本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年3月13日

 三月十三日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて本日田舍より巴里へ参り申候 共進会への画も昨日迄ニてかき上候 今より四五日の間ハ出品の都合かれこれニすこしあちこちせねバなるまじと存じ余は附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年3月20日

 三月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたしハまことニまことニたつしやにてこのごろハぱりへかへつてをりましてがつこうでべんきようをいたしてをります どうぞどうぞごあんしんくださいまし またぢきニいなかニいくつもりです きようしんくわいニだしますゑもとうとうかきとりましてがくニいれてきのふだしました せんせいニもこないだもつていつてみせました せんせいのおつしやるのニはできがかなりいゝからたぶんうけとられるだろうとのこと もしせんせいのおかんがへどうりニうけとられますようなつごうニなればよいがとおもつてをります またもう二三ねんもべんきようしたならたいていよくかけるようニなるだろうとせんせいのおつしやることです そうゆうわけですからどうしてももうすこしハこちらニをつてべんきようをいたしたいものとぞんじます 父上様ニもわたくしがもうすこしゑがじようずニなるまでハこちらニをいてくださるおかんがへのよしまことニありがたいことでございます わたくしもせつぺべんきようをしてなるべくはやくじようずニなるかんがへです うちのおとなりとかのたなかさんといふおかたもおつきニなりましたとのことニてそのびんからおくつてくださいましたけつこうなものハ二つゝみともこうしくわんにをいてございましたからうけとりました たなかさんニハまだおめニかゝりません あなたさまからのゆうぜんのきれはまことニきれいなものです これハことしのなつおんなのきものニしたてさせましてそれをだれかにきせてそのゑをひとつかこうとかんがへてたのしみニしてをります(後略) 母上様  新太

1891(明治24) 年3月27日

 三月二十七日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気ニ御座候間御休神可被下候 先便より母上様迄申上候通共進会への画も全く描終り差出し置候 今ハ只審査役人等の考一つニて陳列品中ニ加る事ニ御座候間先つ運を天ニ任かして安心致し居候 尤教師ヘハ前以テ見せ申候処至極満足之体ニて少女窓之そばにて読書之図之方ハ多分受け取らるヽ様相成べく共進会之審査役人も此の画を断る様な愚ニハ非ざる可しなど申呉れ候間たとへ断られ候とても気分よき事ニ御座候 且当年ハ幸にして教師も審査役ニ相成候故十ニ八九迄ハ首尾よくはこび可申と奉存候 此ノ前之週間ハ巴里之学校ニテ勉学仕候得共此の週の始より又々田舍ニ帰申候 併し五六日前ニ二日程雪降リ申候 余寒強く其上思ふ様な好天気少なく只部屋の中ニテ少シヅツ修業致すのみ思ひの外勉強出来不申閉口之至ニ御座候 学資金も来月分として二百仏丈残り居候まだ安心ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 私額面ニハ日本字ニて記名仕候方日本人の画なる事直ニ知れてよからんと教師申候 なる程日本人故日本字ニテ記名する事尤の儀と存即ち如左記し申候  明治二十四年   源清輝写  源とか平らとか云姓を記すニハ何んとか云規則(昔からの習わしの如き)もありてみだりニ書く事などハ出来ぬ者ニハ非さるかとも考へ候得共区役所などへ出す書き物とハ異り画之事故源とする方一寸面白しと思ひかくハ記し申候 又他日私が人ニも知るゝ程の画かきニ相成候時とても黒田と無くとて源清輝とあれバ黒田清輝なる事明と存候 御序ニ源平などの姓字のつかひ方御教へ被下度奉願上候 鋤柄清雄様より御手紙被下候得共未だ御返事差上不申候間御尊公様より可然御伝声奉願上候 実ハ何ニも書て上る事無てそれが為延引致候 以上 共進会へ出品の為四方より持ち出したる額面の数ハ六千ニて其内僅ニ千八百程のみ陳列相成事之由ニ御座候

1891(明治24) 年4月2日

 四月二日附 グレー発信 父宛 封書 二月十八日附母上様よりの御手紙慥ニ相届難有拝読仕候 皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至極元気にて此の週間も亦田舍にて有暮し申候 五六日前一寸巴里へ出候時教師ニ面会仕候処私の画ハ共進会の方にて已ニ検査ずみニ相成油画二枚の内一枚丈ハ陳列品中へ加へらるゝ様都合相成候と申事ニ御座候 先づ之レにて一寸学校の試験ニ及第したる様な心地仕候 一枚にても受取られて仕合の儀ニ御座候 御休神被下度奉願上候 当地の共進会へ油画を出品せしハ日本人にてハ私三人目ニ御座候 尚一層憤発仕来年ハ今少シ上出来の者を出し呉んと折角工夫罷在候 余附後便候 早々 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年4月24日

 四月二十四日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたくしこといつもあいかわらずだいげんきにてやつぱりいなかにてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし らいげつのはじめからきようしんくわいがはじまりますからこの二三日のうちニぱりすニかへつていきませうとかんがへてをります そうしてらいげつぢうハことニよつたらぱりすでべんきようしようかとおもひますがまだしつかりとハきめませんよ こないだぢうハしじゆうおてんきがわるくそとでべんきようをすることなどハちつともできませんでしたがこのごろようやくおてんきがなをりはななんどもすこしづゝさきはじめました(中略) たつたいまうんどうをいたしましたときはたけのすみのやぶのなかニさくらのはながさいてをりましたのをみつけましたからすこしばかりつまみきつてもつてかへりました めづらしいせいようのいなかのさくらですからこのてがみのなかニいれておくつてあげます こちらのさくらハみんなこんなやまざくらみたようなはなです こんどハまづこれぎり めでたかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1891(明治24) 年5月1日

 五月一日附 パリ発信 父宛 葉書 三月十三日母上様よりの御手紙先日相届拝読仕候処皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 共進会も昨日開会相成候 私も友人二人伴ひ出掛け申候 中々盛なる事ニて出品人の外ニ招かれし人又銭を払て見物ニ来し人等総ニて昨日中ニ一万七千五百人とか来しと申事ニ御座候 金持ちの女子などハ新しくつくりたる春の被物を毎年此の共進会の開会の日より被始むるとか申事ニて皆々非常ニめかし居よき見物ニて有之候 男ハ大抵高帽ニて候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年5月6日

 五月六日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このまへのしゆうかんのげつようびにくめさんと一しよニいなかからかへつてまいりましてからハがつこうでたつた一どゑをかいたばかりでなまけてをります まるでなつやすみニでもなつたようなあんばいです それといふのもゑのはくらんくわいがはじまりましてそのかいぎようしきニいくやらまたぎんこうにおかねをとりニいくやら しやくせんをはらうやら こうしくわんニおかねをもつていつてあづけるやら それからまたにつぽんのゑをかいてくれとたのまれたのがありましたからそれをかいてもつていつてやるやらなにやらかやらにてなかなかいそがしく一にちたち二かたちしてとうとうまるで一しゆうかんあすんでしまいました どうもこんなことでハまことニいけません しかしもうたいていつまらないめんどくさいようじハすんでしまいましたからこれからまたいなかニひつこんでかきかけてをいたをんながよなべをしてをるゑなんどをかこうとおもつてをります くめもきのふぼあにゆびるといふいなかにたつていつてしまいました たつたひとりニなつてまことにさみしいことです それでもう一ときもはやくいなかニひつこみたくなりました いなかでハしじゆうひとりをりつけたもんですからひとりをつてもそんなニさみしいことハございませんがこのぱりすでひとりニなりぽかんとしてをるのハまことニいやです それでてほんでもやとつてまたなニかうちでかきはじめようかとおもひましたがまづこれもとうぶんおやめニしてとうとうまたいなかにひつこむことゝいたしました あしたのあさの九じごろのきしやでたつていきますつもりです(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年5月15日

 五月十五日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことこの一しゆうかんほどいなかニてべんきようをいたしてをります このごろハてんきもよくなりまたたいそうあつくなりました まるでもうなつです これからまたほねををつてべんきようをしなければなりません ことしハぜひなニかをゝきなものをかこうとおもつてをります をゝきなものをかくようニなりますとどうしてもゑかきべやをかりなけれバならないようニなります そうするとまたまたおかねがよけいニかかります しかしどうもしかたがございませんよ きのふハうしのゑをかきました なかなかおもしろいことです どうもうしなんかハじつとしてをりませんからなかなかむづかしゆうございます うしをかりてそのゑをかくのニそのかりちんをださなければなりませんよ 一じかんニにつぽんのおかねで十七八せんもとります なかなかたかいものです あさとひるごとすこしほねををつてべんきようするとぢき一ゑんぐらいとられてしまいますよ それですからなかなかうつかりとしてハをられません よつぽどべんきようしないとそんです こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし またかまくらニでもたびたびおでかけなさいまし かまくらニハかゞをりますかどうです

1891(明治24) 年5月22日

 五月二十二日附 パリ発信 母宛 封書 またぱりすへちよつとかへつてまいりました そのおんちにてハみなみなさまおんかわりなくおげんきのはづおんめでたくそんじあげまいらせ候 わたくしこともいつもあいかわらずげんきでございますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハやつぱりまいにちてんきがわるくなかなかそとなどでべんきようをすることなどはできませんしそれからこのごろハまたもうひとつゑのはくらんくわいができましたからそれをみるためかれこれニちよつとこゝにかへつてまいりましたのです あしたハせんせいのうちにいつてかいてきたゑなんどをみてもらいそれからあさつてハまたいなかへかへつていつてべんきようをするつもりです このごろハもうそちらでハもうよほどおあつくなりましたでしようとぞんじます かまくらなどハさぞよいことでしようよ こないだあるひとニにつぽんのゑをかいてくれとたのまれまして七八まいちいさなゑをかいてやりました そのゑハゑいりしんぶんのようなしんぶんのゑニでるそうです もしそのしんぶんがでましたらかつておくつてあげませうよ こないだにつぽんでじゆんさがろしやのてんしのむすこニきりつけてけがをさしたといふことがしれましてしんぶんニもいろいろなことをときどきだします そのじゆんさがきりかゝつたときのゑだとゆつてきみようなおかしなゑをしんぶんニだしましたからおくつてあげます まことニばかなゑです(中略) いなかでわたしのてほんニなつてくれたをんなのやつニしんもつをしてやるのニなにをやろうかとおもつてかんがへてみましたがなんニもくれるようなものハありません それからだんだんかんがえてみましたところがそのやつハまだとけいをもつてをりませんからとけいをひとつかつてやろうというかんがへがでました さいわいこんどにつぽんのゑをかいたのでおかねがすこしとれましたからこれさいわいとそのおかねでちいさなとけいをひとつかつてやりましたらおゝよろこびをいたしましたよ まづこんどハこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1891(明治24) 年5月29日

 五月二十九日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひおげんきのはづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハだいげんきにてべんきようをいたしてをりますからごあんしんくださいまし このごろハやつぱりいなかニをりますがまいにちおてんきがわるいのでそとでおもふようニべんきようをすることハできませんよ こんどハなんニもかいてあげるほどのことハございませんよ こないだひまのときニまたまたくさぞうしのつゞきをすこしうつしましたからおくつてあげます まだなかなかかんぢんなおもしろいところニハいきませんよ またそのうちニつゞきをかいてあげます けふまたしんぶんニでたにつぽんのじゆんさがろしやのひとをきるところのゑをおくつてあげます こちらのやつハにつぽんのじゆんさがどんなようすをしてをるかさつぱりしらないのです それからしんぶんニかいてあるのニハそのじゆんさのやつがふいニろしやのひとニきりかけたところがそのろしやのひとのいとこのぎりしやといふところのひとがつゑでそのじゆんさをうちたをしてしまつたとかいてございます いくぢのないじゆんさですねへ せつかくいのちをはめてやるのニつゑで一とうちニうちたをされるなんかんといふのハまことニこまりますよ こんどハこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし めでたしめでたしめでたしめでたし

1891(明治24) 年6月6日

 六月六日附 グレー発信 父宛 葉書 四月十九日附母上様よりの御手紙先日慥ニ相届き拝読仕候 皆々様御揃益御安康の由奉大賀候 次ニ私事至而元気矢張田舍にて勉強罷在候 先日より牛の画一つかきかけ候処已ニ殆ンド出来上り候間其れを持ち巴里へ二三日の内ニ出掛る考ニ御座候 而気晴らし旁風景研究の為久米氏と共ニ仏国東南境よりスイス国辺へかけて三週間か一月程旅行の見込ニ候 景色のよき地ごとニとゞまり画をかき何日ニ何地迄行着などときめる事ハせぬ積ニ御座候 巴里より五六十里の処迄気車にて行きそれから先ハぼつぼつ歩き進み可申候 気車ニてハ景色ハ見へ不申候 以上 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年6月11日

 六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 四月二十九日附御尊書五月三日附母上様よりの御手紙並ニ二百五十円之為換券等孰れも本日公使館ニ於て難有受取申候 其御地皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至而壮健先便より羽書を以て一寸申上候通久米氏と旅行の件愈実行致す事と決し去る八日田舍より引上来り此の三四日間ハ雨合羽及ひ沓等歩にての旅ニ必用な物品買入等ニ費し今ハ仕度も殆んど整ひ候間いよいよ明朝出立の事と定め申候 仏国の東独逸境ニボウジユと申山有之候 其辺の景色余程宜敷と申事ニ御座候間先一番ニ其地方を見物致しそれより時と金とのあまりがあれバ南ニ下りスイス国迄も入り込む覚悟ニ御座候 今月の末迄ニハ巴里へ帰り着申度者と存候 私田舍ニ色々とかきかけ置候画など有之就中昨年の夏かき始め候女の立たる肖像是非当夏中ニ描き上け来春の共進会へ持ち出し度それ故いつ迄も旅のみして居る訳ニハ行き不申候 夏と申ても九月の末頃迄の話にて今月中丸で旅にて暮すとして見れバたつた三ケ月間の事 其内より日曜とか祭り日とか又雨天等を差引く時ハ実ニ僅の時間ニ相成候 其中ニ大きな画一枚かき上るなど云事少し六ケ敷何しろ此の旅より帰りてから一心ニ勉強せずバ又其画ハ来年の間ニハ合ひ申間敷候 来年ハ此の肖像の外ニ今一つ何ニか出す考ニ御座候 当年の共進会も今月一杯にて閉会致し候 私ハ只出品を許されたと云迄の事にて褒美も何ニも取り不申候 沢山立派な画のならび居る処ニ出て見て始めて自分の力の足らぬ事を知り不具の身体を人ニ見られたる心地致し候事ニ御座候 今より四五年位の修業にてハとても思ふ様ニ出来る画かきニ成る事ハ六ケ敷只死後をあてにして気長ニ一生勉強するの外無御座候 学校の方も大抵当年かぎりニてつぶれ候様子ニ相成候 之レハ新入生少なく私の如き古き生徒ハ皆銘々勝手ニ田舍などニ引込み画をかく様ニ相成候故ニ御座候 沢山居候生徒の中にて米人一人と英人二三人ハ学校ニ行頃始終同しめしやにて食事など致し居候故交際も自ら親密ニ相成候 其後も其英人の中の一人と米人とハ田舍などにても折々取合ひ候 併しいづれも修業の身故今の如く附き合ひ居る事ハ暫時の事にて二三年の内にハ皆世界の四隅ニ引はなれて住ふ様ニ相成も知れず されバ御互ニ同じ学校にて学びたる身なる上親しく交際し来りたれバいつその事美術の博物館とも称す可き伊太利国をも共ニ打つれ立て見物し其上別れを告けたらバ此の上も無き紀念ニ相成可しといつか久米氏及び右両人の西洋人と田舍めぐりを致し候折ニだれか云ひ出し皆々大ニ賛成し遂に当冬ニ其旅をする事と致し候 皆も諸生の事故と時と金ハ常ニ少なく此の冬ニハ其旅ハ甚ダ無覚束候得共ことニよりてハ来春共進会開会後ハ実行するやも知れ不申候 私も帰朝前ニ伊太利国ハ一目見申度兼而望み居候事ニ御座候 特ニ友人等と馬鹿も云ひ又へぼ理屈などならべながら旅をすると云事ハ此の上もなき面白き事故是非共同行致し度候 而其旅もすみ候ハヾ一先帰朝致候様都合ニ致し可申候 樺山愛輔氏いつか病気ニて帰朝相成由跡にて承り候 最早此頃ハ達者ニ被相成候事と奉遠察候 余附後便候也 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年6月12日

 六月十二日 金曜 (独仏国境旅行日記) 巴里ニて十時半の気車ニ乗りをくれ儘よと思ひ停車場で一寸汁粉を戴く(汁粉とハシヨコラ也) それよりシヤラントン迄歩く シヤラントンで十二時二十分位の気車ニ乗る グレ村(拙者が昨年以来始終住て居る処也)の若者一人と乗り合せ四方山の話をしたり 其者ハ昨年の冬とか婚礼をやらかし今ハフオンテヌブローで茶屋の小使か別当かをして居る様子也 モントロウニ三時少し前ニ着せり 此処よりビルノーブ・ラ・ギユイヤール迄歩く 途中で女が日本流ニ子を背負て来るのを見た 西洋でハ中々珍らしいぞ 此のモントロウよりギユイヤール迄の道程日本の三里計 景色などグレ村辺と大同小異甚ダ面白からず おまけニ暑さが強く閉口した 此のギユイヤール村で晩めしを食た時ニ憲兵の野郎が来て拙者等の出で立ちをあやしみ何国の者だ独逸の者ぢやないかなんかんでべらぼうな事をぬかした おかしくてたまらない 日本の旅券と巴里寄留の書付とを出して見せてやつたら安心して行て仕舞い上つた 此処より七時十五分頃の気車でポン・シユール・ヨンヌ迄行く 此の村に明日より三日間の祭有ルガ為メ飾リ付ケ方などニ村中大騒ぎ也 宿屋ニ二軒程行て見たがどうしても留めて呉れぬニハよわつたぜ 止むを得ず大ニ憤発し小一里計り先きのミシユリ村へ向て発ス 今夜ハ始めての晩でハあるし又行先きのミシユリ村ニ宿屋が有るか無いか知れず 若し宿屋もなニもない処だつたら憲兵小屋ニでも行て留めて貰う様ニしよう それとも亦憲兵小屋もなかつたその時ハ運の盡とあきらめぐいぐい夜どうしニ歩くか又どこかニ野じきするより外ニ手ハなしと久米公と話し合ひ笑てハ居る者の入合の鐘もなり今ハ日も全く暮て仕舞ひ此の辺は川近くニてしめり気が強く野ニはかすみがかゝつた様ニ成り昼のあつさに引替へて余程寒く成て来た こういふ晩ニ外で夜を明かす事と本当ニ成て来てハたまらぬと心の内で思つた とうとう村ニ行着てうす暗い酒屋らしい処ニはいつてとめて呉れるか否と聞いた 台所みた様な処で女子男まじり四五人で酒のみながら話をして居たが其内の一人の男が亭主にて年の頃五十位わたくし共でハ御客ハとめませんが此の先ニ宿屋を営業ニして居る内が二軒ありますと丁寧ニ教て呉れたので先づ一と安心 即ち其二軒の内の一つのプーラールと云者の内ニ行てとまる 宿の亭主三十前後の若者ニて一寸開ケタ人物也 今夜ハ屹度虫ニ攻めらるゝ事と覚悟をして寝たが一匹も出てこず 此の上もなき仕合なりけり

1891(明治24) 年6月13日

 六月十三日 土曜 (独仏国境旅行日記) 朝四時ニたゝき起され仕度をして五時少し前ニ立つ 上天気なれど朝風寒し 静ニ歩て八時半頃ニトリギニ着す 郵便局有り 巴里の河北ニ久米公と連名の端書を出す 一寸休息 牛の乳など飲む ミシユリから此処迄の里数三里余 此処より気車の有るアルシユベツク迄四里程有り 気車の出るのハ十一時十三分だ 此の気車ニ乗りをくるれバ夕方迄待つか又終日歩くかどつちかだ どうしても此の気車ニ乗るが都合よしと云もんで九時少し過にトリギを立て一生懸命ニ歩き出した 何ニしろ二時間ニ四里の道をやらなけれバならずしかも日中だからたまらない 鳴呼苦しかつたあつかつた こんなニあつい思ひをした事ハ少ないぞ ダガとうとう十一時ニ行着た 体ハ丸で煮た様ニ成て仕舞た それから気車で十二時半ニトロワニ着た 此処ハ一寸名高い処で一通り大きなまちだ 先づ珈琲屋ニ立寄り麦酒をのむ 新聞屋の種取りが来て之レから何処に行くのだ 歩いて行くのか楽みニするのかなどゝ面倒な事を色々聞た みんないゝかげんにごまかして置た 又ボウジユ県の内ニハこう云ふ人の知らない名所が有るから是非行て見ろなんかんで深切らしく教て呉れたりした 変な男だ 後宿屋を見付け先づめしを食ひそれからだれやめニ一寸昼寝をやらかす 後ゆつくりと町を見物す 木造の古き家多く奇也 職人体の一物有りそうな変な面付きの少女を沢山見受た 拙者等が此処ニ着て脚半を付け包を負たまゝで宿屋をさがし乍ら町市をあちこちぶら付た時ニハ見た事見た事 併し人気ハ静也 悪口は聞かず 道など聞くと深切ニ教て呉るゝ也 夜食後も散歩した 巴里から出てもうこゝ迄来て見ると田舍風が吹て居るわい 奇体な者だ

1891(明治24) 年6月14日

 六月十四日 日曜 (独仏国境旅行日記) 今朝五時ニ起た 今度の宿屋ニも虫が居らず天下泰平 五時五十分の気車でシヨウモンと云処へ向テ発ス 今朝曇り天気也 気車ニ乗て行く心地白耳義国内でも旅して居る様だ シヨウモンニ八時半頃着 市中をへめぐつて見物す 一寸立派な市也 気車中で食ふ積で豚肉の腸詰とパンとを買た パン屋のばゝあが不挨拶な奴でパンを包む紙を一枚呉れろと云たのニ紙無しと云切て紙を呉れず よんどころなくパンを其儘で手ニさげて停車場ニはいつた 其様ハわきから見たらあんまり上ひんでなかつたに違ひなし 十時十五分頃ニシヨウモンを立てアンドロニ十一時少し前ニ着く 停車場を出て少し行くと又憲兵の奴が面倒をぬかした 画かきだと云た処がかんばんかきかペンき屋かと思ひくさつて今迄巴里で雇て居て仕事をさした親方の書付でも持て居るか又旅をするのに金が有るのかなんてぬかしやがつた 馬鹿な野郎も有れバ有るもんだ こんな奴はあんまり此の立派な仏蘭西国の名誉にはならなへぜ 此のアンドロで麦酒を一杯引懸けそれからぼつぼつ歩てマノワ迄行く 比の距里ハ僅二里計り 川など有りて景色一寸よし 今日ハ日曜の事故マノワの停車場ニ村の年頃のむすめ七八人めかし切つて来て居た いやニ思ハせ振て居たが皆へちやむくれ許り 村に取ての不幸也 三時半頃ニマノワを立てミルクールに向ふ 腹がへつたから途中のヌフシヤトウでパンと肉の冷へたのと酒半本とを買て気車の中で食た 其あぢわい実ニ結構 五時半ニミルクールニ着 宿をホテル・ド・ラ・ポストと極め荷物を其処ニ置て市中を散歩す 夜食の時妙な男と知り合になる 此の男ハ土地の者にてポールジヤコビと称す独り者なれど一寸立派な家など持て居る 年四十三歳にして此の三ケ年前ニ商売をやめ仕事せずして気楽ニ暮す 食後其者と散歩ス 町はづれの土手の上で十三四の子供四五人ニテ鼓弓やマンドリヌと云伊太利琵琶の稽古ヲ為シ居るを見る ジヤコビ其者等ニ命じて拙者等の為メニ一曲やらしむ 月も出居たれバ殊更面白く聞ぬ 此のミルクールと云処ハ楽器の名所ニして音楽を為す者多しと云 門前の小僧習ハぬ経読むのたとへの如く小供迄も音楽ニ達す 人無き静な処ニ集ひ合ひ月影ニ楽を奏するとハ随分高尚な遊也 後ジヤコビの家ニ行く 薬種屋也と云若き男一人来る 四人にて焼酎を飲み話す 其酒ハジヤコビの手製也 第一感心な事ハ其ジヤコビなる者の親孝行なる事也 造りたしの新築の家の間取など見せたる末古き家の方ニ導き其母様とおばさんとの肖像を見せ此の二人の人の恩忘れ難し 此の二つの額面ハ拙者所有物中の最モ大事な品也 若し火事でも有る時ハ他のものハ棄て置ても之レ丈ハ是非共持ち出す覚悟也と思ひ入てかたりたり 又立派ニ飾りたる古き寝台二つ有り 其寝台の上にて母様と叔母様とを失ひたれバ一生離ルヽニ忍ビす云々 欧人ニして之レ程親を思ふの情深き者ハ甚だ少し 後又四人ニテ少しく歩き茶屋ニ立寄り茶を飲む 音楽の教師なる老人一人来りて話しを為す 土耳古など見たる男ニテ話し一寸上手也 少しく物知りたる者と知られたり 十一時頃皆ニ別れて帰る

1891(明治24) 年6月15日

 六月十五日 月曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時の気車ニテミルクールヲ立ち九時少し過エピナルニ着ス 市を一通り見物し停車場前の料理屋ニテ昼めしを食ひ十二時半頃の気車ニテサンジエと云処へ向つて発ス 扨テ今見テ来たるエピナルハ兵営ナド有リテ一寸盛な処也 川のふちの公園地ハ夕涼みニ結構ならんと思ハれたり 又此のエピナルより東ニ行くニ従ヒ土地の高低次第次第ニ多く日本風の浅くして流れ強き川など有り面白くなる サンヂエニ着た時ハ二時半頃と覚ゆ 宿屋さがしを始むる前第一ニ珈琲屋ニ入る やがて一人の若者入り来つて拙者等のわきニすわる 其者ニ久米氏言葉を懸け画工にてロベルと云者此のサンヂエニ住むと聞きしが貴公ハ其画師を御存しなきやと問ひたるが始めにて色々と話しをやり出しとうとう其者が道案内をして其辺で一寸面白イ処を見せて呉れる事と為りたり 成程滝など有つて静かないい処也 其若者ハ建築学をやる者ニテ名をカリヤージユと云ヒ年ハ二十五歳也と云 深切ニ処処引廻し呉れ後ちロベルと云人の家迄教て呉れたり 言葉遣ひがツンツンして怒つたる者の如く又何事も心得て居ると云体裁一種のヘンコツと見へたり 其者ニ別れてロベル氏を訪ふ 扨て其ロベルと云人ハ一昨々年久米がバルスローヌの博覧会ニ行た時イスパニヤ国の或る処の宿屋ニて出逢ひ知合ニ為りたりと云 ロベル氏幸内ニ居り久し振りニ久米ニ逢ひたりとて大喜ひ今晩ハ一緒ニ食事ス可し 又宿屋も未だ極めずニ居るなら安くていゝ処を周旋す可し 併し今ハ少し用事が有るから乍残念共ニ散歩する事不能 今より夜食時迄ハまだ時も有れバ少しく市中などを見物し夕方になつて再び来らずやと云ひたり 故ニ拙者等ハ前ニ見ぬ処を見物ニ出懸けたり 其ロベル氏のおかげにてよき宿屋ニ入りたり 此の内ハめし屋が本職にて宿屋ハ内職と見へたり 又今夜のめしハロベル氏の御馳走也 深切な奴だ 食後共ニ大通りを散歩す 糸取の工場を持て居ると云老人ニ出合ヒ其者を伴ひ四人連にて珈琲屋ニ行く 其老人も中々さつぱりとしてよき奴也 今度ハ其老人がおごつた 仕合也 茶屋を出て老人ニ別れ後ロベルを奴の内迄送て行きそれから又久米と昼カリヤージユの案内で見ニ行た滝の有る処の手前の方からぐるりと一廻りやらかし宿屋に帰つた 途中で少し雨ニ降られた 寝る時ハ已ニ十時半頃也 今夜ハ久米と別々ニ部屋を取る 今迄ハ倹約の為メニ始終一つ寝台ニねたが今夜ハロベルが世話で部屋を二つ取たから別別ニねる事と為た 夜中ニ雨が強く降た

1891(明治24) 年6月16日

 六月十六日 火曜 (独仏国境旅行日記) 今夜八時ニ部屋を出でロベルと共ニ朝飯を食ふ 後ロベルを送り同人の門口迄行く 奴も今日より何処へか旅立をするとの事也 今日ハ此の地の市日の由にて大通りハ非常な賑ひ也 一番風が変て居て目ニ付きたるハ玉子やボール(牛の乳のねつた様なもの也 英語でバタと云)を売る者が道ばたニ狭きばんこをならべてそれニ腰を掛ケ自分が売物ニなつた様ニ行列して居る様子也 男も其中ニまじり居たれど大抵皆女也 此の近在の者共也と云 皆独り独りニ手さげ籠をひざの上ニのせて居る 其中ニ玉子など入れて居る籠のふたをあけて其中ニ両手を入れて居る者多し 僅か七人や八人こう云様ニしてならんで居るのなら左程目ニも立つまいが何十人とザラーリとして居るのだから中々奇だ 扨てロベルに別れてから町の後の小道の処を散歩し後鉄道の線路の先きの方から山ニ登る 昨日道案内をして呉れた若い男が此の山道のわきニあの政治家仲間で名高いジユルフエリ親爺の内が有ると知らして呉れた 多分此の家位が奴の家だろうと久米公と話して通た 山の頂上迄登るニは一寸汗が出たぞ 登る際中ニ雨が降而来た 実に大喜びで久米公と早速雨合羽を被た 切角立つ前ニ巴里で買て来た此の雨合羽を此の儘で持て帰つてハ残念だと思て居たがとうとう今日始めてぬらし安心した 山から下つて町役所の内ニ在る図書館ニ行く 昨夜飯の時其館長をして居る若き時は陸軍の大尉だつた七十近い老人ニロベルが引合して呉れ其上で図書館ニ在る珍らしき古き絵入の経文を拙者等ニ見せて呉れる様ニ其老人ニ頼た 即ち今朝十一時ニ見ニ行く事と其時約束をして置たから出懸て行たのだ ぢいさんが直ニ出て来て其お経を見せた 中々立派な書物だ そうして余程大きなもんだ なんでも開た時ニハ幅が三尺も有るだろうよ 十四世紀のもの也と云 十一時の約束だつたのニ山登りニひまがかゝり十一時半頃ニ行たもんだからぢきニ十二時近くなつた いゝかげんに其書物を見て後図書館内を一廻りし其大尉先生も共ニめし屋ニ帰る 此の時雨が強く降る ぢいさん傘なく雨ニぬれて平気也 拙者の合羽を被ないかと云て見たがいやだと辞つた さすがニ軍人であつた丈ハ有るぞ 昼後時が充分ニ有り別ニ見物する処も無いので珈琲屋に行きゆつくりときめ白耳義の田中 巴里の川崎 ボアニユビルのビルド等ニやる手紙をかく 後宿屋ニ帰り包をつくり又かみさんニ買入方を頼で置た当地名物の臭い味噌(之レハ仏語でフロマジユ英語でチイスと云ふ牛の乳ニテ製するものニして拙者等ハ味噌ト名く 沢庵と云てもヨシ)の折の蓋ニ番地をかき直ニ鉄道で送り出ス事が出来る様ニした 之レハ皆此の宿屋のかみさんの力だ 中々深切な尼也 其宿屋の名ハベスクリユグと云 其臭味噌ハ直ニ鉄道からフオンテヌブローの湯屋の三介ニ送てやつた それからしばらく散歩し昨日の滝の処ニ行て景色など写す ちようどいゝ時分ニなつてから引きかへし宿屋ニ立寄り亭主夫婦ニ別れをつげ包を取て停車場ニ行く 五時半の気車でゼラルメへ向て発ス 途中ラブリヌニテ車を替ゆ ゼラルメに七時過に着し停車場の前なるシヨンと云奴が持て居る宿屋ニ入る 亭主ハ女ニテ中々以テさばけためす也 宿屋の体裁ハ海水浴を一寸気取て居る 客人も二十人計り有り 皆田舍の城下の者の様な奴等で都風を気取りそこなつた変な者多シ いやニなるぜ 部屋の清潔な事ハ感心々々 新しい広い寝台ハ余程御意ニ叶た 夜食後湖水の縁など一寸散歩して九時半頃帰る 今夜ハ又久米と一緒ニねる 此の宿屋ハロベルが知らして呉れたのだ〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月17日

 六月十七日 水曜 (独仏国境旅行日記) 九時半頃より宿屋を出で池の右岸をぐるりと廻り向ふ岸ニ出た 此処で画などかくので一寸休だが不思議なるかな日本の糞のにほひがした 日本の糞と云てハ一寸ニわからぬが日本で圃ニこやしをかけると随分たまらないにほひがするがあのにほひの事さ 此の香を始てかいだ時ニハアヽ此辺でハ日本流ニ人糞を圃ニかけるかナアと思て久米公と話しをしたが之レから段々色々な処ニ行て気を付て見ると成程此辺ハ巴里近在とハ違つて人糞を使ふと云事が知れた 日本のこやしたんごとハ違てたらい見た様な平たい桶ニ入れる それから其桶の両わきニ鉄のわが付て居て其中ニ棒を二本通し二人でぶら下ゲて運ぶ也 一寸面白し さてそれから山に登りメレール滝を見る 其途中で久米公其滝から流て来る小川の中ニ片足ふみ込み閉口した 滝を見てから山の上ニ出て又下ニ下り一時頃山の向ふがわの谷川のへりの木の陰ニ成つたすゞしい処で弁当を遣ふ 其時水を飲ふとして川の中ニ石筆を落しそれを大急きでひらハんとして足をすべらし今度ハ拙者が両足とも水の中ニヅブーンとやらかした 久米公かたぎを打つたる気で大喜びをした 夫レヨリフエニーの滝を見ニ行く 其近処の百姓家ニ立寄り牛乳を飲む それより又山道をたどりてクルーズ・クートの滝を見る 其滝ニ行着く前ぢきそばの百姓家の処で仕事をして居た女の子ニ道を聞たるニ其弟と覚しき十歳計りの小僧いづこよりや出て来りはだしで前ニ立て案内す 感心な者と思て今日の会計を主て居る久米公が二銭呉れてやつた 此の滝よりグロスピヘールと云処迄行く 行着た時ハ六時半頃也 遠山の色合など云ハん方なし 其処の一軒茶屋ニて夜食を為す 値段おかつこう也 茶屋のかみさん小供の様なばゞあの様な変な奴也 十四五とも見ゆれバまた二十五六とも三十以上とも見ゆ 余程奇物也 八時頃同処を立ち出づ 山の上からゴロゴロゴロと落テ来てポコンと二つにわれて見ルと其われ目の平たく成て居る処ニ耶蘇のおつかさんが耶蘇をだいて居る像が天然自然ニ描テ有つたと云不思議千万天下ニ画工の御用無しと云便利な岩の前の処を通る頃ニハ已ニ夜ニ入り月が出て来た 九時過ゼラルメの宿屋ニ帰り着き茶を飲み而後部屋ニ引込む それから日本へ出す手紙を書んとしたるニ部屋の中ニブンブンと非常ニ音をさして飛び廻る蝿有り かんしやくニさわつていやニなる そこで久米と相談して其蝿を第一番ニ打ち殺した者が一銭取る事と極む 是レヨリ蝿を追ひ廻し寝台の上に上るやら何やら大騒きを始めたり とうとう拙者が蝿を一匹部屋の隅ニ見付ケテ打ち取り一銭久米より巻き上ぐ 暫くすると又ブーンと飛ふ者有り 奇怪千万拙者の打留メたる蝿ハ前の大将蝿ニ非ズ雑兵ナリと知れたれバ忽ち切角取た一銭の取り返へしを食たり それより久米公大憤発をやらかし一匹打ち取りたるニ之レモ亦雑兵也ける 大将の蝿ハ矢張平気で飛び廻る 千辛万苦遂ニ其首を上げたる者ハ拙者様也 一銭の銅貨を握て安心退陣す 時ニ十時過也 日本への手紙を書き取た時は已ニ十二時近くなつた 久米公ハ手紙を書て寝て仕舞た 二時半頃迄かかつてフオンテヌブローへ出ス手紙を書た 蝋燭が無くなつたからおやめニした〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月18日

 六月十八日 木曜 (独仏国境旅行日記) 昨日は此のゼラルメの近所の名所を見てあるいたが今日ハ之レから少し隔つた山々をへめぐる覚悟で包ハ此処の宿屋ニ頼み置き只雨合羽を一つ持て行く 朝十時頃ゼラルメを立つ 村を出で少しすると森有り 其中に平たき岩一つ有り 昔しシヤルヽマーニユと云白髯の生へた立派なこわい様な仏蘭西の天子がどこかの国を征伐して帰る時此処を通り此の大きな岩ニ腰を掛けたりとなん 総而昔シのゑらい奴ハ大抵皆岩だとか大木だとかを片身ニのこして行くのがくせなるが如し 又其岩や大木なんかニ必ズ手や足の跡を付て置く様だ シヤルヽマーニユの様な年代者の上ニ名高い親爺が残して置た片身の石の事だから何ニかのかたが付て居るニ違ヒなしと思ヒ色々見たが何にも無シ どう考て見ても腰をかけた時ニ尻の跡ハ付いたニ相違なけれど其跡の今日ニ存在せぬと云ふものハハハアー立つ時ニ大きな屁を一つひつて其尻の跡を吹き消シて行たらしく思ハる 千歳の遺憾とハ此事なる可し 此処ニ又一つの不思議有り 此の森ニ入るや否いかニも糞がひり度為た そこで又其シヤルゝマーニユの昔しを能々考て見て其時の有様やなんかを及ばぬながら想像すればシヤルゝマーニユぢいが此の森ニ入りたるハ全ク糞をひる為メニテ岩ニ腰打ちかけたるハ糞をひつて仕舞ひ安心して一寸憩ヒたるなり 併しそうして見ると今糞をひつて来てそれから五分も立たない内ニ尻の跡を吹き消す程の屁が出たろうかと云うたがいが起る そうなつて来ると拙者ハ歴史家でも医者でも無いから一寸返詞に苦しむわい 世間のもの知りニ聞て見ろと云より外ニ手はないぞ(中略) 此の森の下ハ川ニなつて居る 其川の縁迄下つて見た 谷川の風を為して居て一寸面白シ それより其上流に在るソウデキユブの滝を見る ロンジユメールの湖のコツチから行ケバ右岸を廻りルツールヌメールの湖を差して進む 其途ニて蜂三四匹ニ囲まる 一生懸命前後左右へ身をかハし秘術をつくしてとうとう三匹共たゝき殺した 非常な手柄をやらかした様な心地す 併し人と云者ハ弱いものだ 其蜂を殺したのハいゝが同類の蜂が仲間のかたぎ遁かすなよと攻て来ハすまいかと云念が起りなんとなく気味悪くなり早足ニて行き去る ルツールヌメールにて又滝を見る 茶屋へ行着たるハ一時頃也 此処にて昼めしを食ふ 名物のトリユウイツト魚を食ハせた 三時半頃立て山道を行く 又滝を一つ見る 之レより次第次第に昇り五時頃ニホネツク山の頂上に達す 此の山が此の近辺で一番高キ山ナりと云 其高さハ一千三百六十六メートル也(一メートルハ我三尺余也)成程其筈だ 此のあついのニ雪がまだ消えずニ残て居た 其雪の積て居る処を始メテ見た時ニハ何分ニも不意を食た事故驚た それから其雪をどうかして一つ食て見度いと云考が出た 此の辺の山ハ奇体ニテ仏蘭西ニ向つて居る方ハベラットして段々上る様ニ成て居るが独乙の方のがわはツーンと切ツた様ながけニ成て居る 其何十丈と云高いがけの上ニ雪が積て居るのだから一つすべるとそれこそ大変さ 其上此の辺ニハ木ハ一本も無く小さな草みた様な木みた様なものゝ枯れた様ニして居るのが一杯はへて居り其上を歩るくと只でもずるずるすべる まして崖の上の少し丸く為た処ニ行て之レから一つ足をふみはづすとおしまいだと思ふと猶更足が変ニ為る 併し何分ニも雪がぢきそこの処ニ見へて居るので一寸一とつかみ取て食ひ度為る 遂ニ大憤発脚半をはづし靴と足袋をぬぎす足と成り久米公と二人でごそごそはいながら下りとうとう拙者が先づそうといつて手をのばし二つかみ食た そうすると足のうらの辺からいやーなこそぐつたい心地がして来た こいつハたまらぬと思ひ大いそぎで又一握り取り久米公ニ渡し早々はい上つた 之レ亦奇談也 又其辺ニハアネモヌと云草花が沢山有る 今それが一ぱい咲いて居る 香ひよし 其アネモヌハいつか小さい時ニ都の城ニ行てよめじよと云のを見たのをかすかニ覚て居るがあのよめじよの種類だと思ふ 併しよめじよと云のハ紫の花で其花が散たあとが髪の様な風ニ為て居るのだと思ふが此のアネモヌの花は少し黄みを帯で居る白い花だ ホネツク山を六時頃ニ立ち山伝で国境の筋ニついて進む 此の山山の頂上が七十年以来仏独の国境と為て居る也 其国境と云印ハどうして付ケテ有ルかと云のニ丁度花壇か公園地などの中ニ付て居る道の様ニ幅二三尺計り深さ三四寸計りニ地が堀て道が付ケて有る也 そうして又其道ニ五六町も有るかと思ふ程ノ処毎ニ一里塚の如き角石の高さ一尺五寸位の柱が立て居る 其石柱の頭ニ線が一と筋掘り付ケテ有ツテ国境なる事を示し而又其柱の東西の両面ニハ仏国のフの字と独国のドの字が掘り付ケテ有るなり 凡ソ七時頃ニシユルフトと云処ニ着す 此処ニハ宿屋一軒有ルノミ 其宿屋ハ中々以テ立派也 亭主の野郎ハ日本デ云つたら士族のあがりとでも云ヒそうな奴でおせぢのない奴だ 下男など燕尾服にて給使す 其代りニお値段が少々張り舛 是非も無し 此宿屋ハほんの国境の処ニ建て居るから一足出れば直に独逸国だ そこで夜食後独逸国内を少しく散歩す〔図 写生帳より〕

1891(明治24) 年6月19日

 六月十九日 金曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時半頃シユルフトを立ち昨日ノ如ク国境ニ沿ヒ進ム 山又山也 はればれとしてよし タンネツク山と云ホネツクニ次クと云高き山をも打越へ一時頃ニラツクブランと云湖の有ル処ニ着く 此処ハ独逸領也 例の先の尖つた甲をかぶつた兵卒が四五人茶屋の庭先で酒を飲で居た 拙者等はそんな不意気な者共ニハかまわずいきなり茶屋ニはいつてめしを申付ケた どうもどうも待たせた事待たせた事それハそれハ非常さ そうする内ニ前に見た兵隊の内の一人がやつて来て拙者等の国元や職業なんかを取りしらべた 例の旅券を見せてやつたら安心して行て仕舞たなんとも別ニ面倒を云ハず丁寧ニ礼などして行た 先づ此の位の事ならかんべんしてやろう 仏国の此の前ニ出合た憲兵の馬鹿野郎よりも今度の独逸の兵士の方がはるかにましだ めしやのめしを持て来る事のながく懸るニハ驚き入つたもんだ 一皿持て来てから其次の皿迄ハ三十分もかかつたぜ おまけに銭が高い 勘定は独逸のマルクでやつてあつて仏のフランでハない 併しフラン銭も受ケ取る 仕合せ也 三時頃ニようやくめしをすまして立出で少しく行くと道のわきの木の陰の様な処ニ又兵卒が一匹鉄砲を持て休で居た なんとか独逸語でぬかした様だつたが拙者等ニハ通ぜすそれからおかしな調子で仏人でハないかと聞たから否と答へてやつたらよろしいと云て其儘通した 鳴呼まあなんと馬鹿げた訳でハないか 国境だとか兵隊だとかいやニなるぜ まあ国境ハともかくもこんなニ出はいりを面倒にするとハいかにも古風だ それより又国境ニ沿ツテ行く 森の中で道がよくわからなくなつたが方角が大抵付テ居たから安心して歩た とうとう本道を見付けた それから少し廻り道ではあつたがついでニ見て置く可しとルリユドランの滝と云のを見ニ行た 上と下と二つ有り日本なら雌滝雄滝と名づくるのだ 一寸見るに足る 六時半頃ルリユドラン村の宿屋ニ着く ロベル氏の教でおまへの処をたづねて来たと云たら余程よろこんだ様子なりけり 宿屋のばゞあ真ニいゝばゞあ也 まるで巴里近在のどこか始終行付ケた田舍ニでも行た様ニて我宿ニ居る心地す 安心々々 今夜は久米公と別々ニ部屋を取るぢやんけんをしたら拙者が立派な方の部屋に当た 此の部屋ニロベルの筆ニテ亭主夫婦の像有り 額ニして掛テ有る 久米公の部屋との境の戸を開ケたる儘ニして置く 此の方が広さも広し又寝話しニ便也 諸君よ諸君 吾曹ハ人心の共和安楽を主義とする者也 国境の兵隊馬鹿な憲兵面倒臭き御規則ハ好まぬ者也 云々 十時半頃休む 直き部屋の外を流れて居る谷川の音を聞ながらねるのハ妙也  谷川の音をまくらにいぬる夜ハあらしするてふゆめを見るかな  あらしかと驚きゆめはさめニけりまくらへ近き谷川の音

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