本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年6月14日

 六月十四日 日曜 (独仏国境旅行日記) 今朝五時ニ起た 今度の宿屋ニも虫が居らず天下泰平 五時五十分の気車でシヨウモンと云処へ向テ発ス 今朝曇り天気也 気車ニ乗て行く心地白耳義国内でも旅して居る様だ シヨウモンニ八時半頃着 市中をへめぐつて見物す 一寸立派な市也 気車中で食ふ積で豚肉の腸詰とパンとを買た パン屋のばゝあが不挨拶な奴でパンを包む紙を一枚呉れろと云たのニ紙無しと云切て紙を呉れず よんどころなくパンを其儘で手ニさげて停車場ニはいつた 其様ハわきから見たらあんまり上ひんでなかつたに違ひなし 十時十五分頃ニシヨウモンを立てアンドロニ十一時少し前ニ着く 停車場を出て少し行くと又憲兵の奴が面倒をぬかした 画かきだと云た処がかんばんかきかペンき屋かと思ひくさつて今迄巴里で雇て居て仕事をさした親方の書付でも持て居るか又旅をするのに金が有るのかなんてぬかしやがつた 馬鹿な野郎も有れバ有るもんだ こんな奴はあんまり此の立派な仏蘭西国の名誉にはならなへぜ 此のアンドロで麦酒を一杯引懸けそれからぼつぼつ歩てマノワ迄行く 比の距里ハ僅二里計り 川など有りて景色一寸よし 今日ハ日曜の事故マノワの停車場ニ村の年頃のむすめ七八人めかし切つて来て居た いやニ思ハせ振て居たが皆へちやむくれ許り 村に取ての不幸也 三時半頃ニマノワを立てミルクールに向ふ 腹がへつたから途中のヌフシヤトウでパンと肉の冷へたのと酒半本とを買て気車の中で食た 其あぢわい実ニ結構 五時半ニミルクールニ着 宿をホテル・ド・ラ・ポストと極め荷物を其処ニ置て市中を散歩す 夜食の時妙な男と知り合になる 此の男ハ土地の者にてポールジヤコビと称す独り者なれど一寸立派な家など持て居る 年四十三歳にして此の三ケ年前ニ商売をやめ仕事せずして気楽ニ暮す 食後其者と散歩ス 町はづれの土手の上で十三四の子供四五人ニテ鼓弓やマンドリヌと云伊太利琵琶の稽古ヲ為シ居るを見る ジヤコビ其者等ニ命じて拙者等の為メニ一曲やらしむ 月も出居たれバ殊更面白く聞ぬ 此のミルクールと云処ハ楽器の名所ニして音楽を為す者多しと云 門前の小僧習ハぬ経読むのたとへの如く小供迄も音楽ニ達す 人無き静な処ニ集ひ合ひ月影ニ楽を奏するとハ随分高尚な遊也 後ジヤコビの家ニ行く 薬種屋也と云若き男一人来る 四人にて焼酎を飲み話す 其酒ハジヤコビの手製也 第一感心な事ハ其ジヤコビなる者の親孝行なる事也 造りたしの新築の家の間取など見せたる末古き家の方ニ導き其母様とおばさんとの肖像を見せ此の二人の人の恩忘れ難し 此の二つの額面ハ拙者所有物中の最モ大事な品也 若し火事でも有る時ハ他のものハ棄て置ても之レ丈ハ是非共持ち出す覚悟也と思ひ入てかたりたり 又立派ニ飾りたる古き寝台二つ有り 其寝台の上にて母様と叔母様とを失ひたれバ一生離ルヽニ忍ビす云々 欧人ニして之レ程親を思ふの情深き者ハ甚だ少し 後又四人ニテ少しく歩き茶屋ニ立寄り茶を飲む 音楽の教師なる老人一人来りて話しを為す 土耳古など見たる男ニテ話し一寸上手也 少しく物知りたる者と知られたり 十一時頃皆ニ別れて帰る

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