本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年6月20日

 六月二十日 土曜 (独仏国境旅行日記) 八時半頃朝めしを食ふ 全体今日ハ此処ヲ立つ筈なりしが宿の奴等があんまり深切だし其上場所がいかにも静にて山の中の体裁が有ルノで又一泊と極めムールド川ニ沿ふたる谷間を見物ニ出懸る事と決し九時半頃立つ ハボリユ フランフアン等の村を過き藪の中で弁当を遣ふ フレーズと云鉄道局などの有る一寸大きな村で珈琲屋ニ立寄る 其内のばゞあの髯ニは実ニ驚き入つた 一体西洋ニハ鼻の下ニ黒くひげの生へた女ハ多いがあご髯迄こんなニ沢山有る奴ハ始メて見た 赤髯の上ニイヤニいかめしい面付きをしてをるばゞアだ 丸で画ニかいて有る毛唐人の面さ 夫れよりクレブシーの方ニ廻る 雨が非常ニ降而来た 中々以て止まず レグリメルニて居酒屋に立寄り又一寸休む 其中ニ雨やむ それより山を越へてハボリユへ出て五時頃宿屋ニ帰る 今夜ねる前ニびつしよりぬれた靴靴下脚半などをかはかして呉れと宿の娘ニ頼で置た 其娘と云奴ハ年ハ十八九だが青んぞうの上甚だよくない方だ 併し仕事をよくするのニは感心さ そうして一寸居た丈けでよくハ解らねへが巴里近在の百姓娘のオテンバな奴等の様に上気でネー様だ 誉メテ遣ハスゾ

1891(明治24) 年6月21日

 六月二十一日 日曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時半頃ルリユドランを立ちズーツと歩て十二時ニゼラルメニ着く 途中雨が降りつゞけ雨合羽ハ被て居たれどもひざの処からもゝへかけてびつしよりなつた 途中グランバルタンと云処の酒屋ニ一と休みした 衣物がぬれても被替へが無いので大閉口 股引の下にふらねるの繻半をさかさまニして手を入れる処ニ足をつきこみ下股引の様ニやらかし其上を二三ケ処鼻ふきで包だようニしてくびりそうして其上ニぐヂヽヽにぬれて居る股引をはいた 矢張ジメジメしたが先づ一寸之レでごまかした 実ハ余り雨ニぬれたから今日の昼めしハ部屋ニ取りよせぬれ衣服ハぬいで仕舞てゆつくりとめしを食ふ覚悟で宿屋ニ着て直ニ其事を云ヒ出だそうとして宿屋のかみさんニ向ひ拙者共ハこんなにぬれたから食堂ニ行くのハいやだと云ひかけるとアヽそれでハ別の小座敷ニ食事の用意をするから其処ニ来て食へとか何んとかかんとかと云て拙者の云ふとして居る大事な事ハ聞もしないで行て仕舞た 実ニあのばゝあハさばけ切てこまつたばゞアさ だがどうも仕方がないのでとうとう前の様な策をやらかし小座敷ニ行て食た 併しめしを食ヒ取ると直ニ此のぬれ衣物をぬいで其衣物ハ下女ニ申付けてかわかしてもらをう それニ付てハ下女を一匹手ニ入れるニ不如と議決しめしの給仕ニ来た非常なあをんぞうの下女ニ一仏ポーンと呉れてやつた そうするとこんな大金を貰つた事ハ生れてから始めてと見へ一物有つての事とハ知らず何の為メニ金を呉れたのだか知れぬもんだから一寸へんちきな面付をしたが何ニして金を貰つたニハ違無いもんだからよろこんだ 食事をすましてから部屋ニはいつて衣物をぬぐ前ニ珈琲を一杯やらかそうと思ひ玉突部屋ニ行て居るとばゝあが出て来てどうですまだ衣物がぬれて居ますかハアヽぬれて居るならあとで台所ニ行て少しおあぶりなさいそうするとぢきニかわきますとぬかし上つた 実ニ以てしようのネー尼さ とうとう自分で台所ニ行て衣物をあぶらなければならない様ニ仕懸けよつた 仕方がネー 衣物も大抵上つ面丈ハ干いた様になつたので部屋ニはいつて寝てやつた 併し只此の儘ですましてハ切角下女ニ呉れた一仏ハなんニもならないと思つたから靴と脚半丈は下女ニ申付てかわかして貰つた 先つ之れで少し取り返へしが付た 其内ニ雨もやむだ 夕方七時少し過から一時間程湖で舟こぎをやつた 一寸愉快だつた 今晩も亦別室でめしを食ハして呉れる都合ニ為つて仕合せ也 今夜給仕ニ来た下女ハ別な下女ニて五六人居る下女中で一番教育が有ると見へ兼而張面付ケをして居て頭ら振て居る奴也 此の奴も矢張あをんぞう也 併し面付はほかの者ニくらぶればましだ それから言葉遣ヒが田舍風でなく気取て居るので之レこそいゝ機会だ兼而人が拙者等ニ外国人ニしては仏蘭西語をよく話すなどとぬかしやがるから一番今度ハ此の下女を返へし打ちニ打つてやろうと思ヒ何ニか一皿持て来た時ニ至極まじめな面をして「オイあなたハ此処の土地の人かネー」(西洋でハ大抵どこでも男女貴賤皆同権と云勢で下婢などニもあなたと云ハネバナラヌ事也)と聞くと此処より遠からぬ何とか云都会の者と答へた 其処で拙者が得意ニなりアヽ成程それでおまいハ(実ハ前の如くあなたと云たけれどこつちの心持ハオマイと云心持で云つたのだからオマイと此処ニ記す)外かの奴等の様ニおかしな調子でなく中か中かよく仏蘭西語を話すと云つてやつた 之レハ先づ此の旅中の拙者の手ぎわの一也と知る可し それから又久米公と会議の上此の下女ハ鄙ニまれなりと云処で一仏下し贈ハる 夜食後茶など飲み泰平を気取り又少しく散歩す

1891(明治24) 年6月22日

 六月二十二日 月曜 (独仏国境旅行日記) 此のゼラルメの宿屋ハ立派なわりニ金が安い そうして中々深切ニして呉れるわい けれど永居ハ出来ぬ 八時半頃とうとう立つ 今日ハ昨日ニ引替へ天気がよくあついあつい ラ・ブレスを通つてコルニモンニ一時頃着きひるめしを食ふ 此のめし屋ニて古きクロモ板の額一面二仏ニて買入る 紀念の為也 鉄道局が此地に在るを幸ひ直ニ其額を巴里へ送た 三時頃コルニモンを立て段々と国境の方へ行く 四時半頃バントロンニ着き酒屋ニ立寄りリモナード水を飲む 今日の暑さハ非常也 此のバントロンが仏国の一番端の村也 之レより国境を越へてアルザスニ入りクリユツトと云小さな村ニ着た時ハ七時半頃ニなつた 憲兵ニも出逢ず面倒も聞かず首尾よく宿屋ニ入りたるハ何よりの仕合也 今夜の宿屋ハほんのきちん宿だが部屋ニ耶蘇の像の額だの又木細工の耶蘇の張付けなど飾つて有るのを以て見ると此の辺でハ隨分まだ耶蘇教がはやつて居ると見へるわい 一寸古風で面白し いやな俗物も死ぬと仏と成りつまらぬ茶わん皿も古物となれば珍重さるゝが如し

1891(明治24) 年6月23日

 六月二十三日 火曜 (独仏国境旅行日記) 朝七時半ニ立つ なかなか暑し ベツセルリンニて八時四十分の汽車ニ乗ル 十時頃ミルーズニ着ス 此処ハもう中々以テ独逸風が有ルゾ 兵卒が隊を立てゝ通るのを見た 又此処より日本へ端書を出す 独逸領の地ニ来たと云印也 市中を一通り見物してから停車場の前の飯屋で昼めしを食ふ 其内のかみさんから子供達迄仏語と独逸語をチヤンチヤン勝手次第ニやらかす なまいき千万也 十二時四十分の汽車でバアールニ向ふ 二時頃ニ着ス 此処ハもう独逸領ニ非ズ スイス国也 ミルーズよりも亦一層盛な都会也 此の地の言葉ハ矢張仏語と独語也 立派な宿屋が停車場の前ニ沢山ならんであるけれど金が高かそうだと云ので久米公入る事を欲せず 先づ包みハ停車場ニ預ケて置て手ぶらで宿屋をさがす事と極めぶらりと出懸けた だがあんまりよさそうな宿屋もめつからずとうとう仕舞ニフオーコンドールと云内ニ入り込んだ なんだかきたならしい宿だ 併し先づ之レで一と安心 それから市中をゆつくりと見物す 博物館をも見る 彼の有名なる昔しの独逸の画かきヲルベインのかいた画が沢山有り拙者等ニ取つてハ余程いゝ学問ニなつたぞ 後ライン河のほとりなる珈琲屋ニ休息し珈琲などのみたり 此の茶屋の下女一寸あかぬけた様な奴で拙者等ニ向ひ亜米利加人かとぬかしたり 奇な事を云ふ奴かなと思ヒどうしてをれなんかを亜米利加人と見たかと聞て見たら色が黒いからだとぬかし腐た 夜食ハ宿屋にてやらかす お値段の処甚だ安からず 食後も亦市中を散歩す 九時半頃帰宿シそれから久米公と二人で今持て居る丈の金の取り調べとあした行く処の極め方とを為す よく計算して見ると云ふともうたんとハないぞ 今度の旅も最早一両日の命と相成つた 先づ此処から直ニジユネブに出てそれから巴里へ引かへすとして其汽車代を引て見るとジユネブの都で使ふ銭ハたつた十五仏だ 一晩とまる丈の事なら倹約すれバそれで行ん事ハないがジユネブニハ久米公の知人が居る 其者ニ逢つたりなんかする日ニは酒の一杯も共ニ飲まずバなるまいしそう成て来るとどんな事をしても十五仏ぢやだめだ 鳴呼此処迄来てジユネブも見ぬのハ残念だがジユネブでをくれを取りつらい思ひをするより此処から直ニ巴里へ帰へる方がましなりと云説を拙者が立てた 併し久米公は平気で矢張ジユネブ迄行く気で居る これハ不思議千万久米公の勘定家がこゝに至而閉口せぬとハどう云もんだと思つたニさてさ其処ニ一理有りだ 奴ハ拙者と同じ様ニ二百仏持て巴里を出た様な面付きをして居てないない預備金百仏と云ものを別ニかくして持て居たのだ それを拙者ニ知らせなかつたのハ若し拙者が知ると其れ迄直ニ使て仕舞ふニ違ひなしと思つたからの事さ 今不意ニ百仏丈余計ニ出て来たので地獄で仏 安心してジユネブ迄行く事と早速極めた 十一時頃ねる 今夜ハとうとう虫ニやられた 之れが今度の旅で始めての虫也 此の辺の女ハボウジユの山の中ニくらぶれバ青みが少ない方だ どう云訳であんなニ青い面がボウジユニハ多いかしらん 青いいやな杉の様な木計り見て居るから面迄青くなるのかナ 奇体だ奇体だ

1891(明治24) 年

 六月二十三日附 ミルハウス発信 父宛 葉書 昨夕仏国をはなれアルザスと申七十年の戦より独逸領と相成候洲ニ入寒村ニ一泊仕 今朝其処より小しく歩き気車の有る地迄出で(十時頃也)只今ミルハウスと云一寸大きな市ニ着仕候 先づ一通此処を見物しひるめしなど食ひ午後の気車にて今度ハスイス国のバアルと申処へ向ケ発スル積リニ御座候 四五日もかゝりスイス国をあちこち見て後帰巴の考ニ御座候 珍らしき処ニ参り候しるしニ一筆差上候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年6月25日

 六月二十五日 木曜 (独仏国境旅行日記) 今日ハホツフエルノ故郷ナルブベニ奴と一緒ニ行ふと約束ヲシテ置た処が今朝曇テ居ルので九時ノ船ニ乗ル事ハ見合せるがよかろう それから又自分ハ少し用が有ルカラ其用ヲすましてから来ると云テ弟ヲ独りよこした 其弟の奴ニちようど宿屋を出テ例の包ヲ肩ニ引キ懸ケ船付場ニ行く途中デ出逢た 其レから奴ノ案内デホツフエルが用が有テ行テ居ルト云内ノ前ニ行テホツフエルの野郎が出て来るのを待て居た しばらくしてとうとう出て来上つた そこで四人連に為り一緒にアリヤナと云博物館ヲ見ニ行ク 此博物館ハなんとか云金持ノぢゞいが自分の楽ノ為メニこんなすてきナ立派な家ヲ建テ其処ニ世界中ヲかけ廻つて処々方々デ買ヒ集メタ色々ナ美術品ヤ又奇物ヲ飾リ立テ愉快ツテ居タノガ死ヌ時ニ為テ其品物ヲ家屋敷ぐるみ丸デ政府ニ呉レテ仕舞タノダソウダ 気楽ナ奴ダ こんな風の気取方ダ 全体西洋ニハ多いゼ 偖テ其博物館ハ博物館と云テモ毛ダモノヤ魚ヤ植木なんかのひからびたの等ハ無い 先づ一寸云テ見レバ額ヤ古道具ナドならべたる体取りモ直サズ古道具店サ 日本の品ナドも沢山有ル 這入口の前の庭先キニかなり大きな釣鐘がつるしテ有ツタ さわつちやいけネへと書テ有ツタケレド ホツフエルカ誰カヾグワアーンとやつて見タ 中々よく鳴ルわい 其アリヤナニ行ク前ニ停車場の前の珈琲屋でホツフエルガ拙者等ニ白葡萄酒ヲおごつた 此ノ酒ハ当地の名物だそうだ 帰りがけニ拙者等が昨夜泊タ宿屋ニホツフエル兄弟ヲ連テ行キ昼めしをやる ホツフエルが拙者等ニ昨日君等が僕の内ニ尋テ来た時ニ誰れかゞなんとか失礼ナ事ヲ云ハしなかつたかどうだと問た イヽへ何ニ事モなかつたと久米が返事ヲした アヽそれならよかつたが僕ハ屹度門番の老婆がなんとかぬかしたニ違ヒなしと思つて腹が立つたから大ニ諭シテ置た 実ハつまらない訳サ 昨日内へ帰て見ると久米君の名札が置て有ツタ それから門番が僕ニ向ひしきりニ其人ハなんだとぬかすぢやネへか あれハをれの友達デ遠方からをれを尋ねて来たのだそれがどうしたのだと云つたら何ニそれならいゝがあの人をつけて探偵掛りの巡査が来タからあやしい人かと思つたのだ なんだ畜生めをれを尋て来る者ニそんな怪い奴が有ると思ふのか 以後をれの友達ニなんとか失礼な事をぬかすときかネへぞとひつちかつてやつたが君等ニ何んとも云ハなかつたなら先ヅ先ヅ仕合せだとホツフエルが話した さて此の事の起りと云のが奇な訳サ 昨日ホツフエルの内ヲあつちこつちと尋て歩き巡査ニ聞ても憲兵ニ聞てもよく知らず とうとう仕舞ニ巡査屯所ニ行テ聞た 其時聞ニ行タのは拙者サ 破れ切つた被物ヲ被て居る上ニきたない乞食のかぶる様な帽子ヲかぶりおまけニ面と云つたら見タ事どころか話シにもろくろく聞タ事のネへ様ナ顔色と云もんだろうぢやネへか これハくせ者ニ違ヒ無シと巡査の野郎等が思ひ込だも無理ハ無い 拙者等ハそんな事とハ夢ニも知らぬから屯所ヲ出で二人連でホツフエルの内の前迄行き拙者ハホツフエルと云奴ハ知らぬから手前独りで行ケオレハ此処で待て居ると云て久米ヲ独りやり拙者ハ道ばたのくづれかゝつた様ナきたない木のばんこニ腰ヲかけて休で居た 久米ハ独りで出掛て行た そうすると直ニ久米のあとから町人風の男にて年の頃凡ソ三十五六とも見へる奴がホツフエルの内ニ這入て行た 此の奴が即ち探偵家なりしか 其当座ハ肉デモ売ル奴かと拙者ハ思ヒ何ノ気ニもしなかつた 久米公が云のニは奴がホツフエルの内ニ這入り先づ門番ニホツフエルと云人ハ何階に住ふかと聞きそれから上ニ上りて這入口で鈴ヲならして見るのニ誰れも出て来ず そうする処ニ前の町人風の男が久米の後ニ立ちて居り久米ニ言葉ヲかけて誰れも居らぬかと問ヒたり 左様と答へたるニ鈴ヲ今少し引て見ろと云つたり それから又鈴ヲ引て見るのニ返事が無いから其儘ニして下の門番の処ニ行き自分の名札ヲ出しホツフエルが帰つたら此の名札ヲ渡して呉れ又今夜来るからと云置て立ち出でたり 巡査なんて云ものハ随分お気のつかれたものかな 人をこまらせようとして笑ハせるとハ面白い めしを食ひ乍ラ天気ヲ見るのニどうも晴れず 風が少し有ルから湖水ニ波が強く立つかも知れず 若し波がひどい様なら只小さな帆かけ舟ヲ雇ヒ沖の方ニハ出ず湊の波の立ぬ辺ヲぶら付く事と極め先づなにしろ聞き合して見る可しと云てホツフエルの弟が宿屋から伝話機でブベの茶屋ニ聞合して見ると波ハちつとも無いとの返事ニ安心シいよいよ三時十分ニ出る 舟ニ乗てブベニ行く事と極めた 宿屋ヲ出てからまだ時間が有ルノデ湖水ぎハの昨夜一寸立ち寄た珈琲屋ニ腰ヲかけ珈琲ヲ飲だ ソウコウする内ニ早三時ニ為たから船ニ乗り込だ 此の船ハ小蒸気ニて湖水の回りヲまわるが芸也 客の五六十人位ハ安す安す乗せるだろうと思はれる者也 ホツフエルハ拙者等の案内として拙者等と共ニ船ニ乗る 奴の弟ニハ出航の時ニ別れたり 沖ニ出ても波ハちつとも立たず至極隱カナ事ニテ誠ニ仕合 只時々雨が降た 夕方の七時過ニブベニ着た ホツフエルの案内で直ニ奴の内ニ行き奴の親爺さんとおつかさんニ逢た 二人とも七十計の老人で中々丁寧ナ人達サ ぢいさんハ画がすきで今でも少し美術家ヲ気取て居る 古くサイ干瓢の煮しめ見た様ナ画ヲ描テよろこんで居る 拙者等モ遂ニかく為りはつる事かと思つたら実ニかなしく為た 夕めし前ニホツフエルの導で市中ヲ一通り見物した 食後十一時頃迄皆さんと話しヲした 今夜ハ此の人達ノ御厄介ニ為る

1891(明治24) 年6月26日

 六月二十六日 金曜 (独仏国境旅行日記) 今朝七時十三分之気車ニ乗らなけれバならないので五時半頃ニ起た やつぱり雨がしよぼしよぼ降而居るわい ホツフエル親子三人と一緒ニ朝の珈琲ヲ飲で立つタ ホツフエルハ停車場迄送而来た 深切ナ奴ダ ロウザンヌで車ヲ乗り替仏国の方ニ近クニ従ヒ段々と天気がよく成り暑くなりて来タ ポンタルリエで又車ヲ替此処で荷物の検査有り 之レヨリ仏国の車と成る 三十分位の止まり故一番糞などひつてゆつくりとした もう丁度十二時だから冷肉ニパン及酒などを買て気車の中ニ持て這入た 停車場の中のめしやで食ふと一人前三仏から四仏位も取られるのニこう云具合ニすると二人で二仏位のもんだ 中々以テ倹約ダゾ 其上せわらしくいそいで食ハズニゆつくりとして歌ナド歌ヒながら食ふから徳ダ それからムシヤルで一寸下りて珈琲ヲ一杯飲だ 日がカーンと当て実ニあついあつい 四時半頃ニヂジヨンニ着 此のヂジヨンと云処ハ大学校ナドノ有ル一寸シタ都会 此処ニ二時間程待たナケレバナラナイので町見物ニ出掛く 不思儀ニもいつかトロワニ着て珈琲屋ニはいつた時ニ居た新聞の種取りニ行逢た 二人連レデ居やがつた 奴の友達ト云奴ハ二十五六の男で詩人ヲ気取て居るのだ 新聞屋から見ると少シハ知恵の有ル奴ラシク見ヘタ 奴等の案内で停車場の前の日本の楊弓屋と云体裁の音楽などをやるいやアーな珈琲屋ニ行ク 引張ナドガ四五人も居た 処で種取の野郎がいやニ通人振て引張などニ麦酒ヲ飲ませるやら又雑談ヲ云ふやらして独りで気取て居やがつた 実ニ俗ナ畜生ダ 其者ガトロワで深切振て教て呉レタボウジユ県のなんとか云天然ノ吹キ出シ水の有ル名所ヲ見ニ行タカト聞タから拙者共ハ少し急イダカラ乍残念其処ハ見ナカツタと云てやつたら大不平サ 先づイゝカゲンニごまかして奴等と別れてから町を少し見る 六時四十分の気車で巴里へ向ふ 夜食もまんまと気車の中でやらかし又或る停車場で麦酒など飲だ 夜中ねむられず

1891(明治24) 年6月27日

 六月二十七日 土曜日 (独仏国境旅行日記) 朝の四時二十分ニ巴里へ御安着 直ニ停車場近くのなんでもかまわねへ開ケテ居る酒屋ニ飛ヒ込みシヨコラ汁粉ヲ一杯やつゝけそれからまだ早くて乗合馬車ハ無いから歩て内へ帰る 内へ帰り着く前のねむく為た事非常サ ボージラル大通りなんかハ半分目ヲねむつて通た 終

1891(明治24) 年7月3日

 七月三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもだいげんきにてさる二十七日のあさの四じすぎにぱりすへかへりつきまして二日ほどぱりすにをりそれからすぐニこゝのいなかニまいりましてべんきようをはじめました あとげつはまるであすんでくらしましたからこれからよつほどほねをおつてやらなけれバなりませんよ いませつかくきよねんのなつかきかけてをいたおんなのたつてをるおゝきなゑをかいてをります なかなかむづかしゆうございます このゑをぜひことしハかきとつてしまをうとをもつてをります なニしろおてんきがすこしつゞいてくれなければこまります(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年7月18日

 七月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 六月四日并ニ九日の御手紙難有拝読仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 私事至而元気昨日田舍より巴里へ帰り申候 又明日田舍へ引返す積ニ御座候 今度ハ只金受取と日本へ帰る人の為ニ今夜公使館ニて送別の宴を開くとの二つにて出掛申候 今日のあつさハ中々強く候 田舍にてハ下衣一枚で居り候へ共巴里の市中でハそんな様子も不出来閉口の至に候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年8月28日

 八月二十八日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 七月十三日附の御尊書並ニ三百円の為換券慥ニ相届き難有御礼申上候 共進会へ受取られ申候額ハ林と申当地にて日本古道具商を致し居候人買入度申候得共友人等日本へ送る方よろしからんと深切ニ申呉れ候間即ち其通り都合致し置候 右の林氏が運送方等引受け呉れ候 運賃ハ御地ニて御払ヒ被下度奉願上候 尤も今二三ケ月ハ送り出しの都合ニ相成間敷と奉存候 右額御地ニ着き候上明治美術会とか申会より借りニ参り候時ハ御貸し渡被下度様林氏の頼みニ御座候 左様御承知被下度奉願上候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候  此の前の便より外務省の呉啓太と申人帰朝致し候 同人とハ白耳義国ニて度々取合い申候 此の前の金曜日即ち今日より丁度一週間前不思議ニも同人と不図巴里ニて出逢ヒ帰朝する旨承り候 其日の昼後ハ共ニあちこち散歩して暮らし夕方別れ申候 麹町の番地など与へ置候間尋ね来り呉るゝやも不知候 然る時ハ同人より私の近状等直ニ御聞取被下度候

1891(明治24) 年9月5日

 九月五日附 パリ発信 父宛 葉書 七月十八日同二十七日附の御手紙いづれも去る二日慥ニ相届拝読仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 正綱も休暇ニて出京二年前よりからだも丈夫ニ相成候事大慶の至奉存候 鎌倉ハ蚊の多き処の由屋敷ハ海岸と承り候間江の島などの如く蚊などハ居らぬ事と存候処却而東京より多きとハ不思儀千万 左ある時ハ折角の夕涼みなどニも愉快自ら少なき儀と存候 直綱も試験ニ及第致し候事目出度目出度 平田氏少し御不快の由酒からとハ是非もなき次第 併し追々ニ御快方と奉存候 私儀本日田舍引上申候 実ハ友人河北 久米二氏二三日前ニ田舍ニ来リ(私を引き出スが為)即ち右二氏と共ニ帰巴仕候 又今三四日の内ニ二氏と一緒ニブルターニユと申海岸へ波の画等研究の為凡ソ一ケ月間位の見込みにて出懸申候積ニ御座候 此の羽書ハグレより帰巴の途中気車上ニて認め申候 早々 頓首 父上様 清輝拝

1891(明治24) 年9月11日

 九月十一日 (ブレハ紀行) 朝九時半か十時頃別仕立の馬車ニて立つ 十二時ニ Painpol ニ着 Hôtel Gicguel(chez Le guévellon)で昼めし 二時ニ立ち Larcouest ニ三時頃着 渡し舟ニ乗り Bréhat 島ニ渡る Hôtel Central と極む 四時半頃(以下欠)

1891(明治24) 年

 九月十一日附 ポルトリユ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康の筈奉大賀候 次ニ私事一昨夜十時半の気車にて河北 久米の両氏と共々巴里出立昨日午後五時頃此のポルトリユと申海浜ニ着一泊仕候 今朝先づ此処よりパンポルと云処迄行き其処より小舟にてブレハと云小島へ渡り其島ニ少しく滞在景色など試みる積ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年9月17日

 九月十七日附 ブレハ発信 母宛 封書 一ふで申上奉候 その御ち父上様あなたさまおんはじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎニわたくしことだいげんきにてこのまへのびんからちよつとゆつてあげましたとうりさる九日のばんにぱりすをたちましてそのばんハきしやでとうしよくじつのひるの一じすぎニさんぶりゆニつきそれよりのりあいばしやにのりこみまして五じごろニぽるとりゆといふところニつきました こゝからはがきをあげましたのです さてそのぽるとりゆと申ますところハうみばたですからそこからぶれハといふしまニゆくふねがでるかとおもつてこゝニまいりましたがそこからハふねハでずもしそこからぶれハじまニぜひわたつていこうとおもふならべつニふねをやとハなけれバならぬともうすことでした そこでそこからぶれハまでハまだずいぶんとをうございますがふねでいくのハてんきさいわるくなければちよつとおもしろいとかんがへふねをやとうことゝきめました それからよくあさニなつてみるとおてんきがなかなかよくあんまりおてんきがよいのでかぜがちつともなくふねハだせないといふことニなりました それニハちよつとこまりましたがこゝから八九りばかりさきのらるくゑすとといふところからしまへわたしぶねがあるときゝましたからこのつまらないぽるとりゆなんかんてところでたかいぜにをだしてとまつてをりかぜのふくのをまつてぶらつとしてをるのハいかニもきのきかぬはなし そのうへいつときもはやくそのぶれハじまがみたいのでばしやをやといそのらるくゑすとのわたしまでいくことゝきめあさの十じころニたちましておひるごぜんをぱんぽるといふちよつとしたまちでたべそれからまたばしやニのりなんでもひるごの三じごろニなつてようやくそのわたしばまでいきつきました そのふなわたしのあるところハなんでもおかからしままでが一りぐらいあるでしようよ ぢきニわたつてしまいました まことニこのぶれハといふところハよいところニてしづかなうへニけしきがよほどよろしゆうこざいます このしまのきんじよニうみのなかニいくつもちいさなしまがこざいます なんでもわたしなんかと一しよニきてをるかわきたといふひとがいふのニにつぽんのをうしゆうのまつしまといふところがこんなだそうです たゞまつしまのしまニハまつのきがはゑてをるそうですがこゝのこじまニハまつのきもなんニもはゑていません それからまたこのしまのまわりのうみぎわニなつてをるところニおゝきなゆハがでこぼこニなつてをります なかなかよろしゆうございます よるなんかつきのあるときハなんともゆわれません こんやのつきもなかなかよろしゆうございます あすのバんハほんとうの十五やのつきだそうですからはまばたのゆわのうへニなんかたべものでももつていつておつきみでもしようともうしてをることでこんどハくめさんとかわきたさんと三にんづれのたびですからなかなかおもしろうございます くめさんとかわきたさんハ二たつきばかりこゝニをつてゑをかくつもりです わたしハもう十日もしたらぱりすへかへつていくつもりです ぱりすへかへつてひとりニなつてみたらなかなかさみしいことだろうとおもひます しかしあつちニかきかけたゑなんかがたくさんありますからしかたがございません めでたくかしこ 母上様  新太 ぶれハより  せつかくおからだをおだいじニ

1891(明治24) 年9月24日

 九月二十四日 (ブレハ紀行) 夜食の時しらぬ男(其中一人ハ軍服にて)二人入り来る 島ニ来居る美術家連にて今夜今一つの宿屋なるペロケグリと云内で島中の美術家の寄合を為す それを幸拙者等招テ知リ合ニ為りたしとの事也 即ち夜食後行ツタ 河北ハ行カズ 十一時頃迄居つて帰つた 歌など歌ふた(拙者等を呼ニ来た中の一人なる軍服の野郎が立つので其奴の別れの為めの寄り合の由也)

1891(明治24) 年

 九月二十四日附 ブレハ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事未ダ此の島ニ居り毎日子供など雇ひ勉学罷在候間御休神可被下候 前便より申上候通り此の島ハ誠ニ景色よき処の上生活安く先づ西洋の極楽ニ御座候 食料一日分三仏五十 又部屋代ハ我十五銭計りニ候 手本雇入代などハ巴里近在とハ非常な違ひニて先づ巴里近在にてハ小供雇入代一時間ニ五十サンチヌ即ち我十銭計りなるを此の地ニてハ半日分が即ち其代と同じ事ニ御座候 大人ハ半日分一仏位の事と存候 此の二三日ようやく少し天気よく相成候間早速外にての稽古相始め申候 私ハ今度ハ永居の用意致し居不申候間三四日の内ニ一先つ帰巴仕考ニ御座候 先づ西洋で今迄見たる内ニてハ此の地が第一ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  仏国コート・ド・ノール県ブレハ島 黒田清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

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