日ハ世界を我家ニして住う位の考ニテ事をせねバ兎ても西洋と肩をならべて行ク訳ニハ為り申間敷候 当地の或る有名なる著述家が世界廻りをしたる時の日記を読候処米国の或地方にて旧友某氏を訪ヒたる時の事を委しく記し遠く異域ニ来り幾多の辛苦を経て大業を為したるニ感じ之レガ真の武士也と誉め候 又其地方ニ十六と十九歳ニ為る二人の英人が主と為りて盛ニ農業を為し居るを見て驚き仏国の少年輩のいくぢ無き事を嘆き候 当地の公園地へつゞきたるシヤンゼリゼと申広き通りを何万てうと云馬車が行来して絶へぬを見ても西洋ニ金の多くして日本の文明ハまだ中々の事だと云の事の知られて残念至極と思はざるを得ざる儀ニ御座候 余附後便也 早々 頓首 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年6月19日

 六月十九日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしハだいげんきニていなかニてべんきようをいたしてをります このごろハをゝきなゑのしたがきをしてをります なかなかほねがをれますがおもしろいことです(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年6月24日

 六月二十四日附 グレー発信 父宛 葉書 (前略)只今は矢張夏の画の下ごしらへニ骨折り罷在候 四五日の内ニ仕事部屋一ツ借受申積ニ御座候 下画の組立ニハ仕事部屋無之候ハでハ光線の具合彼是レ六ケ敷候 久米氏と連合にて借り居る巴里の部屋も来る十月限りにて打ち払ふ積ニ取極置候 段々帰朝の用意仕事ニ御座候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  グレ村 清輝拝

1892(明治25) 年7月2日

 七月二日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 此頃ハ天気よろしく候間日ニ依てハ手本二人も一緒ニ雇ヒ色々と下画の工夫ニ骨折居候事ニ御座候 余後便ニ附候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年7月16日

 七月十六日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのはづおんめでたくぞんじあげ奉候 わたくしことハいつものとうりでございます やつぱりいなかでゑをかいてをります なつのおゝきなゑのしたがきもだんだんできてまいりますからなかなかおもしろくなつてまいりました〔図 「夏図」画稿〕 それからまたこゝのいなかニもう一ねんばかりまへからひつたりときてすまいこんでをりますあめりかのかなだと申ところのゑかきとしりあいニなりましてそのひとのうちニめしくいニいつたりまたそのひとがわたしのゑをみニきたりしていゝはなしあいができてよいことです(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年7月22日

 七月二十二日 金曜 今日ハ暮村ヲ立ツト云事ニ極テ仕舞タ故朝いつもより余程早ク起タリ 五時半頃ニ始メテ目ヲ覚しつるつるやつて七時頃起出づ 昼めしハいつもの如ク穴蔵部屋の中でやつゝけ残りの骨ハ隣の犬ニ窓からなげて呉る 此の犬の野郎オレが物ヲ時々窓からなげてやるもんだからめし時ナドニオレの足音がすると窓の下ニジーツと座て居るわい 変ナものさ 二時の汽車で立テ巴里ニ帰る 内ニ帰て居たら長田が丸毛と帰て来タ 五時半頃から川村純蔵の内へ出懸く 純蔵 其兄 此の人ニハはじめて逢タ 祖山 曾我の諸氏集り居かるたの最中 植木屋和郎公ハ台所で日本料理の用意 井の上が立つ前ニ残して置た三百仏ヲ祖山から受取る 之レで心強く為る めしの御馳走ニ為タ 味噌煮の牛実ニ甘シ 久し振で味噌ヲ食ふ 味噌ハいつ食ても結構也 十時過迄話しタ 曾我と話シ乍ラ達摩橋迄行キ引返して帰る 長田から公使館ニ届て居た日本の手紙ヲ受取ル オレが今年の共進会ではねられた事が知レタル御文也

1892(明治25) 年7月23日

 七月二十三日 土曜 丸毛より長田の小僧と三人で昼めしヲ内で食ふ 公使館ニ行き久し振で加藤君ニ逢たり 内からの御伝言や何かを聞く 又公使館ニ御手紙が一本着て居た いよいよ新二郎が文蔵さんと亜米利加ニ行たとの事 日本からの書留ヲ此処ニ送て呉れと電信で田舍ニ云てやる セイヌの河ぷちヲぶらぶら歩きルーブル博物館ニ行く がつかりしたから鬼武士車ニ乗て一と先内へ帰る 蓮町の一仏五十の安めし屋で晩めしヲやらかし翁ニ行て本屋ヲ冷かし二十仏近く書物ヲ買ふ 又乗合鬼ニ乗て帰る 十一時頃ニ久米公が田舍から帰て来た 一時過迄話す

1892(明治25) 年7月24日

 七月二十四日 日曜 (ベルギー・オランダ紀行) 今朝八時ニ書留ヲ受取ル 学資金の為換券也 九百仏計来夕 難有事也 オレがいつかうなり出した鶯の歌が直して来タ 遠藤さんが死で仕舞とハ真ニ気の毒ナ話し 先生が七丁目の内の滝の下の小屋ニ住て居て土鍋でめしヲ炊て食て居タ事ナドが思ヒ出される おとつあんとだいやめをしながら歌を作たりして居た時の面が今でも見へる様ダわい 不思議ニ人が集タ 第一丸毛が来てそれから川村兄弟 そうこうする内ニ元吉が来た 久米公と小僧とオレと三人入るれバ都合九人 牛鍋の御馳走ヲやらかす 久米公と出て高天通と龍来山園との間の通ニ賃部屋ヲ見ニ行ク 翁茶屋で飲む 飲みながらブルユクセル行ヲ極む 三味線通から車ニ乗り内へ飛ビ帰り大急ギで仕度ヲやらかし同じ車で北停車場へ走る 車の上で清泉駅へ出ス手紙を認む 停車場ぎはの郵便局ニたゝき込む 久米公切符取りニ走る 六時二十分の気車今出る処おあいにくさまヲ食て去ル 其処で十一時ニ出て朝の五時半頃ニ着く汽車ニ乗る事と極む 大通の吸物屋で晩食ヲやらかす 又和郎方及ウエベル家ニ土産ニするが為菓子ヲ買ふ ぶらぶらして時間ヲつぶす 屎なども屎屋ニ這入てゆつくりとやらかす ボツボツ歩て停車場ニ向ふ ナンダカもう立て行のはいやに為たが仕方なし 行て仕舞へ 十一時の汽車で立ツ 五時半に武律悉府に着す

1892(明治25) 年7月25日

 七月二十五日 月曜 (ベルギー・オランダ紀行) 市中の店ハシメテ居ルノでボツボツ歩て北停車場の処ニ行キ近処の酒屋デ朝メシヲ食ふ 和郎家へ名札ヲ置き七時半頃松方氏ヲ訪ふ 寝部屋ヲ攻撃ス 和郎八時頃来る 久米公ハ和郎ト出ル 十二時過帰る 此処で(松方氏宅)お昼ごぜんの御馳走ニ為る 食後久米公ハ出る オレハ独リデ三時十分頃の汽車ニ乗リ田中 河北の両氏ニ逢に行く Watermact ト云処也 武律悉から歩て行て一時間計の処也 田中氏ハ不在 河北君ニ逢ふ 一緒ニ散歩ス 先づ此の間鉄砲腹ヲ切タ武乱世将軍の墓ヲ見ル 其銘曰ク Marguerite 19 Decembre 1855 16 Juillet 1891 a bientôt Georges 29 Avril 1837 30 Septembre 1891 Ai-je bien pu vivre 2 1/2 mois sans toi! 武乱将軍気取てますね 此の墓ヲ見てからカンブル公園ヲ一周りして宿屋ニ帰る 時ニ六時頃也 田中も帰て居り久米もやつて来た 一緒ニめしヲ食ふ 田中が去年酒井 河北等ト和蘭などを倹約主義で旅をした時の奇談ヲ話ス 武律悉ニ帰り松方 久米トウエベルさんへ行く 十時半頃久米と手ぶらで仏国軒へ飛込む 行李ハ松方の内へ置

1892(明治25) 年7月26日

 七月二十六日 火曜 (ベルギー・オランダ紀行) 今朝十時頃ニ起キ宿屋の煙草部屋で日本へ出ス手紙ヲ書く それからぶら付 博物館ヲも見ル 三時頃ニ相場会所のわきのDubois屋で冷肉の鷄ト干豚ヲ食て昼めしヲごまかす 其レから和郎の内へお見舞ス 和郎出来る 皆さんお留守との事也 和郎の妹さんの内ニ名札置ニ行タ 松方の処ニ帰る 和郎六時頃ニやつて来た 又久米ト田中の田舍にめし食ニ行く 食後皆と一緒ニ散歩シ又御酒ヲ頂く 十時頃ニ武律悉ニ帰ル 松方氏の内の奴等と話などし又西洋汁粉の御馳走ニ為ル 今夜ハ此処(松方氏宅)ニ御厄介

1892(明治25) 年

 七月二十六日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉大賀候 文蔵様も新二郎と共に米国へ御越の由跡ハ御淋しく相成候事と奉推察候 文蔵様ニハ全くの御漫遊ニ御座候也 いづれ来年の大博覧会頃迄ハ御滞在の事と奉存候 今朝久米氏無拠用事出来白耳義国ブリユクセル府へ一寸被至越事ニ相成候故よき機会と存松方 田中 中村氏等へ面会の為急ニ思ヒ立ち二三日泊ニて一寸当地へ舞ヒ来候 松方氏ニもいよいよ来る十月頃ニ帰朝被致事ニ候 巴里にて加藤氏ニ面会直左右など承り大ニ安心仕候 御方ニて私稽古の都合等能ク解らざるが為御心配の御様子ニ承り候 私の望と申ハ折角出来懸り居候芸故可成ハ一と通りの仕上げ仕度事ニ御座候 已ニ新二郎も洋行シ其上私ハ最早十年近くも気儘ニ修業致し候事故そんナニいつ迄も稽古々々と計り云ひ居る事もいかニも無理なる次第 依而来春五月の共進会ヲ今一度試みたとへ受取られても亦受取られずとても其共進会後六七月頃ニハ一と先帰朝の事と致し可申候 以上当時私の心底ニ御座候 其の積ニて勉強相仕候間左様御承知被下度奉願上候 二百五十円の為換券慥ニ相届き申候 御礼申上候 加藤氏より日本当時の美術家連の相様等委く承り候 私共日本の世界ニテ如何致し候へば生活の道相立可申也実に心細き儀ニ御座候 此の地ニハたとへ貧乏ハして居ても実力ニ富たる人多き事故学芸知らず識らず進み楽み其中ニ在る事ニ御座候得共日本などニてはへたの寄合ひ至当の評をさへ得るニ難ク段々へたニ為り行く計りと考へ候へバ師匠も何もいらぬ位の腕前ニ為らぬ前ニ此の地ヲ去る事ぞかなしき儀ニ御座候(中略) 来年の共進会の為ニグレ村ニてかき掛居候夏の画色々工夫の末川辺の冷の体一と先取り止メ野原の木蔭と致し候 川辺の冷ニハはだかのものが無クては面白ク行かずそれニ付てハ金の都合甚ダ悪しき故之レハ他日金持ニ為リたる時の事として身分相応のものを相始申候 其画段々進み申候 御安心可被下候 余附後便に 早々 頓首 父上様  ブリユクセルより 清輝拝

1892(明治25) 年7月27日

 七月二十七日 水曜 (ベルギー・オランダ紀行) 昼めし前ニ三人連で古道具屋ヲひやかしニ行ク 松方氏の気ニ入たリユバンスの画ヲ見ニ行たのサ いよいよ其画ヲ百仏位ナラ買ふ可しと云事ニなり久米と三時半頃より其談判ニ出懸く ランブラントの小ナ画一枚副て百十仏ニやつゝけ其レヲ持て相場会所のわきの茶屋ニ行き一杯やらかし後松方氏の処ニ帰る 和郎が来て居る Pprtes de Loavoinなる旭門軒へ三人連で夜食に行く 九時半頃より仕度してウエベル家へ出懸く 二番目の娘ポーリヌさん伊吉利斯国より帰て居る つらつら此の一家の風を見るニ娘さんなども色気付たる様ニ為て面白からず 婆さん拙者等ニ対する振舞三四年前ニ比すれば深切の風少し いやニ気取タル処ハ金が出来て来タからの事 時と云者ハ人の心を変らしむるニ大事な者也と云感を起サしむ 第三番目の娘小僧なんかハ庭の隅の小屋のうす暗き処で士官学校の生徒とも云可き小びつちや野郎と手ニ手を握り合て居たる如きハ俗の極 お婆さん若キ画かきなどを三四人も集めて美術家ヲ保護するなど斯様ナルチヤンチヤラ可笑し □(原文不明)を咄も我娘の身持ヲ打ちやらかして置くのハ乍失礼お間違でしようよ 今迄ハいい婆さんだと思ていたがもういやニ為た をれの心も随分変り易いもんだナ 今夜も松方氏方のお亭主殿及ビ其お娘さん等の処で一寸話す シトロン水のお馳走ニあづかる 甘かつた 又此処へ一泊

1892(明治25) 年7月28日

 七月二十八日 木曜日 (ベルギー・オランダ紀行) 久米と古道具屋ヲひやかす 松方氏次郎公を連て来る 久振りで次郎公ニ逢たら中々大く為て居るわい テニエの画がほしかつたが安くまけないから止て帰る 昨日の如く今日も此処で昼めしの御馳走 しやけの魚を日本の醤油で煮タルなど味ヒ妙也 感心ナのハ此処の内の娘さんさ 小シモ高振らず松方の部屋ニ食事の用意などいつも自分でやらかす 只の話しも物知りの様ナ事ハ云ハずおまけニ面も体の形も十人並み おつと白耳義国の様な不別品揃の国ニ取てハ美人の内ニ入ル可し 先づ此人などが今度の旅の記念として永く残るだろうよ テニエの画がなんだかほしい おとつあんニ日本ニお土産ニ持て行クのに買て置うかナ もう時がねへ 松方氏へ金ヲ残して其買入方ヲ頼で置キ四時少し前の汽車で地南へ向て立つ 松方氏のおかげでミユーツとした様ニ為て居た気分がよく為たわい 又巴里へ帰たらミユーツと為るか知らん 田中の居る田舍の前を通る少し前で気車がごつんと来て動かなく為た 驚くナ驚くナ衝き当ツたんでもなんでもネへ 何ニかゞ切レたのだそうだ 一寸つくろつて田中の村の停車場迄引テ行キ此処で一とつ後の車ニ乗り移る事サ 此の位の事でも日記の種と為る ナミユールで又車ヲ替ユ 今度ハ御規則ニ従たのだ 六時十五分頃地南へ着 地南ハ白耳義の箱根也 切りへずつた様ナ山がニユーツとして居て其前ニ無洲〔ムーズ〕川が流て居る次第よ 町ハ川の右岸で山ヲ背ニして建たものさ 一番目に付くのは橋ヲ渡て直左の隅ニ在ルお寺也 塔が山と丈くらベヲして居る 山の上ニ建タらもつと高く為たろうニアハヽヽヽヽ 宿屋の数も多い様ダ オレなんかハ橋の手前の Hotel des Postes 郵便楼ト云のニ這入タ 家来共皆大礼服也 部屋の窓からノ長目ハ川が足の下山が鼻の先也 七時のめしと聞く 時間が充分に有ルから村ヲ一通り見物す 但シ寺より左の方の貧乏町の方を見た 夜食後川辺の縁がわで豆茶ヲ被聞召ナガラ松方氏へ一筆やらかす 後又町へ出で本通りヲ見物す 細工物ナド商ふ家多し 土産としてつまらぬ箱切など手ニ入る

1892(明治25) 年

 七月二十八日附 ディナン発信 父宛 絵葉書 本日午後四時頃の気車ニテ久米氏ト共ニブリユクセル府出発此の地南ト申邑ニ参り候 今夜ハ此処ニ一泊明朝ハ彼の普仏戦争ニテ有名ナルセダンヲ見物仕明後日頃帰巴の積ニ御座候 此の地南ハ温泉ハ無之候得共先ヅ一寸日本ニて申さバ箱根の湯本の如き処ニ御座候 箱根細工の如きものなども処々の店先ニならべ有之候 以上  清輝拝

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