1891(明治24) 年6月20日


 六月二十日 土曜 (独仏国境旅行日記)
 八時半頃朝めしを食ふ 全体今日ハ此処ヲ立つ筈なりしが宿の奴等があんまり深切だし其上場所がいかにも静にて山の中の体裁が有ルノで又一泊と極めムールド川ニ沿ふたる谷間を見物ニ出懸る事と決し九時半頃立つ ハボリユ フランフアン等の村を過き藪の中で弁当を遣ふ フレーズと云鉄道局などの有る一寸大きな村で珈琲屋ニ立寄る 其内のばゞあの髯ニは実ニ驚き入つた 一体西洋ニハ鼻の下ニ黒くひげの生へた女ハ多いがあご髯迄こんなニ沢山有る奴ハ始メて見た 赤髯の上ニイヤニいかめしい面付きをしてをるばゞアだ 丸で画ニかいて有る毛唐人の面さ 夫れよりクレブシーの方ニ廻る 雨が非常ニ降而来た 中々以て止まず レグリメルニて居酒屋に立寄り又一寸休む 其中ニ雨やむ それより山を越へてハボリユへ出て五時頃宿屋ニ帰る 今夜ねる前ニびつしよりぬれた靴靴下脚半などをかはかして呉れと宿の娘ニ頼で置た 其娘と云奴ハ年ハ十八九だが青んぞうの上甚だよくない方だ 併し仕事をよくするのニは感心さ そうして一寸居た丈けでよくハ解らねへが巴里近在の百姓娘のオテンバな奴等の様に上気でネー様だ 誉メテ遣ハスゾ