本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年6月11日

 六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 四月二十九日附御尊書五月三日附母上様よりの御手紙並ニ二百五十円之為換券等孰れも本日公使館ニ於て難有受取申候 其御地皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至而壮健先便より羽書を以て一寸申上候通久米氏と旅行の件愈実行致す事と決し去る八日田舍より引上来り此の三四日間ハ雨合羽及ひ沓等歩にての旅ニ必用な物品買入等ニ費し今ハ仕度も殆んど整ひ候間いよいよ明朝出立の事と定め申候 仏国の東独逸境ニボウジユと申山有之候 其辺の景色余程宜敷と申事ニ御座候間先一番ニ其地方を見物致しそれより時と金とのあまりがあれバ南ニ下りスイス国迄も入り込む覚悟ニ御座候 今月の末迄ニハ巴里へ帰り着申度者と存候 私田舍ニ色々とかきかけ置候画など有之就中昨年の夏かき始め候女の立たる肖像是非当夏中ニ描き上け来春の共進会へ持ち出し度それ故いつ迄も旅のみして居る訳ニハ行き不申候 夏と申ても九月の末頃迄の話にて今月中丸で旅にて暮すとして見れバたつた三ケ月間の事 其内より日曜とか祭り日とか又雨天等を差引く時ハ実ニ僅の時間ニ相成候 其中ニ大きな画一枚かき上るなど云事少し六ケ敷何しろ此の旅より帰りてから一心ニ勉強せずバ又其画ハ来年の間ニハ合ひ申間敷候 来年ハ此の肖像の外ニ今一つ何ニか出す考ニ御座候 当年の共進会も今月一杯にて閉会致し候 私ハ只出品を許されたと云迄の事にて褒美も何ニも取り不申候 沢山立派な画のならび居る処ニ出て見て始めて自分の力の足らぬ事を知り不具の身体を人ニ見られたる心地致し候事ニ御座候 今より四五年位の修業にてハとても思ふ様ニ出来る画かきニ成る事ハ六ケ敷只死後をあてにして気長ニ一生勉強するの外無御座候 学校の方も大抵当年かぎりニてつぶれ候様子ニ相成候 之レハ新入生少なく私の如き古き生徒ハ皆銘々勝手ニ田舍などニ引込み画をかく様ニ相成候故ニ御座候 沢山居候生徒の中にて米人一人と英人二三人ハ学校ニ行頃始終同しめしやにて食事など致し居候故交際も自ら親密ニ相成候 其後も其英人の中の一人と米人とハ田舍などにても折々取合ひ候 併しいづれも修業の身故今の如く附き合ひ居る事ハ暫時の事にて二三年の内にハ皆世界の四隅ニ引はなれて住ふ様ニ相成も知れず されバ御互ニ同じ学校にて学びたる身なる上親しく交際し来りたれバいつその事美術の博物館とも称す可き伊太利国をも共ニ打つれ立て見物し其上別れを告けたらバ此の上も無き紀念ニ相成可しといつか久米氏及び右両人の西洋人と田舍めぐりを致し候折ニだれか云ひ出し皆々大ニ賛成し遂に当冬ニ其旅をする事と致し候 皆も諸生の事故と時と金ハ常ニ少なく此の冬ニハ其旅ハ甚ダ無覚束候得共ことニよりてハ来春共進会開会後ハ実行するやも知れ不申候 私も帰朝前ニ伊太利国ハ一目見申度兼而望み居候事ニ御座候 特ニ友人等と馬鹿も云ひ又へぼ理屈などならべながら旅をすると云事ハ此の上もなき面白き事故是非共同行致し度候 而其旅もすみ候ハヾ一先帰朝致候様都合ニ致し可申候 樺山愛輔氏いつか病気ニて帰朝相成由跡にて承り候 最早此頃ハ達者ニ被相成候事と奉遠察候 余附後便候也 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

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