本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年7月29日

 七月二十九日 金曜 (ベルギー・オランダ紀行) 七時少し過ニ郵便屋ニ行キ電信一つと日本への端書ヲ出ス 帰て朝めしヲやらかしまだ時間が有ルので久米と町ニ出る 又名物の細工ものを買ふ 八時四十分頃立ち十二時過ニ世談駅ニ着ス 停車場中のめし屋で昼めしヲ食ヒ直ニ骨塚の有ル馬尻〔バセイユ〕村ヲサシテ行ク 道のり殆んど我一里計り 暑サの強キニハ閉口シタリ 久し振デ此んなあつい目ニ逢たわい 久米公ハ已ニ一昨年田中と此処ニ来タ事が有ルノダ 馬尻村で先づドヌービルが最後の玉とか云題で普仏の戦争の時仏人等がまけて一ツの小屋の中ニたてこもりたる図を此処ニてかきたりと云内ニ立寄り庭先の腰掛ニ休息シ麦酒ヲ飲む 此の内の奴等ハ戦のおかげでとんだ金もうけをやらかすわい なんとか云隊長が玉ニ当りながら寄り掛つたりと云茶棚又窓の硝子の破れたのや天井の玉のあとなど其時の儘ニ存ス 又此の家ニ鉄砲の玉や剣の折れたのや甲のくづれたのなんか種々さつたナものをひろひあつめて一室ニをさめ旅人ニ見せて御志ヲいくらでもよろしいと云て頂く 内の娘の十七八ニ為る美人ニ案内さして見物したり 又戦の時の写真一枚記念の為買入る 直ぼんニでも送てやろうと思ふ 此の茶店ヲ出て骨塚ヲ見ル 地下ニ穴蔵ヲ堀り骨をおさめ其上ニ塔ヲ立てたり 穴蔵の中ニ入れバ真中ニ通り一つ有り 鉄の垣ニテ前ヲふさぎたる部屋両側ニ並ビテ有り うす暗き体裁など中古の牢屋の如シ 各室の真中ニも通り有り 其両側に骨をならべたり 肉や衣類の付キタル儘の骨も有り 靴ヲはきたる足ハ多シ 髯のはへたる頭も見受ケタリ 穴蔵ヲ右と左ニ別チ右が仏兵ニテ左が独兵也 独の方ハ暗すぎてよく見えず こんな骨かすでも人の死ダのを見るのハ余りいゝ心地のするもんぢやネへ 歩て世談ニ帰り停車場前の茶見世で水ヲ呑む 甘い甘い 此処ヲ四時ニ立ツ 五時半頃ニ久米が一昨年二三ケ月住て居タダンゾールコンニ着ク 直ニ停車場前の宿屋ニ行ク それから久米の案内でダンの町ヲ見物ス 高台の乞食町の様ナ処古風ガアツテ一寸面白し 夜食ハ妙ナ俗人等ト一緒ニテ面白からず 併シ品数ヲ沢山食ハせるのニハ満足の至り 食後ゾールコン村ニ散歩ス 道の両がわニこやしニする藁ヲ積ミたれバ臭し 本当の田舍也 此の村はづれの土手の上ニ腰ヲ掛テ極遠方から此方へ向テ来る馬車の灯ヲ見て涼む 宿屋ニ帰り戸口の外ニ腰掛テ家内の者等と麦酒など飲む 今夜のあつさハ中々也 部屋のきたないのニ似合ず虫ハ居らず感心 其代り二階の部屋で餓鬼が夜中なき腐つて人ヲ困らせ上ツタ 又嵐がして神鳴りがなるやら窓の戸ヲばた付かすやらした

1892(明治25) 年7月30日

 七月三十日 土曜日 (ベルギー・オランダ紀行) 今日ハ朝からあつい 八時四十五分の汽車で立 停車場で教師コラン氏の従弟で久米が知て居る某氏ニ出逢ふた ベルダンニ十時ニ着く 荷物ヲ預て置テ町見物ニ行ク 兵営の在ル地故兵隊多シ 市中の茶屋ニ立寄り休息旁飲む 今日ハフラネルの繻半の上ニ上衣一枚引懸て居る計りだから昨日より少シハいゝ様ダ それでも中々あつい こまるこまる 停車場迄もどつて来て停車場中の料理屋でひるめしと出懸く 此処で此の近辺のある地の名物なる砂糖煮積ヲ一箱買テ三介方へ送る 十二時ニ立ツ 三時ニシヤロンニ着 此処ニ一時間のとまり有り 麦酒ヲ飲み又パンや豚の腸詰や此の地方の名物シヤンパン酒一本の四分の一など買入る 気車の中で食ふが為也 車ヲ乗り替へ四時ニ発し八時半頃ニ巴里ニ御安着 御車ニ被召て御宅へ御帰り 巴里でハ余程雨が降りたと見えて市中がぬれて居テいなびかりが盛ニやつて居るゾ 内に帰て見れバフオンテヌブローからの手紙が一本来て居た 又日本からの届物も持て来て有つた めでたしめでたし

1892(明治25) 年

 八月一日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事大元気にて一昨晩帰巴仕候 白耳義国ニては松方氏ニ厄介相成居面白く暮し申候 同氏も来る十日頃ニハいよいよ帰朝致被筈ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年8月10日

 八月十日 水 十二時十五分の汽車で鞠屋の為薬ヲ持て暮村ニ行ク 夕七時の汽車で巴里へ帰て暮より清泉迄森江老婆ト同道ス 里昂停車場ニて夜食 富貴楼の店先ニテ平田 曾我 桜田等待合す 共ニ午前二時頃迄ぶら付 当地名物のはだかの女郎屋等見物 今夜曾我 桜田氏方へ一泊

1892(明治25) 年8月11日

 八月十一日 木 昨日曾我の案内で平田サンドニニ行タリ 今朝平田が其サンドニの大砲製造所の事務所(Me Royaleニ在)ニ行キ度いと云ので行タ 桜田氏も一緒ニ行た 午後平田ハ桜田氏とエイフエル塔見物 又序に荷物ヲ内ニ取りニ行ク 僕ハ曾我と少しく町をぶら付油絵の見世などのぞく 余り暑いから曾我の内へ帰て休息 平田等も帰て来タ 平田ハ今晩立ツ積故早々と夜食ニ行 近所の安めし屋(Me Vivienne)で吸物など飲みながら今夜迄巴里ニ居ルナラ内デ日本のめしヲやるがどうだ それぢや居ようと云事ニ極まる 直ニめし屋ヲ出オレハ桜田と同道内に帰りめしの仕度をやる 平田も曾我と程なく来る 豚鍋のお馳走ヲ頂く 十時頃から諸生町ニぶら付あつちこつちで飲む 河北道介と新参の日本人二人ニ逢ふ 午前二時頃内ニ帰る 皆とごろ寝

1892(明治25) 年8月12日

 八月十二日 金 内の下の居酒屋で皆と十一時頃ニ玉子焼や牛など食ふて腹をこしらへる それから皆に別れて立つ 十二時十五分の汽車ニ乗り暮村ニ向ふ 平田ハ一時頃の汽車ニ乗てハーブルへ帰る積なりし

1892(明治25) 年8月14日

 八月十四日 日 今朝の便で曾我からの端書ヲ受取直ニこつちからも端書一枚出す 今夕七時の汽車で桜田が着て来た 宿屋ニもどこニも明部屋が無いので拙者の内ニ来て泊る 例のごろねをやらかす

1892(明治25) 年8月15日

 八月十五日 月 終日桜田と一緒也 晩めしニ奴の企で牛の汁にそうめんを入れて食ふ オレの内でやるのだから気楽此の上なし 二人共大はだぬぎでやつゝけた 若し夷人でも来上つたら随分驚くのだつたろうに 宿屋ニ部屋の明が出来たので桜田ハ今夜から宿屋ニねる

1892(明治25) 年8月16日

 八月十六日 火 朝の便で新二郎の手紙と巴里の御本城の門番から送て来た久米公からの電信ヲ受取ル ひる後の便で母上様へ手紙ト日記ヲ出し横浜開通社へ向ケ船積証書ヲ書留で送ル 又久米公へ端書で電信の返事ヲ出す 後桜田氏と釣ヲ試む 夜鞠屋方ニテ少しく話す 又桜田と散歩ス

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