本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1893(明治26) 年7月1日

 七月一日 (ニューヨーク日記) 此の前の土曜日の晩ニニユーヨルクニ着て今日迄丁度一週間の滞在ニ為た 牛窪さんのおかげて大層面白く暮した 村の親爺も遊で居るので奴の案内で方々見物した 又奴のおかげて日本めしハいやニなる程食た どうも中々心深な男さ 其御礼ニお梅さんなんかと附合てカルタ打なんかやるのハ一切やめるがよかろうなど云ヒ度もない事を奴の為と云ので云て来た 之レハ一つハ牛窪さんからの頼も有つたからの事さ 今日も亦お昼の御膳を親爺の処で御馳走ニ為た 夫レゆつくりとして五時半頃ニ立つた 牛窪君ハ勿論親爺親子三人連で停車場迄送て来て呉れた 夫レカラお餞別ニ親爺が何ニか紙ニ包だものを二つ呉れた 今朝島村さんと治郎先生の処ニ別れニ行た 治郎さんニ貧がオレニ餞別ニ呉れた画ヲ以テ行て見せたら大変よろこんだ 島村さんの処ニハ今度ハたつた一二度行た お神さんが出来たり子が出来たりしたもんだから以前の様ニ気兼なくする事ハ出来なく為て仕舞た 何と云ても前ニあんなニ度々御厄介ニ為た事などもあるのだから今度オレのかいた画の写真を持て来て居るのを幸一枚記念の為ニ昨日持て行て上た 牛窪さんニも一枚上て置た 島村さんが気車の都合などを書記の関さんニ頼でいろいろしらべて被下た 今日行たら又サンフランシスコトバンクーバーとの飛脚船の出る日やら着日又船のよしあしなど教へてくださつた 之レで少し旅の方角がついた様だ 又新二郎ニ出す電信文の下書も書いてくださつた 新育で受取た手紙ハ新二郎からのが一通 之レハ領事館で受取る 夫レから巴里のミラスの妻から一通 之レハ牛窪さんの見世に領事館から送て来たのを牛窪さんが其日の夕方渡してくださつた ナンダあの船が新育の向の陸ニごつとりと着た時ニ色々な人が沢山迎ニ来て居る 其中ニ牛窪さんの顔が見へたのハ何よりうれしかつた 新育ナラバ先づともかくも新育のズーツト左の(海から向つて)方の川向だからどうして新育ニ行事が出来るだろうかと一寸心配ニ為たのさ どうもオレハ気が小さいのか知らネへが独旅ハつまらネへ事ニ心配するから困る 実際言葉の能ク通ぜぬ処でハ気が何となくせまくなるわい 久米公が居たらと思ふ事が幾度も有る 牛窪さんニ久米公からオレが新育ニ行と云事が前以て云てやつて有つたのだつたが全体オレの乗た船ハ十七日ニ出る筈のが十四日ニ為りおまけニオレからハなんとも牛窪さんの方へハ云てやつてないのだから態々迎ニ来て居てくださる事とハ思ハなかつた 久米から牛窪さんへやつた手紙ニハ船の名ハ間違て居る上只いつ出ると計で何処の会社の舟とも無いので見付けるのニ大層骨が折れたそうだ 先ツ多分此の船だろうと云ので其船が見へ次第ニ電信ヲよこして呉れと港の極はずれニ有る一番先きニ入船の見ゆる処の電(以下欠)

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