本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1890(明治23) 年9月12日

 九月十二日附 パリ発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくいられられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしハいつもあいかわらずだいげんきにてこの一しゆうかんほどまへニぱりすニかへつてまいりました これハまだかへりきりニかへつたのでハございません いなかであんまりおかねがいりますもんですからこちらニかへつてまいりましたのです またくめさんのいつておいでなさるいなかハやすいそうですからそこニいこうかともおもいましたがなかなかとをいところにてきしやだいがかたみちでにつぽんのおかねにいたしまして五ゑんのよかかりますからこのたびもやめてしましました もうなにしろおかねがすこしになつてしまいましたからよつぽどけんやくをしなけれバなりませんよ こんげつぢゆうはぱりすでくらすつもりでございます そうしてらいげつのはじめニまたいなかにいきましてせつかくかきかけてをきましたゑのしびをとるつもりでございます こゝでハあさのうちはせんのころかきかけてをきましたゑをあつちこつちつくじりましておひるごハはくぶつくわんニまいりましてゑをかきます まづこれであさのごつとおきからゆうがたのごじごろまでハなニかいたしてべんきようをいたしますからごあんしんくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1890(明治23) 年9月19日

 九月十九日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて近頃ハ博物館内の石像を油絵ニ写し勉強致居候間御休神可被下候 此の業ハ余り面白く無御座候得共手本など雇候時ハ金かゝり只今はなかなか左様の事出来不申候 学資も来月分ハどうかこうか続可申候 御安心被下度候 今月末か又来月始ニハ田舍ニ引込み勉強仕度考ニ御座候 当地本月始より晴天打続き候処此の二三日は又雨雲ニ御座候 はだもちハ秋ニ御座候 此頃ハ同宿の久米等皆離れ居候間淋しき事ニ御座候 夜食など毎夜書生町の方迄散歩ニ出懸申候 あるきながら歌など考へ楽み申候 一二首入御覧候 多分歌ニハ為り申間敷候(以下欠)

1890(明治23) 年10月1日

 十月一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)こんにちまたこのいなかニまいりました こんげつぢゆうハこゝにをつてかきかけてをいたゑをかくつもりでございます おかねハもうすこしつきりやございませんからもしなくなりましたらくめさんにでもかりましてべんきようをしようとぞんじます おとつあんにもどうぞそうもうしあげてくださいまし なにしろけつしてごしんぱいはめしもすな(後略)

1890(明治23) 年10月10日

 十月十日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家様御揃益御安康奉大賀候 私事至極壮健田舍ニ於て勉学罷在候間御休神可被下候 四五日前より河北と申人当村ニ来居られ候間仲間出来面白く暮し居申候 去五日ハ日曜にて独りにて淋しく近在遠足と出懸昨年夏一寸宿仕居候ボアニユビルと申候処迄参り其処ニ一泊翌日帰申候 其ボアニユビルハ此のグレより六七里位の処にて御座候 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 

1890(明治23) 年10月16日

 十月十六日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひいつもごきげんよくいらせられますでしようとおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハいつもながらげんきにていなかでやつぱりべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハこちらもよほどさむくなりました きのはもだんだんとちりますのでいなかのけしきハすこしハよろしゆうございます やつぱりまいにちてほんになるひとをやとつてゑをかきますのでなかなかおかねがいります このごろはおかねがきれかかりましたからくめさんニいくらかおかねをかしてくれとゆつてやつてをきました もうまたそのうちニかわせもついてくるだろうとまづあんしんしてをります こんどまたあたらしくひとつゑをかきはじめようかとおもつてをります そのゑハのばらでおんながうしをかつてをるところです これハまだかきはじめませんがいまかゝなけれバもう十五日もするとさむすぎてそとニひとをたゝしてをいてかくことなどハできないようニなるだろうとぞんじます ことしハずいぶんたくさんゑをかきかけましたがこれこそハとゆつてじぶんのきニいつたようにできたのハございませんけれどもなるべくひとなみニなるようニほねををつてべんきようをいたしますからごあんしんくださいまし てほんニなつてくれるをんなニやるををきなゑも三四へんかいたばかりでそのままニなつてをります もうこのごろハさむくなりすぎましたからとてもそのゑをかくことはできません なぜならそのゑのてほんニなつてくれるやつがなつのきものでうちわをもつてにハニたつてをるところですからこういまのようニさむくなつてハなつのきものでそとニたつてをるわけニハいきませんよ この六日からゑかきともだちのかわきたさんといふひとがきてをりましたからにぎやかでよいことでございましたがあしたぱりすへかへつていくそうです そうするとまたあとハまことニさみしくなるだろうとぞんじます なんだかにつぽんのことバではなしをしないとせいようのことばでハしんからはなしてをるようなこゝろもちがいたしません そのうへにつぽんじんのともだちがいないとわるくちやぢようだんなどをいふあいてがなくてまことニさみしゆうございます まづこんどはこれだけ めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまによろしく ぐらしゑらのはなしのなかニわからなところがございましたらなんばんめのたいていどのへんだとゆつてくだされバまたなるべくわかるようニかきなをしてあげます〔図 写生帳より〕

1890(明治23) 年10月24日

 十月二十四日附 グレー発信 父宛 葉書 九月七日附母上様より之御手紙慥ニ相届き難有拝読仕候 御全家御揃益御機嫌よく被為居候由奉大賀候 次ニ私事田舍にて不相変勉強罷在候間御休神可被下候 かきかけ候画も段々首尾取れ申候 冬ニならぬ前ニ一つなりとも是非かき取度者と存折角勉強仕候 此頃ハ全ク秋にて景色もよろしく候 御地の景色もさぞかしと思ひ罷在候 霜も度々置き候 今尚一月位ハ是非当地にて勉学仕度考に御座候 巴里学校の方も稽古ハ相始メ候由ニ御座候得共生徒は三四人ニ過ずと申事ニ御座候 生徒中英人にて一人上手の者有之候得共当年ハ学校仕事をやめ独立して画を学ぶ積りの由ニ候 其他の者も上手(学校にて)の分ハ大低独立致し候様子故当年ハ学校至而淋しく相成候事と存候 私も当年ハ例の共進会の方の画を第一と致し学校の方ハ第二と致し候 併しこの冬中ハ矢張学校にて勉学の積ニ御座候 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年11月28日

 十一月二十八日附 グレー発信 母宛 封書 ますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハいつもあいかわらずたつしやにてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし おとゝひのあさおきてみましたらまつしろニゆきがつんでをりましたのでまことニうれしくそれからさくばんもゆきがふりましたからなかなかいなかのけしきもよろしくなりました これがまづことしのはつゆきでございます さくばんハあんまりゆきのふるけしきがよろしゆうございましたからすこしおそくなりましたけれどもよるの十一じごろからそとニでましてゆきのけしきをすこしかきましたがずいぶんさむくゑのぐニゆきがまじつてこをつてしまいなかなかかきにくゝそのうへてがかぢかんでしましましたからうちへかへつてねてしまいました こんにちもけさ九じすぎから十一じはんごろまでゆきのなかでゑをかきましたがけさのほうがさくばんゆきがふつてるさいちゆうよりさむいようでした さむいとゆつてもてがつめたくつてはなみづがたれるくらいんことにてゑをかくおもしろさニはかへられませんよ こんなニさむいときなどニおもしろそうに一しようけんめいニなつてゑをかいてをるやつをゑをかかないひとがみましたらさぞばかげてをるだろうとおもハれます らいげつニなりましたらぱりすニかへりましてがつこうですこしべんきようをいたしましたらまたらいねんニなりましたらこゝニやつてくるつもりです こゝのいなかのけしきハなつよりもふゆのほうがよつぽどよろしゆうございます ことしのなつてほんニなつてくれるこゝのむらのをんなのやつのつらのゑをおゝきくかきかけましたがたつた二三どかいたばかりでわたしハちよつとぱりすへかへりそれからまたまいりましたときニハもうさむくなつてかくことができませんようニなりましたがそのゑをどうかしてかきあげてしまいらいねんのはくらんくわいニだしたいもんだとかんがへてをりますがなにぶんニもそのがくハをゝきくてそとでかくかまたゑかきべやでもかりてそのなかでかくかどうかしなけれバいけません それゆへらいはるニなつてこゝニまいりましたときにハすこしおかねハかゝりますがぜひゑかきべやをかりてそうしてそのおゝきなやつをかいてしまをうとおもつてをります こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし みなさんへよろしく

1890(明治23) 年12月5日

 十二月五日附 グレー発信 父宛 封書 十月十八日附母上様よりの御手紙先日相届難有拝読仕候 御尊公様御始メ皆々様益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 明後日当地出発巴里へ帰り十二月中ハ学校にて修業仕来年早々又又当地ニ参リ毎度申上候通共進会の用意ニ骨折申度考ニ御座候 只今殆んど出来上り候画油絵具にて四枚炭にて四五枚有之候 皆今度巴里へ持ち帰り教師ニ見せ同人の評を聞候上又当地ニ持ち来りて仕上可仕候 来一月ニハどうかして食料の今少し安く上る様工夫仕画かき部屋一つ借り入れ当夏一寸と画きかけ候手本の大きな像ニ専ラ力を入れ度存候 其外ランプの前にて婦人針仕事の図今一つ相始メ可申候 私夜の図を油画ニ描候事未ダ無之候間一層面白事と楽居申候 当地已ニ雪二三度も降り申候間雪の景色なども試み申候 当地ニハ余リ面白き景色無御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 学資も一月中ハ大抵充分ニ御座候間御安心被下度候

1890(明治23) 年12月12日

 十二月十二日附 パリ発信 父宛 封書 十一月二日附之御尊書慥ニ相届難有拝読仕候 益御安康之由奉大賀候 元老院も廃院ニ相成今後ハ貴族院開院中の外は御暇ニて御気楽此上も無き儀と奉存候 教師注文の植物菖蒲丈ハ時節よろしく早速送り方御都合被成下候由奉謝候 教師ヘモ其旨通し置候 田舍ニて描申候油画四枚程今日教師ニ見せ申候処殊の外満足の体にて進歩見へ候と申候 其四枚の中窓の内にて女子読書の図尤も気ニ入リ候 一二ヶ所出来悪き処を直し候上是非来春の共進会へ出品致す様申呉れ候 尤も其画の趣向等年寄の画工達の気ニハ入らぬかも知れず候故共進会へ持ち出し候て審査の時ニハねらるゝもハかられず其辺の処ハ覚悟す可しと教師も申事ニ御座候 私の歌態々御直し被下難有厚御礼申上候 又々何ニか思ひ付申候時ハ入御覧可申候 てニはと申者ハ誠に六ヶ敷ものニ御座候 併しそのてニはが日本語の基礎ニ御座候故少しなりとも是非知リ度望ニ御座候 我国の言葉を知らずと申てハはづかしき儀ニ奉存候 巴里へ帰リ申候翌日より学校にて稽古始メ申候 此の儘にて四週間程勉強仕夫レより又々田舍ニ引込みかきかけの画の直し方などニ骨を折度考ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様へよろしく御伝言奉願上候

1890(明治23) 年12月18日

 十二月十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらげんきにてこのごろハがくこうでべんきようをいたしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろのこちらのさむさハずいぶんつようございます(中略) さてわたくしニらいねんぢゆうでかへつてきてハどうだとゆつてくださいますがらいねんともうしましてももうぢきニてらいねんぢゆうといつてもいまからようやく一ねんばかりのことそのくらいにてハどうもおもうようニかけるようニハとてもなるまいとぞんじます ちようどゑをかきはじめましてからことしで四ねんばかりニしきやなりませんよ そうしてはじめの一ねんハほかのけいこなんかをしてをつたもんですからゑのほうハつぎニなつてをりましたのです それでもわりニハはやくすゝみましてせんせいもよろこんでをるのです こないだいなかからもつてかへつてまいりましたゑをみせましたらそのうち一まいだけハできもわるくないからすこしあすここゝつくじりなをしてらいねんのきようしんくわいニだすようニしてみろ しかしうけとられるかどうだかそのへんのところハいまからうけあうことハできないと申ことでした なニしろいまがだいじなところニていません せいニはなれてにつぽんニかへりますれバもうそれぎりにて一せうへたにてくらさなけれバなりませんよ せつかくけいこをはじめましたのニこれからといふときニかへつてしまいましてハなんニもなりませんよ それともうちにおかねがなくまたほかからかりることもできずといふわけにてどうしてもこうしてもこつちニをればこじきをするよりほかニしかたがないといふのなればどうもいたしかたハございません けれどもなんにもそうゆうわけハないのですからせつかくのことまあどうしても二三ねんハたゞいまどうりニしぎようをいたしたいものでございます につぽんがもうちつとちかいところとかまたにつぽんにもせいようのようニじようずニゑをかくひとがたくさんをるとかいふわけならいまにつぽんへかへつていつてもまたちよつとこつちニでてくることもでくるしまたにつぽんニいてもしぎようができますがそういふわけニもいきませんからどうしてもひとなみニゑのかけるようニなるまでかなるべくならバひとなみよりすこしよくかけるようニなるまでハぜひこちらニをりましてじようずなひとのゑをみたりまたじようずなせんせいニついてしぎようをしたりいたしたいもんです そうしなけれバとてもよいゑがかくことハできませんよ わたしのせんせいもそうゆつてをりましたよ おまいなんかハすこしゑがかけるようニなつたらどうしてもにつぽんへかへつていかずバなるまいが一どかへつていつてそのままあんしんをしてひつこんでをるようなことでハいけない につぽんへいつたらいろいろめづらしいにつぽんのゑをかいてそれをもつてこつちへでゝきてきようしんくわいニもしじゆうだすようニするほうがいゝ なニしろべんきようしろと申てくれます こういふほどのことでございますからいまようやく四ねんばかりしぎようしたばかりでいゝきニなりにつぽんへかへつていくことハどうもいやでございます につぽんニをるゑかきのひとたちのまへニもはづかしくてでることハできませんよ どうぞそのわけをあなたさまより父上様へ申上げてくださいましてもう二三ねんハどうしてもこつちニをるようにしてくださいまし わたしもはやくかへりとうハございますけれどもそんなかんがヘハつまらないこどものようなかんがへにてなニよりもだいじなのハゑがよくかけるようニなることですよ(後略) 母上様  新太拝

1890(明治23) 年12月26日

 十二月二十六日附 パリ発信 父宛 封書 十一月十八日附の御尊書慥ニ相届き拝誦仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 来年にも相成候ハヾ段々帰朝の都合に致様御下命相成承知仕候 即ち其心得ニて勉学仕候積ニハ御座候得共何分今の腕前通りにて帰朝するハ残念の至に御座候 願くハ共進会ニ一二度も出品仕せめて三等の賞位ハ得て後ニ帰リ度者ニ奉存候 実ハ三等位ニてハ充分な訳ニハ無之候 二等の賞を得て始メて画かきと一寸世間の人ニ云はるゝ位の事ニ御座候 又二等賞を得候得ば其後ハ検査を受けずして毎年共進会へ出品するの権を得る事にて遠く日本などニ住ひ欧州人と肩をならべて行かんニハ第一ニ其二等賞位迄斬付け置かずバ先き先力なき事ニ御座候 併し之レハ僅一二年間位いの勉強ニて望む可き事ニハ無御座候間愈其内ニ帰朝せずハならぬと云次第ニ御座候得ば一旦帰り候上又々何とか工夫位是非一生の内ニハ其二等位迄ハ進み不申候ハでハ甲斐なき儀ニ御座候 先当分来年の共進会を楽みニ勉学仕候 植木も已ニ馬寒港ヘハ着居候事と存候得共船会社の方よりハ未ダ何たる知らせ無之候 御送り被下候植木屋よりの受取書の写しなど教師へ示し置候 同人もよろこひ居候 今度の便より当地にながく居候加藤恒忠と申者帰朝致し候 同人ハ始メハ諸生にて後ニ公使館の書記生をつとめ居候者ニ御座候 私先々の見込なども一寸略話し置候間御聞取被下度奉願上候 私行ク行クの処実力を以て欧人とならび立行度望ニ御座候 余附後便候 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年1月2日

 一月二日附 パリ発信 父宛 封書 謹賀新年 (中略)学校の方も昨日丈ハ休みニ相成申候 来週の始め即ち明後日頃より又々田舍ニ出懸教師の気に入候画の直し方などニ取りかゝり申度考ニ御座候 共進会ニハまだ少しはひまも御座候間今一つ別ニ新しき者を相始め可申候 当年の夏ニハ第一ニ昨年の夏一寸描始め置候婦人の立像を仕上げ仕る覚悟に御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年1月16日

 一月十六日附 グレー発信 父宛 葉書 益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気ニて田舍ニて勉強罷在候間御休神可被下候 当年の寒さハ余程つよく私当国ニ参リ候より之レ程の寒ハ初メてニ御座候 本日も雪降リニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年1月23日

 一月二十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)ことしの寒さハいつもニないさむさでしたがこの二三日はだもちがすこしかわりましていまでハそんなニさむくなくなりましてゆきどけやしもどけでじくじくしてきたないことですがつよいさむさよりもよろしゆうございます もうすこしあたゝかニなりましたらいまよりももうちつとつめてべんきようをするかんがへでございます いまのところてハひとをたのんでゑをかくのでもへやのなかニどんどんひをたいたりまたそれでもすこしさむいといへばなニかかけてやつたりしなければならずなかなかいまのところでハおもうようニはべんきようハできまんせよ たゞまいにちなニかかいかしてをるといふくらいのことです こないだももうしてあげましたとうりよる$らんぷ$をつけておんながはりしごとをしてをるゑをいまかきかけてハをりますがまいにちそればつかりニほねをるといふわけニはいけません といふものハよるのところですからうちのなかをくらくしてあかりをつけそれをとのそとからのぞいてみてかくのですからこのさむいのニひのないところニたつていてかくのはすこしかんしんいたしませんからあたたかくなるのをまつてをります それゆへまづとうぶんハちいさなゑばつかりけいこがきニかいてをります おくつてくださいましたうゑきもせんじつたしかニとゞきました せんせいもたいそうよろこんでをりますからどうぞさよう父上様に申あげてくださいまし くさぞうしのつゞきをまたすこしばかりかきましたからおくつてあげます こんどハまずこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまへよろしく

1891(明治24) 年1月30日

 一月三十日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)国会議事堂丸焼けニ相成候様先日当地之新聞ニ見ヘ申候 立派ナ議論をして世間の人を一番驚かして呉れんなど思ひ居し人達ハ随分閉口致し候事と奉存候 当地此の一週間程前より気候急ニ変り只今のところにてハ外ニて画をかき候ても余り寒さを覚エ不申候 つよき寒さのあと故少しの暖きも余程うれしく感申候事ニ御座候 二三日の内ニ学資金受取旁巴里へ出で来月中ハ学校にて勉強仕三月ニ相成候ハバ又々此の田舍ニ参り共進会への画の仕上ニ専ら力を盡す考ニ御座候 今度御送り被下候金子にて額ぶちの買入れ方など可仕候 額ぶちは殊の外金高な者にて少し見るニ足る程のものは三尺四方位にて百四五十仏ハ掛り候と申事ニ御座候 私二つ程入用ニ御座候間三百仏程ハ丸で此の方ニ取られ可申閉口の至ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年2月5日

 二月五日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたくしことハいつもながらだいげんきニて四五日まへニぱりすへかへつてまいりましてこのごろハまいにちがくこうでべんきよういたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし まづこんげつぢゆうハこゝにをりましてそれからまたいなかのほうニいこうとおもつてをります くめさんもこんげつのすへごろニどこかのいなかニいこうとかゆつてをりますからわるくしたらわたしもくめさんといつしよニをなじところニいくかもしれません けれどもらいげつどうしてもゑのはくらんくわいニだすゑをかきとらなければなりませんからやつぱりいまゝでをつたところニかへつていかなければなりませんよ(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年2月13日

 二月十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたしハまたいなかニまいりました ゑのはくらんくわいニだすゑをせつかくかいてをります どうしてもこうしてもらいげつの十日か十五日ごろまでニかいてしまハなけれバなりませんよ こんどハまづこれだけニいたしてをきませうよ めでたくかしく 母上様  新太拝

1891(明治24) 年2月20日

 二月二十日附 グレー発信 父宛 封書 益御安康の筈奉大賀候 私事大元気にて矢張田舍ニて勉強罷在候 御休神可被下度奉願上候 共進会へ出品の期も段々近づきし為いそがしく相成候 今日より又々別ニ一つかき始メ申候 田舍の女子が野ニてよめなを摘む処の図ニ御座候 此頃の天気ハ真ニ春ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年2月27日

 二月二十七日附 グレー発信 母宛 封書 このごろのおてんきハまことニけつこうです まるではるニなつたこゝちがいたします それゆへまいにちそとでべんきようをいたします けふもこれからすぐニかきにいかなけれバなりませんよ はくらんくわいニだすゑも一つハたいていできました(後略) 母上様  新太郎

1891(明治24) 年3月5日

 三月五日附 グレー発信 母宛 封書 一月二十日つけのおてがみたしかニあいとゞきありがたくはいけんいたし奉候 みなみなさまおんそろひいつもおかハリなくおげんきのよしなニよりおんめでたくぞんじあげます つぎニわたくしこといつものようニたつしやでやつぱりいなかニをりましてべんきようをいたしてをりますからごあんしんくださいまし さてべんきようをしてをるとハもうすものゝときどきハなまけますよ こんげつの一日のひから三日ニかけてまいにちまいにちゑんそくをいたしました このわたしのをりますところか六りばかりあるところのいなかニくめさんがこないだからいつてをりますのでぜひちよつといつてみようとハおもつてをりましたがいつこうとじまらずニをりました ところがくめさんと一しよニいつてをるがつこうのともだちのいぎりすじんのやつがもう二三日するとぱりすニかへるからそのやつがかへらないうちニぜひこないかとくめさんからゆつてよこしましたからとうとうふんぱつをいたしましてこの一日のひニでかけていきました こゝからぼつぼつとあるいていこうかとおもひましたがあんまりをそくなりますから二三りばかりてまへのところまできしやでまいりました そうしてそこでおひるごぜんをたべました そこハぶろると申ところニて二ねんばかりまへニいまそのくめさんといつしよニをるいぎりすじんと一しよニしばらくいつてをつたことがあります それですからやどやのやつなんどもみしつてをりましてひさしぶりだとゆつてよろこびました たつた二ねんきりやたゝないのですからなんニもたいしてかわつてハをりませんでしたがたゞそのやどやのむすこやむすめつこがをゝきくなつていたのニはおどろきました まづそこでおひるごぜんをたべまして一じごろまでゆつくりといたしそれからぼつぼつあるいて三じすぎニくめさんのところニいきつきました とちゆうハまるでなつのようニあつうございましたからきものをぬいでちよつき一つニなつてあるきました それでもやつぱりあせがでました くめさんのいつてをるいなかニハいぎりすじんのほかニあめりかじんがひとりをります そのあめりかじんもやつぱりがつこうのともだちニてたいへんわたしなんかとちかしくするのです 一さくねんのなつぼあにゆびるといふところニわたしがいつてをりましたときもそのをなじあめりかじんといぎりすじんといつしよニいたのです そのあめりかじんハそのいまくめさんのいつてるいなかニもう一ねんのよもすまつてをります そのやつハわたしなんかのようニびんぼうものですがなかなかぎりをたてるやつニてせいようじんニしてハまことニめづらしいやつです わたしなんかゞそのやつのところニいきましてもやどやのはらいなんかをけつしてさせませんよ なぜはらいをさせないかといゝますとわたしがをまいニあすびニこひとゆつてきたのだからをまいがやどやのはらいをするどうりハないとゆつてどうしてもきゝません きたいなやつです そこでわたしがひよつくりでかけていつたもんですからたいそうよろこびました またそのあめりかじんのやつハそこニしばらくをるつもりニてまるで一けんひやくしようやをかりきつてしまいましてすまつてをります 二日のひニハ十一時ごろニそこをたちましてわたしのをるいなかニみんなをひつぱつてまいりました ふをんてぬぶろうと申ところのもりのなかをあつちこつちとみちをまちがつたりなんかしてあるいたもんですからなかなかをそくなりましてこゝニついたときハなんでも七じごろにてもうまつくらニなつてをりました ずいぶんこのひハくたびれました やまのなかをぶらつくときなんかハなかなかあつくあせがながれました こゝでハわたしがみんなニごちそうをいたしました 三日のひニハこゝから二三りあるもれといふところまであるいていきましてそれからきしやでふをんてぬぶろうまでゆきそこでしやしんをうつしました これハこんどのたびのしるしでございます やまのなかやいなかのみちをあるくときのまゝのようすでみんなうつしたのですからなかなかおもしろいのです できてきましたらさつそく一まいか二まいおくつてあげますよ 十二まいを四にんでわけるのですからひとりで三まいづゝきりやとれませんよ ふをんてぬぶろうハりつぱなじようかニてまづとうきようへんニたとへてみましたらうつのみやとでもいゝそうなところです しやしんをうつしましてからみんな一しよニちいさなきたならしいめしやニはいりましてめしをたべましてそれからみんなニわかれました やつらハ三にんづれでやまみちをあるいてかへつていきました ふをんてぬぶろうからやつらのをるふろりといふいなかまでハなんでも三りか三りはんばかりもあるでしよう わたしもみんなニわかれてからぼつぼつとうちまであるいてかへりました わたしのをるところまでハようやく二りはんばかりです そうしてやまみちとゆつてもこのへんのみちハはゞハひろくなかなかりつぱニできてをります ふをんてぬぶろうからこゝへとうてをるみちハぱりすからのほんかいどうですからなをさらりつぱです たなかさんといふうちのおとなりのおかたがこちらニをいでなさいますよしもうおつきニなつたかもしれません 四五日のうちニぱりすへちよつとかへりますからきいてみませうよ またそのびんニけつこうなものをおくつてくださいましたよしまことニありがとうございます あつくおれいを申上ます おゑいさんニもよろしくおれいを申上げてくださいまし そちらでハまたまたわるいかぜがはやりますよしこまつたもんです せつかくごようじんんさいまし まづこんどはこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  ごようじんなさいまし めでたし みなさんへよろしく

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