本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1894(明治27) 年11月24日

 十一月二十四日 (日清戦役従軍日記)〔挿図2点あり〕 旅順口占領の報始めて到る 此の報知ニ依而オレの進退がいよいよ定まると云のだから愉快一層也 今夜村田少佐ニ面した 拙者来広の主意を述ぶ 終日井上と一緒に居た

1894(明治27) 年11月25日

 十一月二十五日 (従軍日記) 朝樺山中将ニ逢フ 第三軍の出□□(原文不明)のあやしき事ハ勿論第二軍の方が□□(原文不明)しく戦ハ無からん 依而第一軍ニ従軍する可也 □□□□□(原文不明)たり 夜食後村田少佐ヲ訪ふ 同氏の案内にて川上中将ニ面し油画師として第二軍即ち大山大将の軍へ向ひ出発の事と極る 後井上の下宿ニ行 十一時迄語る

1894(明治27) 年11月26日

 十一月二十六日 (従軍日記) 今朝よりカバンのつくろひなどを頼むが為めニ木村の店に行く ビゴがやつて来て同□□□□□□□□(原文不明)して□□(原文不明)まで居た 二人を□(原文不明)て岡本楼と云処ニめし食ニ行 三時頃迄引かゝる 井上の処に行たらオレの内ニ来たと云ので直ニ引返へす 途中にて出逢ふ □□(原文不明)逢□(原文不明)約して川野を訪ひ京都ホテル以来の互の身の上話をして別る 川野第二師団の通訳官として戦地へ赴くよし也 井上と別れ旁先日木村の先導で行た料理屋に行く 井上ハ八時の気車で長郷氏と共ニ帰京 ビゴの内ニて十時迄話す 帰れバ村田少佐よりの手紙が来て居て明朝大本営へ出頭の旨申来れり ステーシヨンにて鮫島盛氏ニ逢フ 伊集院氏へ紹介の名札を与へられたり

1894(明治27) 年11月27日

 十一月二十七日 (従軍日記) 樺山中将ニ逢ニ行き一昨夜川上中将ニ逢つた時の話をし又先般の海戦現時及び未来の二本の世界ニ対する位置の対象と外国の政策ニ付ての話を聞く こんなニ樺山氏の話を聞きたる事ハ今日が始て也 十時少し過ニ大本営へ出懸け村田少佐ニ逢ヒ第二軍へ出張の許可を得たり 之れでいよいよ事が極まる 船も二三日内ニあるとの事

1894(明治27) 年11月28日

 十一月二十八日 (従軍日記) 朝樺山氏ニ行 昨日の結果の話をしたら宮様がお立ニ為るから其船で行ようニするがいゝとてかくて宇品の通信部長の松本氏とかへ添書をやらんとて副官の鈴木と云人ニ頼み呉れられたり 十一時頃ニ大本営事務所へ行 鈴木氏ニ逢つたら松本氏ニハ既ニ話して置たから添書ニハ及バず 船ハ明日午後三時発の豊橋丸と云ふニ乗る様ニす可し 山階宮殿下が即ち其船ニて御渡清被遊からそれニ乗れバ都合よからん云々 アー明日立つ事と為るといそがしいぞ 其処で注文して置た Sac d’artiste の直しをいそがせるやら靴屋に走るやら大騒ぎサ 昼めしニビゴの処でお別れの御馳走ニ為る 四時頃から川野の処ニ行 木村を引出し三人連にて遊廓の直そばなる大きな湯ニ行 夫レから茶屋ニ出懸く 此処ニ別れの酒宴を開く 東京の友達がよこした大金にての御祝の手紙を取り出してよみ其返事として戯の画を久米と合田ニ送る

1894(明治27) 年11月29日

 十一月二十九日 (従軍日記) 朝暇乞として樺山 川上 寺内 村田の諸氏を訪ひたり 樺山中将よりハ餞別として茶壺と干魚の入りたる壺を貰ふたり 合田より送り来たる木板の見本を紀念の為村田氏へやりたり コニヤク 靴下等の買物をして返り直ニ入れ付を始む 間もなく木村 川野及川野氏の友人にて同じく通訳官と為て居る某尋ねて来た 皆荷造の手伝をしてくれた そうこうする内ニ時間が段々せまつて来るから酒肴を出さしむ 少し飲だり食たりして居る内ニ時が来てめしハ食ださずして立つ 前の四人ニビゴが送つて来てくれた 宇品で宮様のお立ちと云ので軍人の人達随分沢山見へた 樺山中将 寺内少将等も見えた 寺内少将ニハ船迄お見送りせられた 船ハ予定の如く三時頃出帆

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