本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年6月21日

 六月二十一日 日 晴 今日ハ舟遊の約束が有つたから大憤発で七時半ニ起きた 八時頃ニ合田が来て二人で久米の処ニ行きそれから酒など用意して高輪の船宿ニ行て見たら小代と佐野 岩村の三人ハ已ニ沖の方ニ出かけたそうだ 直ニ船の用意をさして我々も乗り出した 台場の手前で小代等の網船ニ出遭又別れて台場ニ船をよせ水などあび酒を飲だ これより前ニ佐久間がおくれて来て我々と一緒ニ為つた 又網船と一緒に為つて昼めしを食た めしハ小代と佐野が持て来た握飯おかずハ魚の即席料理 網の船ニハ佐久間が乗りうつり岩村ハ我々の方ニ来て別れ別れニ為つて我々ハ三時頃ニ品川の東の石垣の下ニ船をつけて上つた 小代 佐久間の二人ハ夕方近く為つてから来た 充分ニ飲食して色々な物まねで大声を揚げ又夷人ニ通弁の真似をして女郎屋を冷かし大笑し十時四十六分かの汽車で東京へ帰る 小代 佐野ニハ品川で別れ久米 岩村ニハ新橋で合田 佐久間ニハ赤阪見附下でわかれた

1896(明治29) 年6月22日

 六月二十二日 月 八時前ニ彫刻師小倉惣次郎氏がたづねて来た 十時少し過から上野ニ出かけた 公園の中で青山盈教ニ出遇つた 久米とも一緒に為つて学校ニ行た 岡倉氏ハ勿論森林太郎氏ニも面会 一時半過ニ精養軒でめしを久米と二人で食ひ食事後公園の出口で久米ニ別れオレハ溜池の合田の処ニ行き夕方奴と一緒ニ赤阪見附迄来て別れて内へ帰る 夜食後新二郎の病気見舞をした 父上もおいでゞお目にかゝつた 昨日鎌倉からお帰りなされたのだ 夕方から雨が少し計りポツポツやつて来た 散歩がてら一昨夜のあばれの代の払のこりをすまして来た

1896(明治29) 年6月23日

 六月二十三日 火 朝合田が来てしばらく話て行た 奴が帰ると間も無く菊地が来た 奴をめしニ引止め二時頃から二人で生巧館ニ出かけねころんで居る処ニ佐野もやつて来て此の二三日の間の愉快の話などが出た 五時過ニ為つて三畳倶楽部を去り合田と紀尾井坂下迄来合田ニ別れて新二郎の処ニ見舞がてら立寄る 父上もお出になつて居た 又吉田 林と一緒ニ為つた 色々な話の内ニ野津誠吾がコレラで台湾で死んだことを聞た 今夜めしニ橋口家で御馳走ニなる約束が有つたから吉田を引張て行て御馳走ニなる 白尾氏も来て居られた

1896(明治29) 年6月24日

 六月二十四日 水 今日ハ植木屋が来たからアトリエの前の庭の造り直を始めた 其下知などで終日暮らす 今日ハお幾が来て居り又学校帰りニお茂 お雪が来たからめしハ中々賑かだつた 夜食後ハ客の連中ハ帰りオレハ母上と新二郎方へ見舞ニ行き帰りみちニ一寸橋口家ニ寄り十時過ニ内へ帰る 篠塚氏をたのんで松方正作氏ニ一寸した餞別を送つた

1896(明治29) 年6月25日

 六月二十五日 木 Mes jardiniers sont venus dès le matin. De 10h à 12 1/2h j’ai été corriger les élèves à Tenshin-Dojo, Mon père qui est venu ce matin est resté déjeuner avec nous, c’est-à-dire Maman, Kiyoshi et moi. A 4h je suis sorti pour aller chez Issogaya. J’ai rencontré Koumé chez Gauda. 合田の処でしばらく話をして居り久米ハ帰りオレハ合田 菊地を引張て来て内でめしを食た 佐野もやつて来た めし後ニ散歩ニ出かけた 菊地ハいゝかげんニ一人帰つて仕舞つた 合田ハ引とめた 佐野ニ一時頃ニ別れて合田と二人で溜池のふちを歩いて帰る 時ニハ月ハよし我身の上を思ヘバ甚だつまらず 其処で一種不平の様ナ悲しい様ナ感が起つた

1896(明治29) 年6月26日

 六月二十六日 金 四時過ニ佐野が来た 先日奴ニ巴里からオレが持て来た彫刻物の写真をやる約束をして置たからそれを取りニ来た 先づ其を渡し一緒に合田の処ニ行き三人で久米をたづね清新軒で晩めし 久米ハ内でめしを食てから来た 四人で銀座を歩て居たら小代と高島と云のニ逢つた それから久米の内ニ行て珈琲の御馳走ニ為る 皆ニ別れて合田と赤阪の地蔵の縁日ニ行た 母上 白尾氏 清 下女某のかたまりニ出遇つた 見附下まで来て合田に別れて帰つた 間も無く内の連中も帰つて来た

1896(明治29) 年6月27日

 六月二十七日 土 十二時前ニ平岡八郎氏が見へて一緒ニめしを食た 午後杉竹公へやる手紙をかいて直ニ出さした 夜橋口氏ニ行て居たら菊地と能所氏がたづねて来た 散歩がてら麹町から永田町へぬけ菊地の内へよつてラムネの御馳走ニ為つて居る処ニ合田がやつて来た 十一時半頃迄雑談を云て居た 合田ニハ赤阪見附下で別れた 今日も植木屋の下知

1896(明治29) 年6月28日

 六月二十八日 日 今日ハ随分あつかつた 寒暖計を見たら三十一度ニ為つて居た 今日も植木屋が来て終日仕事をして行た 午後一時半頃ニ合田が来て夕方の四時頃から一緒ニ出て赤阪で髪をつみ山王山ニ登つて茶見世ニ一時間計もねころびそれから菊地をたづね三人に為つて溜池の鰌屋でめしを食ひ隣の裏の家で芸者が一人で三味線をひいたりお念仏を云つたりして居るあハれ千万な処を見た 一時別れて新二郎の病気見舞ニ行き又橋口家ニ一寸立寄り再び合田と一緒ニ為り今度ハ十二時半過ニ見附下で別れた

1896(明治29) 年6月29日

 六月二十九日 月 雨だから植木屋ハ来ず 九時過ニ長田がやつて来た 十時頃から美術学校へ行き十二時半ニ精養軒へ行く そうすると岡倉氏ニ出遭つた 二時半頃まで食ひながら色々な話をした 久米の処ニ行たら長田がやつて来白百合の葬式の為ニオレが何か画をかくと云事を決して約束した 合田 菊地 佐野の三人がをいをいやつて来た 全体今日ハ三口の岩窟ニ集るはづだつたがこれハおやめニ為つた 菊地 佐野ハ今夜内ニ遊ニ来ると云約束で別れ合田と帰る 合田ニは見附下で別れた 今夜九時過ニ佐野が来て十一時頃まで話した

1896(明治29) 年6月30日

 六月三十日 火 雨 昨日留守ニ安藤が来てくれたと云事だつたから今日ハこつちから出かけた 十一時半頃ニ向ニ行着き久し振の事だから友達の消息から画の話茶屋の話色々出た 例のレーキハウスニ出懸けてめしを食ふ事と為つた 雨にぬれた柳がフオンニ為り煙の如き上野の山が遠景ニ為り手前ニ明石の被物を被た女とハ色も形も丸で画だつた ゆつくりして湯などニも入り六時前ニ安藤ニ別れて築地へ向つた 今晩ハ花房氏から会の相談で精養軒のめしニ呼バれて居る 行つたら明治美術会の頭株ハ勿論金子堅太郎氏 外山正一氏 辰野氏等が見へて居た 議論ハつまらぬ事計り 又オレハ非常ニ頭が痛く為て来たから一と通り意見を述べて仕舞つて九時頃ニ先ニ一人帰つた

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