1892(明治25) 年4月22日


 四月二十二日附 グレー発信 母宛 封書
 一ふで申上度候 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのよしおんめでたくぞんじ上度候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてこのごろハまたまたいなかにひきこみをりべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのびんから父上様へ申上ましたとうりことしのきようしんくわいニてハまことニぶしびなことニてめんもくないことでございます どうもこのつらでにつぽんへかへつていくのハいかニもざんねんでたまりませんからかへるまでのうちニぜひなニかもう一まいかいていこうとおもいせつかくほねをおつてをります(中略) わたくしももうそんなニいつまでもこゝニをるわけニハいきますまいからをそくもらいねんハかえつていきます それともまたひよいとことしのうちニかへるかもしれません なニもかもおかねしだいです くめさんハどうしてもこのあきごろニハかへつていこうとゆつてをります いまハただにつぽんからおかねがおくつてくるのをまつてをるのです わたしもくめさんと一しよにかへるようなつごうニなれバとちゆうもさみしくなくてよいがとかんがへてをります ことしのうちニかへるようニなるとたゞざんねんなのハきようしんくわいではねられたまゝでかへつていくのですからこゝろもちがわるうございます いままでこゝにをつたにつぽんじんできようしんくわいニうけとられたのハわたしのほかにふたりをりますがそのふたりのひとたちもみんな一どうけとられたばかりで二どめニははねられそのまゝでかへつてしまいました わたしもいまのまゝでかへつていけバそのひとたちとにたりよつたり そのひとたちハおかねがつゞかずニかへつていつたといふことができますがわたしハそうゆうわけでハないのですからわたしのほうがまけニなります こればつかりハかへすがへすもざんねんしごくでございます くめさんはひとりむすこのうへにおつかさんがもうよほどまへからごびようきだそうでぜひもうかへつてきてくれとおつしやるそうでこちらニじつとしていてゑをかくきニもならずどうしてもかへつていくほうがましだろうとゆつてをります いよいよことしのうちニハかへつていくニハちがひハございますまい あたしがかへりましたらご一しよニかごしまニくだりましようからたのしみニしてまつていてくださいまし こんどハまづこれぎり めでたくかしく
 母上様  新太拝
  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

同日の「久米圭一郎日記」より
沙カキ 夕方コラン氏ヲ訪ヒ共ニオスマン通リブロンドーノ宅ニ飯喰ヒニ行ク 後又錦絵ノ説キ明シヲ為シ又球コロガシヲシテ遊ブ 十二時過帰寓四月二十二日