本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1894(明治27) 年5月27日

 五月二十七日 (北海道旅行記) 七時半頃ニ起き静に仕度しシヨコラを部屋ニ取り寄せてのみながら杉にやる手紙をかく 今朝ハ雨が降て居るわい 人力車に乗つて九時頃ニ横山の処ニ行きたり 此の地にハ人力車少し有り 値段ハ一寸一と走りと云のが大抵十銭也 壮一郎の案内にて農園長の南と云人ニも逢ひ農園及び附属の博物館 植物園 温室等を見物したり 昼めしハ独りで豊平館にて食いたり 壮一郎がめし後ニやつて来て今度ハ農学校及び中島の遊園地なる農産物の陳列処を見る 夫れより大辻氏ニ名札を出し又壮一郎の手引にて当地第一の茶屋東□庵ニ行きめしも食ひ歌も聞き酒ものむ 処が不思議さ 此処の芸者は人を感ぜしむる丈芸ニ達して居ると云ものか 又ハ白尾氏の処で変な便を聞きオレの心持が感動し易く為て居たものか「濡て紅葉の長楽寺」とやられて去年の秋紅葉の盛なりし頃に長楽寺のほとりなる梅ケ枝の戸を夜更けてたゝきたる事など思ひ出して旨ふさがりぬ 即ち筆と紙を取り寄せ其場にて久米へ手紙を書く 後ち横山と連名の手紙を杉へも出したり 然し長楽寺の紅葉の感ハ久米ならでは分らぬ事なり 白尾氏にて聞たる変な便とは別事に非ず 鹿児島の伯父様が御大病のよし東京より電報有りしと云事也 大ニ驚き直ニ鹿児島へ電信にて御容体を聞合せたれどよくよく考れば伯父様ハ此の頃御出京中なれバ東京にて御わづらひの事と思ヒ付き再び東京へ電信を出ス 横山ニ又明日を約して別れ帰館したるニ東京及鹿児島より電信の返事来りて御病気大切の由也 又白尾氏の妻君留守中ニたづね来られたりと聞き即ち白尾氏ニ行かんとしたるに番地を忘れて覚ひ出さず 処々ニ人を走らせてようやく分り即ち車にて走り行き受取た電信を御覧ニ入れ拙者明朝の一番気車にて帰京の覚悟なる旨をつげ少し話して帰る 夫レヨり明日定山溪へ行約束の断を小河瀬氏の処ニ云てやるやら又明朝東京へ出す電信文や横山ニ別れ旁橋口氏の注文品の買入方及足立氏ニ逢つて養蚕の話を聞く事など依頼の書置をしたゝめ十一時半頃ニ寝床ニ入る 一時頃迄ねむられず

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