1892(明治25) 年7月26日


 七月二十六日附 ブリュッセル発信 父宛 封書
 御全家御揃益御安康奉大賀候 文蔵様も新二郎と共に米国へ御越の由跡ハ御淋しく相成候事と奉推察候 文蔵様ニハ全くの御漫遊ニ御座候也 いづれ来年の大博覧会頃迄ハ御滞在の事と奉存候 今朝久米氏無拠用事出来白耳義国ブリユクセル府へ一寸被至越事ニ相成候故よき機会と存松方 田中 中村氏等へ面会の為急ニ思ヒ立ち二三日泊ニて一寸当地へ舞ヒ来候 松方氏ニもいよいよ来る十月頃ニ帰朝被致事ニ候 巴里にて加藤氏ニ面会直左右など承り大ニ安心仕候 御方ニて私稽古の都合等能ク解らざるが為御心配の御様子ニ承り候 私の望と申ハ折角出来懸り居候芸故可成ハ一と通りの仕上げ仕度事ニ御座候 已ニ新二郎も洋行シ其上私ハ最早十年近くも気儘ニ修業致し候事故そんナニいつ迄も稽古々々と計り云ひ居る事もいかニも無理なる次第 依而来春五月の共進会ヲ今一度試みたとへ受取られても亦受取られずとても其共進会後六七月頃ニハ一と先帰朝の事と致し可申候 以上当時私の心底ニ御座候 其の積ニて勉強相仕候間左様御承知被下度奉願上候 二百五十円の為換券慥ニ相届き申候 御礼申上候 加藤氏より日本当時の美術家連の相様等委く承り候 私共日本の世界ニテ如何致し候へば生活の道相立可申也実に心細き儀ニ御座候 此の地ニハたとへ貧乏ハして居ても実力ニ富たる人多き事故学芸知らず識らず進み楽み其中ニ在る事ニ御座候得共日本などニてはへたの寄合ひ至当の評をさへ得るニ難ク段々へたニ為り行く計りと考へ候へバ師匠も何もいらぬ位の腕前ニ為らぬ前ニ此の地ヲ去る事ぞかなしき儀ニ御座候(中略)
 来年の共進会の為ニグレ村ニてかき掛居候夏の画色々工夫の末川辺の冷の体一と先取り止メ野原の木蔭と致し候 川辺の冷ニハはだかのものが無クては面白ク行かずそれニ付てハ金の都合甚ダ悪しき故之レハ他日金持ニ為リたる時の事として身分相応のものを相始申候 其画段々進み申候 御安心可被下候 余附後便に 早々 頓首
 父上様  ブリユクセルより 清輝拝

同日の「久米圭一郎日記」より
十時比起キ出デ日本ヘノ手紙ヲ認メ加奈他便ニテ出ス 十二時比宿屋ヲ出デ博物館ヲ見又市中ヲブラツキ靴其他買物ヲ為ス 三時比ブールス側ノ珈琲ニテ食事シ夫ヨリ和郎ノ家ヲ訪問 今日モ亦七時比ノ汽車デワテルマ田中氏ニ逢ヒニ行ク十時比帰リ松方氏宅ノ厄介ニナル七月二十六日