1892(明治25) 年7月24日


 七月二十四日 日曜 (ベルギー・オランダ紀行)
 今朝八時ニ書留ヲ受取ル 学資金の為換券也 九百仏計来夕 難有事也 オレがいつかうなり出した鶯の歌が直して来タ 遠藤さんが死で仕舞とハ真ニ気の毒ナ話し 先生が七丁目の内の滝の下の小屋ニ住て居て土鍋でめしヲ炊て食て居タ事ナドが思ヒ出される おとつあんとだいやめをしながら歌を作たりして居た時の面が今でも見へる様ダわい 不思議ニ人が集タ 第一丸毛が来てそれから川村兄弟 そうこうする内ニ元吉が来た 久米公と小僧とオレと三人入るれバ都合九人 牛鍋の御馳走ヲやらかす 久米公と出て高天通と龍来山園との間の通ニ賃部屋ヲ見ニ行ク 翁茶屋で飲む 飲みながらブルユクセル行ヲ極む 三味線通から車ニ乗り内へ飛ビ帰り大急ギで仕度ヲやらかし同じ車で北停車場へ走る 車の上で清泉駅へ出ス手紙を認む 停車場ぎはの郵便局ニたゝき込む 久米公切符取りニ走る 六時二十分の気車今出る処おあいにくさまヲ食て去ル 其処で十一時ニ出て朝の五時半頃ニ着く汽車ニ乗る事と極む 大通の吸物屋で晩食ヲやらかす 又和郎方及ウエベル家ニ土産ニするが為菓子ヲ買ふ ぶらぶらして時間ヲつぶす 屎なども屎屋ニ這入てゆつくりとやらかす ボツボツ歩て停車場ニ向ふ ナンダカもう立て行のはいやに為たが仕方なし 行て仕舞へ 十一時の汽車で立ツ 五時半に武律悉府に着す

同日の「久米圭一郎日記」より
今夜十一時ノ汽車ニ乗リブリュクセルニ赴ク 大塚氏ノ依頼ニ応シ談判一条ノ為メナリ黒子モ同行ス七月二十四日