1891(明治24) 年6月25日


 六月二十五日 木曜 (独仏国境旅行日記)
 今日ハホツフエルノ故郷ナルブベニ奴と一緒ニ行ふと約束ヲシテ置た処が今朝曇テ居ルので九時ノ船ニ乗ル事ハ見合せるがよかろう それから又自分ハ少し用が有ルカラ其用ヲすましてから来ると云テ弟ヲ独りよこした 其弟の奴ニちようど宿屋を出テ例の包ヲ肩ニ引キ懸ケ船付場ニ行く途中デ出逢た 其レから奴ノ案内デホツフエルが用が有テ行テ居ルト云内ノ前ニ行テホツフエルの野郎が出て来るのを待て居た しばらくしてとうとう出て来上つた そこで四人連に為り一緒にアリヤナと云博物館ヲ見ニ行ク 此博物館ハなんとか云金持ノぢゞいが自分の楽ノ為メニこんなすてきナ立派な家ヲ建テ其処ニ世界中ヲかけ廻つて処々方々デ買ヒ集メタ色々ナ美術品ヤ又奇物ヲ飾リ立テ愉快ツテ居タノガ死ヌ時ニ為テ其品物ヲ家屋敷ぐるみ丸デ政府ニ呉レテ仕舞タノダソウダ 気楽ナ奴ダ こんな風の気取方ダ 全体西洋ニハ多いゼ 偖テ其博物館ハ博物館と云テモ毛ダモノヤ魚ヤ植木なんかのひからびたの等ハ無い 先づ一寸云テ見レバ額ヤ古道具ナドならべたる体取りモ直サズ古道具店サ 日本の品ナドも沢山有ル 這入口の前の庭先キニかなり大きな釣鐘がつるしテ有ツタ さわつちやいけネへと書テ有ツタケレド ホツフエルカ誰カヾグワアーンとやつて見タ 中々よく鳴ルわい 其アリヤナニ行ク前ニ停車場の前の珈琲屋でホツフエルガ拙者等ニ白葡萄酒ヲおごつた 此ノ酒ハ当地の名物だそうだ 帰りがけニ拙者等が昨夜泊タ宿屋ニホツフエル兄弟ヲ連テ行キ昼めしをやる
 ホツフエルが拙者等ニ昨日君等が僕の内ニ尋テ来た時ニ誰れかゞなんとか失礼ナ事ヲ云ハしなかつたかどうだと問た イヽへ何ニ事モなかつたと久米が返事ヲした アヽそれならよかつたが僕ハ屹度門番の老婆がなんとかぬかしたニ違ヒなしと思つて腹が立つたから大ニ諭シテ置た 実ハつまらない訳サ 昨日内へ帰て見ると久米君の名札が置て有ツタ それから門番が僕ニ向ひしきりニ其人ハなんだとぬかすぢやネへか あれハをれの友達デ遠方からをれを尋ねて来たのだそれがどうしたのだと云つたら何ニそれならいゝがあの人をつけて探偵掛りの巡査が来タからあやしい人かと思つたのだ なんだ畜生めをれを尋て来る者ニそんな怪い奴が有ると思ふのか 以後をれの友達ニなんとか失礼な事をぬかすときかネへぞとひつちかつてやつたが君等ニ何んとも云ハなかつたなら先ヅ先ヅ仕合せだとホツフエルが話した さて此の事の起りと云のが奇な訳サ 昨日ホツフエルの内ヲあつちこつちと尋て歩き巡査ニ聞ても憲兵ニ聞てもよく知らず とうとう仕舞ニ巡査屯所ニ行テ聞た 其時聞ニ行タのは拙者サ 破れ切つた被物ヲ被て居る上ニきたない乞食のかぶる様な帽子ヲかぶりおまけニ面と云つたら見タ事どころか話シにもろくろく聞タ事のネへ様ナ顔色と云もんだろうぢやネへか これハくせ者ニ違ヒ無シと巡査の野郎等が思ひ込だも無理ハ無い 拙者等ハそんな事とハ夢ニも知らぬから屯所ヲ出で二人連でホツフエルの内の前迄行き拙者ハホツフエルと云奴ハ知らぬから手前独りで行ケオレハ此処で待て居ると云て久米ヲ独りやり拙者ハ道ばたのくづれかゝつた様ナきたない木のばんこニ腰ヲかけて休で居た 久米ハ独りで出掛て行た そうすると直ニ久米のあとから町人風の男にて年の頃凡ソ三十五六とも見へる奴がホツフエルの内ニ這入て行た 此の奴が即ち探偵家なりしか 其当座ハ肉デモ売ル奴かと拙者ハ思ヒ何ノ気ニもしなかつた 久米公が云のニは奴がホツフエルの内ニ這入り先づ門番ニホツフエルと云人ハ何階に住ふかと聞きそれから上ニ上りて這入口で鈴ヲならして見るのニ誰れも出て来ず そうする処ニ前の町人風の男が久米の後ニ立ちて居り久米ニ言葉ヲかけて誰れも居らぬかと問ヒたり 左様と答へたるニ鈴ヲ今少し引て見ろと云つたり それから又鈴ヲ引て見るのニ返事が無いから其儘ニして下の門番の処ニ行き自分の名札ヲ出しホツフエルが帰つたら此の名札ヲ渡して呉れ又今夜来るからと云置て立ち出でたり 巡査なんて云ものハ随分お気のつかれたものかな 人をこまらせようとして笑ハせるとハ面白い
 めしを食ひ乍ラ天気ヲ見るのニどうも晴れず 風が少し有ルから湖水ニ波が強く立つかも知れず 若し波がひどい様なら只小さな帆かけ舟ヲ雇ヒ沖の方ニハ出ず湊の波の立ぬ辺ヲぶら付く事と極め先づなにしろ聞き合して見る可しと云てホツフエルの弟が宿屋から伝話機でブベの茶屋ニ聞合して見ると波ハちつとも無いとの返事ニ安心シいよいよ三時十分ニ出る 舟ニ乗てブベニ行く事と極めた 宿屋ヲ出てからまだ時間が有ルノデ湖水ぎハの昨夜一寸立ち寄た珈琲屋ニ腰ヲかけ珈琲ヲ飲だ ソウコウする内ニ早三時ニ為たから船ニ乗り込だ 此の船ハ小蒸気ニて湖水の回りヲまわるが芸也 客の五六十人位ハ安す安す乗せるだろうと思はれる者也 ホツフエルハ拙者等の案内として拙者等と共ニ船ニ乗る 奴の弟ニハ出航の時ニ別れたり 沖ニ出ても波ハちつとも立たず至極隱カナ事ニテ誠ニ仕合 只時々雨が降た 夕方の七時過ニブベニ着た ホツフエルの案内で直ニ奴の内ニ行き奴の親爺さんとおつかさんニ逢た 二人とも七十計の老人で中々丁寧ナ人達サ ぢいさんハ画がすきで今でも少し美術家ヲ気取て居る 古くサイ干瓢の煮しめ見た様ナ画ヲ描テよろこんで居る 拙者等モ遂ニかく為りはつる事かと思つたら実ニかなしく為た 夕めし前ニホツフエルの導で市中ヲ一通り見物した 食後十一時頃迄皆さんと話しヲした 今夜ハ此の人達ノ御厄介ニ為る