1894(明治27) 年5月26日


 五月二十六日 (北海道旅行記)
 昨夜の不平一晩ねたら大ニ少なく為た 昨晩めし前ニ風呂ニ入つた処が女が這入つて来た 此女中々にゝからだだつたから少しく感服の体 然るニオレが折角いゝかげんにして居た湯をぬるいと云た だが仕方ねへ 奴の体のいゝのに左程不平にも思ハず湯のあつく為るのを我慢して這入て居たのなどハ面白しと今朝ニ為て見れバ考る也 朝六時ニ起てゆつくりと仕度し
狭きがらくた馬車ニ六人つめ込められ七時前ニ宿屋を出て停車場ニ行く 停車場の有る地迄一里二十町計り有り 其途中の困難言語道断也 どぶどろの如き上に非常な高低が出来て居るので馬車の動く事一方ならず 今度こそハ倒れたと思ふ事数知れず 馬車が五六台引続て出たが一番あとの馬車など土の中ニ輪がはまり込み動かなく為たりしてよほど後れた
 気車の出たのハ八時少し過なりし 今日の天気ハ全の temps bon mieux にて景色殊外面白し 此の北海道と云処ハどうも西洋に似て居る 木にはシエヌソール又ブーローの如きもの多く此の霧の為か草原の色なども余程 tendre 也 気車ニハ下等ニ乗込だ
 車の製造ハ日本也 随分粗ニて手荷物をのせる棚などは無けれど亜米利加風に習つて窓の方ニならんで向ヒ合つて腰をかけ中を通る様ニ為て居る 其通の中ニ又一条の腰掛があるからつまり通りが二本ニ為て居る道理也 又車より車ニ渡る事が出来る也 但し conducteurs が其間を往来するのみ 便所ハなし 腰掛ニ布の張つて有るハ上等のみ 中等ハ内地の下等と殆んど同じ 各車の隅ニ鉄板の張りたる処有り 之レハ極寒ニ poele でもすゑる処なるべし 十一時十五分位前ニ苫小牧と云ニ着く 此処ニまんぢう もちなど女子が売ニ来たので皆々之れを買ふて食ふ まんぢう もちも一つが一銭也 中々甘し 此レ迄の景色ハ馬の牧もあり森も有り原も有り皆海岸の地故海ハ見ゆる也 村も処々に在りアイノの村も二つ計見受た アイノの十四五とも見ゆる女の子が小川の一本木の橋の上にねころび釣をして居る様ハ余程面白く感じた 此の辺の森の色ハいかにも Fontainebleau 辺ニ似て居る ブーローの葉が少し青みがゝつたのは Paques の頃の風致有り Ah! mais c’est tout à fait la forêt de Fontainebleau des petit bouleaux et de sable. Suis-je en de train d’aller voir Griffin à Fleury? 追分と云処ニ到れバ十二時也 此処ニて弁当を使ふ 此の停車場より夫婦ニ子供連の人乗り込む 此の人ハ鉄道局の役人と見へて印の付いた帽子を冠りたる者共しきりニへいつくばつて別れを告ぐ 又女連の見送も有り 其見送の者共余り上等なる人達とハ見へず 東京の相場なら下女より上ニ出でまじき者共也 大抵皆若き者なりしが手持ぶさたと云体にて右か左の手にてほろの半分をかくして居れり 兼て橋口氏の下女松が此のふりをするがさてハ此の geste ハ全く此の地方にてはやるものなりと始めて知りたり 二時少し前ニ岩見沢ニ到る 又まんぢうともちを買つて食ふ 岩見沢の地方ハ今切角開き方の最中と見へたる処多し 岩見沢の Station ニ何処から来た気車か知らねど車や材木などを積む荷車ニ男女まじりて三四十人積で来たのが有つた 之レハ植民なる可し Colonisation の盛なるを知るニ足る 岩見沢を出て少しく行けば Marécageux の広野左に見ゆ 此辺の景色ハ一寸亜米利加風とでも云はんか左程に面白くなし 室蘭より此方総て土地ハ Marécageux 也 開きたる処ニハ Canaux の作りあるを見る 川も沢山有れど大抵皆にごり水にして壮瞥の川の様なものに非ず 江別川 Yebetsu を渡つて江別と云駅有り 饅頭の名所也 土産物ニする為か乗合の人々此の饅頭を買ふ 此の名物の饅頭ハ細長きものニして通常の饅頭形の形ニハはづれて居るわい 此辺の子供は饅頭笠などの解に苦しむなる可し 此の饅頭の名を恵比寿饅頭と云ふ 四時十五分頃札幌ニ着
 先づ道庁ニ行き横山を尋ねたるニ土曜にて居らず 小使ニ宿所を聞かんとしたれど小使も居らず 仕方なくいきなりニ豊平館を尋ねて行く 此処ニ横山の旧宿の番地を得たれバ先きから先ニ尋て行てようやく分りたり 留守なりし故名札を置きぶらぶらと市中を見物ニ出懸たるニ大通の近所にて後より新太と呼バれて驚けバ即ち壮一郎也 共に豊平館にて夜食し夫れより同所に止宿する旨の届けを出しなどして後農学校長佐藤と云人に逢に行たり 又市中を散歩して十時半頃ニ帰る
 今夜ハ西洋流ニ寝る事故心地よし 京都ホテル以来の愉快也