1892(明治25) 年3月27日


 三月二十七日附 グレー発信 母宛 封書
 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのよしなニよりおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてこの二しゆうかんばかりハぱりすニてくらしました たゞぶらぶらとしてをりましてべんきようハいたしませんでした きようしんくわいにだしましたゑもいまのところでハどうなることかまだわかりませんのでなんだかきがをちつかないようでございます もう十五日もしたならいゝとかわるいとかどつちかかたがつくでしようとぞんじます そこでたゞぱりすにをりましてともだちなんかとぢようだんなんかばつかりゆつてくらしてをるのハこのうへもないきらくなおもしろいことでございますがそんなことばつかりしてもやくニたちませんからきのふまたまたいなかニひつこみました(後略)
 母上様  新太拝

同日の「久米圭一郎日記」より
午前不行上人ト稽古 昼飯ニ上人ヲ止メ忠公牛ヲ焼ク 昼後忠公書物ヲ片附ケテヤリガツカリシテイヤナ気分ニナツタノデ芝居見物ヲ発起シ仏蘭西座ニ赴ク 「我カ迷ヒ」ト「グリゼイヂス」ナリ三月二十七日