1892(明治25) 年6月3日


 六月三日附 グレー発信 父宛 封書
 四月十五日附ノ御尊書并ニ二百五十円の為換券本日慥ニ相届き難有御礼申上候 先頃帰朝相成候諸氏ニも御逢ひ直左右御聞被下候由安心仕候 加藤恒忠氏トハ近々の内ニ当地着可相成と折角相待居申候 私の額画芝公園地内の油画展覧会へ相出し被下候由奉謝候 評判も不悪由面白キ事ニ御座候 尤も驚ク可きハ私の画などが大きなる者の内なる由 彼の画の如きは当地の共進会ニては小さ過て人の目ニハ付き難き方ニて有之候 日本と仏蘭西と油画の上手へたも大抵額の大小の差の位の者かと被察申候 当年共進会へ持ち出し候女の肖像と秋の景色も御送申上度存候得共何分運賃高く掛り候由承り候間当分差し控へ置候 いつれ其内金都合よき時分ニ御送り可申上候 当年ハ一層大きな者を描き申度已ニ其用意仕下画等相始メ申候 趣向ハ夏と云ものニて女子共川辺の涼き処の岡の上ニ臥ころびたり又釣などして居る体ニテ少なくも人の五六人ハかき可申候 教師も何ニか女の裸体の者を是非試み候様申呉候間右夏の画の中ニはだかの者も二三人入れ可申やニ存候 併し此の方は手本雇入丈ニ一ケ月分三百仏余(我百円近く)かゝり候故実行余程六ケ敷ものニ御座候
 新二郎の洋行もいよいよ極り候由大慶此事ニ奉存上候 米国と申処ハ知恵と忍耐と有る者ニ取てハ独立の道ニもとぼしからざる国の由兼而承り及候 新二郎も一通り学問致し候上ハ通常の洋行帰りの人の如く日本ニ帰りてつまらぬ学校の教師位ニ為て安心する様ナる小ナ事ハやめて何ニか面白き工夫を出し日本の旗を米国に立つる様ナ都合ニても相成候ハヾ家ニ取ても国ニ取ても此の上もなき名誉の儀と奉存候 之レハ口に云う事易くして為す事至而難ク候 併し今日ハ世界を我家ニして住う位の考ニテ事をせねバ兎ても西洋と肩をならべて行ク訳ニハ為り申間敷候 当地の或る有名なる著述家が世界廻りをしたる時の日記を読候処米国の或地方にて旧友某氏を訪ヒたる時の事を委しく記し遠く異域ニ来り幾多の辛苦を経て大業を為したるニ感じ之レガ真の武士也と誉め候 又其地方ニ十六と十九歳ニ為る二人の英人が主と為りて盛ニ農業を為し居るを見て驚き仏国の少年輩のいくぢ無き事を嘆き候 当地の公園地へつゞきたるシヤンゼリゼと申広き通りを何万てうと云馬車が行来して絶へぬを見ても西洋ニ金の多くして日本の文明ハまだ中々の事だと云の事の知られて残念至極と思はざるを得ざる儀ニ御座候 余附後便也 早々 頓首
 父上様  清輝拝

同日の「久米圭一郎日記」より
朝カラ博物館ニ出掛ケタ 昼飯ハヂュバルデヤル 博物館ヲ仕舞ツテカラ忠公ヲ待チ合セ石井ノ処ニ夕食ヲ喰ヒニ行キ夫レカラ石井箕作抔ト大急ギテ仏蘭西座ニ駈ケ附ケタ アタリーヲ見ル ムネシュクノ働キ大ニ感服ナリ六月三日