1894(明治27) 年5月24日


 五月二十四日 (北海道旅行記)
 天気よし 文蔵様の御案内で洞爺湖を見ニ行く トンコロを積で行舟ニ便船して滝の方ニ渡り滝を見 非常にけハしき道を下りて滝の下ニ出て夫れ文蔵様の開拓地の東北ニ出で家ニ帰る
 トンコロとハマツチのじくを造るニ用ゐる木なり 湖水のわきの山より切り出したるものハ舟にて滝の上迄運び夫れより水の流ニ任せて滝を落し川下の関の様なもの有る処ニて自然ニ止る也 此の川ニそふて機械にて其木をさきマツチの木と為す製造所多し 移住民共職人ニ雇ハれて仕事スルもの少なからず □□(原文不明)村の如きものをなす住居ハ真の小屋掛にて土壁の家ハ上等也 木の皮などにてつゝみたるも有り 屋根ハ板も有れバかやの如きものも有り 内の中は軽き板の間の如きものニむしろを数たるが普通と見ゆ 其あハれなる体□□(原文不明)山の中の鉄道工事ニ従事する支那人の村に相対して決しておくれを取るまじと思ふ 壮瞥の橋口氏の屋敷ハ中々いゝ位置の処也 左右ニ山をひかへ谷川ニそうたり 座敷より見れバ有珠岳と云が右ニ在り 絶頂の崩れたる処赤みを帯びたり 今ニ絶ず少しづゝ煙をはく 庭先のぬびぬびとしたる樹木の具合から牧草の生へたる処見れバ日本に居るの心地ハ更ニ無し
 白尾氏後鼈ニ今日見ゆる様な電報が来たので大いそぎにて昼めしを食ひ橋口氏と後鼈ニ来り聞合せたるニ舟ハ来れど白尾氏ハ来ず 無拠今夜ハ後鼈の阿部と云ニ泊る事とした 橋口氏ハ其序ニ知己の処ニ見舞をなされた 拙者ハ其伴をして市を見物す 又二人連で町の湯に行く 此処にてハ男湯女湯と区別ハして有れど之レハ表向にて時の都合にて混ずる事有りと見へ男湯の方ハ少しあつ過ると云てオレなども女湯の方ニ入れた 已ニオレ等より先ニ男一人入り居たり しばらくして床屋の女が子を連れて入つて来た 平気なもんだ 此の女もとハ後家なりしと聞く 後家とハ娼妓の事ニテ此辺の言葉也 此の後鼈と云処女の風俗至而むちやな処にて人の妻か又ハ娘にて色男を持たぬものハ彼れハ男の一人も持ち得ぬと云ていやしむるとの事也 村ハづれニ鎮守の神有り 其祭が毎年九月頃に有るよしなるが其祭を名づけてケツト祭と云ふ 兼て思ひ合つたる人々皆ケツトをかぶつて参詣すると也
〔図 写生帳より〕