本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1894(明治27) 年5月21日

 五月二十一日(北海道旅行記) 久し振で舟の部屋ニ寝て愉快千万 朝五時頃函館ニ着 此処ニ三時とまると云事故上陸 文蔵様の御案内にて町及公園等を一と通り見物 又 Sobetsu で要る様な酒牛肉等を買入れ船ニ帰る 此の辺の気候ハ随分冷な方也 公園ニ梅が咲て居た 桜ハまだ極満開と云ニ至らず 上陸すると直ニ海岸通で女が野菜を売つて歩くのを見た 桜の枝を売つて歩くのも有り  水なかあねかー花カインカエ 函館ハ先づ香港の様な処也 島にハ有らねど半島なれバ島の如く見ゆ 町も沖より旭日に見たる時ハ中々立派なり 八時ニ室蘭ニ向け船を出ス 午後四時頃ニ室蘭ニ着 室蘭の港ハ小さけれどよし 先づ入口ニ大黒島とて丸くして見悪き島有り それを左ニして入る 旧室蘭の村も遠方ニ見ゆ 又杉の森林ならびニ為て居る処有り 之レが幕府時代ニ政府の有りし跡にて杉も三十年前位ニ植付けたるよし也 室蘭の港ハ這入て右也 町ハ今開け始めと見へて御麁末也 近処の山々の形面白し 今が桜が真盛にて今僅ニ芽を出しかけたる木の中ニあそこゝに紅の模様をつけたるハ奇麗也 此の辺の桜ハ全くの山桜なれど内地のものと異つて色紅ニして至て花やかなり 丸一と云宿屋ニ案内されて入る 丸一 角長だの家の印を屋号の様ニする事此の辺の習し也 時が早いから町見物ニ出懸く 雨が降て来たから宿屋の傘を借りて行た 雨の降る景色ハ海の色から向岸の山の色から丸でブレハ辺の様だ 町ハ極小さけれど一寸一と通り何でも有る様だ 料理屋も和洋両方やる内有り 鳥屋も有り 牛鍋屋も有る 女郎屋も沢山有り 今の処でハ市中ニ散つて居れど之レハ今年限にて来年から外の町の如く一と廓と極るそうだ 今晩宿屋ニて珍らしきものを食ハした 帆立貝の大きなのを焼たのだ 誠ニ結構なもの也 之れが此処の名物と聞く 此の辺で沢山取れる魚ハカレイとニシンなるが如し カレイハ頭から尾迄一尺計のもの十銭ニ十二三ハ上げますと魚屋が云た 夜食後直宿屋の隣に見世を出して居る人の処ニ話ニ行 此の人ハ橋口氏の面知也 もと此辺を通ふ気船の役員なりし人にして鹿児島川辺生の人 此の室蘭ニ移住し居たる仙台の人の娘を貰ひて此処ニ足をとゞめ雑貨を商て立派ニ暮らす 人の成行奇なものかな

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