1892(明治25) 年4月29日


 四月二十九日附 パリ発信 父宛 封書
 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気ニテ相暮し居候間御休神可被下候 此頃ハ矢張不順の天気勝にて野にての稽古ハ六ケ敷候 此の十一二日前より描き掛居候女の肖像一枚昨日仕上候ニ付本日より又々十五日か二十日計の見込にて一と先都ニ引上ノ積ニ御座候 今度都にてハ卒業試験の様な心持にて日本への御土産の為当地名物の女のはだかの画一枚心に任て描き申度存候 小さな考をして居る日本の小理屈先生方へ見せて一と笑ひ仕度候 巴里にてハ社会党が大ニ流行あそここゝにて家をはねとばし負傷者も少なからざるさ、あ子ニ御座候 裁判官と警視の役人が一番のにくまれ者ニ候 五月の一日ハ毎年職人共のさわぎ廻る日故当年ハ社会党の者等が必ず何ニ事かやらかすならんと巴里の者共ハ怖れ居るとの事ニ御座候 社会のさわぎを高見からの見物一寸面白き事に御座候 早々 頓首
 父上様  清輝拝
 御自愛専要ニ奉願候

同日の「久米圭一郎日記」より
今日ハ近来ノ面白キ日ナリ 忠公ハ朝カラ出テ跡ハ独リデ新聞ヲ広ゲテ居ル処ニ川村ノ野郎ガヤツテ来タノデ二人デ飯ヲ炊キ始メタガ忠公ガ昨夜買ツテ来タ大事ノ肴ト酒ガアルノデ大ニ愉快心ヲ生シ甘イ酒ヲ一瓶傾ケ尽シタルニ勢益発奥坐敷ニ移リマルテルノ酒盛リヲ始メ酔ガ廻ルニツケ胆ガスワリ大机ヲ一ツ粉ナ粉ナニナシヤツトノ事デ川村ヲ床ニ引行キオレモ転ゲテ仕舞ツタガ忠公ノ寝台ハ噴火口ノ焼点トナリ終リヌ 丁度其処ニ黒田帰リ掛リ大閉口ナリ 日ガ暮レテカラ酔ガ醒メテ見ルト飛脚船ノ三等客同様ノ臭ヒ満チ満チテ中々堪ツタ事デハナイ 頓テ忠公モ帰リトート徹夜ヲヤル事ト決シアタリーノ輪講ヲ為シ夜ヲ過ス四月二十九日