本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年6月21日

 六月二十一日 日曜 (独仏国境旅行日記) 朝八時半頃ルリユドランを立ちズーツと歩て十二時ニゼラルメニ着く 途中雨が降りつゞけ雨合羽ハ被て居たれどもひざの処からもゝへかけてびつしよりなつた 途中グランバルタンと云処の酒屋ニ一と休みした 衣物がぬれても被替へが無いので大閉口 股引の下にふらねるの繻半をさかさまニして手を入れる処ニ足をつきこみ下股引の様ニやらかし其上を二三ケ処鼻ふきで包だようニしてくびりそうして其上ニぐヂヽヽにぬれて居る股引をはいた 矢張ジメジメしたが先づ一寸之レでごまかした 実ハ余り雨ニぬれたから今日の昼めしハ部屋ニ取りよせぬれ衣服ハぬいで仕舞てゆつくりとめしを食ふ覚悟で宿屋ニ着て直ニ其事を云ヒ出だそうとして宿屋のかみさんニ向ひ拙者共ハこんなにぬれたから食堂ニ行くのハいやだと云ひかけるとアヽそれでハ別の小座敷ニ食事の用意をするから其処ニ来て食へとか何んとかかんとかと云て拙者の云ふとして居る大事な事ハ聞もしないで行て仕舞た 実ニあのばゝあハさばけ切てこまつたばゞアさ だがどうも仕方がないのでとうとう前の様な策をやらかし小座敷ニ行て食た 併しめしを食ヒ取ると直ニ此のぬれ衣物をぬいで其衣物ハ下女ニ申付けてかわかしてもらをう それニ付てハ下女を一匹手ニ入れるニ不如と議決しめしの給仕ニ来た非常なあをんぞうの下女ニ一仏ポーンと呉れてやつた そうするとこんな大金を貰つた事ハ生れてから始めてと見へ一物有つての事とハ知らず何の為メニ金を呉れたのだか知れぬもんだから一寸へんちきな面付をしたが何ニして金を貰つたニハ違無いもんだからよろこんだ 食事をすましてから部屋ニはいつて衣物をぬぐ前ニ珈琲を一杯やらかそうと思ひ玉突部屋ニ行て居るとばゝあが出て来てどうですまだ衣物がぬれて居ますかハアヽぬれて居るならあとで台所ニ行て少しおあぶりなさいそうするとぢきニかわきますとぬかし上つた 実ニ以てしようのネー尼さ とうとう自分で台所ニ行て衣物をあぶらなければならない様ニ仕懸けよつた 仕方がネー 衣物も大抵上つ面丈ハ干いた様になつたので部屋ニはいつて寝てやつた 併し只此の儘ですましてハ切角下女ニ呉れた一仏ハなんニもならないと思つたから靴と脚半丈は下女ニ申付てかわかして貰つた 先つ之れで少し取り返へしが付た 其内ニ雨もやむだ 夕方七時少し過から一時間程湖で舟こぎをやつた 一寸愉快だつた 今晩も亦別室でめしを食ハして呉れる都合ニ為つて仕合せ也 今夜給仕ニ来た下女ハ別な下女ニて五六人居る下女中で一番教育が有ると見へ兼而張面付ケをして居て頭ら振て居る奴也 此の奴も矢張あをんぞう也 併し面付はほかの者ニくらぶればましだ それから言葉遣ヒが田舍風でなく気取て居るので之レこそいゝ機会だ兼而人が拙者等ニ外国人ニしては仏蘭西語をよく話すなどとぬかしやがるから一番今度ハ此の下女を返へし打ちニ打つてやろうと思ヒ何ニか一皿持て来た時ニ至極まじめな面をして「オイあなたハ此処の土地の人かネー」(西洋でハ大抵どこでも男女貴賤皆同権と云勢で下婢などニもあなたと云ハネバナラヌ事也)と聞くと此処より遠からぬ何とか云都会の者と答へた 其処で拙者が得意ニなりアヽ成程それでおまいハ(実ハ前の如くあなたと云たけれどこつちの心持ハオマイと云心持で云つたのだからオマイと此処ニ記す)外かの奴等の様ニおかしな調子でなく中か中かよく仏蘭西語を話すと云つてやつた 之レハ先づ此の旅中の拙者の手ぎわの一也と知る可し それから又久米公と会議の上此の下女ハ鄙ニまれなりと云処で一仏下し贈ハる 夜食後茶など飲み泰平を気取り又少しく散歩す

to page top