1891(明治24) 年6月23日


 六月二十三日 火曜 (独仏国境旅行日記)
 朝七時半ニ立つ なかなか暑し ベツセルリンニて八時四十分の汽車ニ乗ル 十時頃ミルーズニ着ス 此処ハもう中々以テ独逸風が有ルゾ 兵卒が隊を立てゝ通るのを見た 又此処より日本へ端書を出す 独逸領の地ニ来たと云印也 市中を一通り見物してから停車場の前の飯屋で昼めしを食ふ 其内のかみさんから子供達迄仏語と独逸語をチヤンチヤン勝手次第ニやらかす なまいき千万也 十二時四十分の汽車でバアールニ向ふ 二時頃ニ着ス 此処ハもう独逸領ニ非ズ スイス国也 ミルーズよりも亦一層盛な都会也 此の地の言葉ハ矢張仏語と独語也 立派な宿屋が停車場の前ニ沢山ならんであるけれど金が高かそうだと云ので久米公入る事を欲せず 先づ包みハ停車場ニ預ケて置て手ぶらで宿屋をさがす事と極めぶらりと出懸けた だがあんまりよさそうな宿屋もめつからずとうとう仕舞ニフオーコンドールと云内ニ入り込んだ なんだかきたならしい宿だ 併し先づ之レで一と安心 それから市中をゆつくりと見物す 博物館をも見る 彼の有名なる昔しの独逸の画かきヲルベインのかいた画が沢山有り拙者等ニ取つてハ余程いゝ学問ニなつたぞ 後ライン河のほとりなる珈琲屋ニ休息し珈琲などのみたり 此の茶屋の下女一寸あかぬけた様な奴で拙者等ニ向ひ亜米利加人かとぬかしたり 奇な事を云ふ奴かなと思ヒどうしてをれなんかを亜米利加人と見たかと聞て見たら色が黒いからだとぬかし腐た 夜食ハ宿屋にてやらかす お値段の処甚だ安からず 食後も亦市中を散歩す 九時半頃帰宿シそれから久米公と二人で今持て居る丈の金の取り調べとあした行く処の極め方とを為す よく計算して見ると云ふともうたんとハないぞ 今度の旅も最早一両日の命と相成つた 先づ此処から直ニジユネブに出てそれから巴里へ引かへすとして其汽車代を引て見るとジユネブの都で使ふ銭ハたつた十五仏だ 一晩とまる丈の事なら倹約すれバそれで行ん事ハないがジユネブニハ久米公の知人が居る 其者ニ逢つたりなんかする日ニは酒の一杯も共ニ飲まずバなるまいしそう成て来るとどんな事をしても十五仏ぢやだめだ 鳴呼此処迄来てジユネブも見ぬのハ残念だがジユネブでをくれを取りつらい思ひをするより此処から直ニ巴里へ帰へる方がましなりと云説を拙者が立てた 併し久米公は平気で矢張ジユネブ迄行く気で居る これハ不思議千万久米公の勘定家がこゝに至而閉口せぬとハどう云もんだと思つたニさてさ其処ニ一理有りだ 奴ハ拙者と同じ様ニ二百仏持て巴里を出た様な面付きをして居てないない預備金百仏と云ものを別ニかくして持て居たのだ それを拙者ニ知らせなかつたのハ若し拙者が知ると其れ迄直ニ使て仕舞ふニ違ひなしと思つたからの事さ 今不意ニ百仏丈余計ニ出て来たので地獄で仏 安心してジユネブ迄行く事と早速極めた 十一時頃ねる 今夜ハとうとう虫ニやられた 之れが今度の旅で始めての虫也
 此の辺の女ハボウジユの山の中ニくらぶれバ青みが少ない方だ どう云訳であんなニ青い面がボウジユニハ多いかしらん 青いいやな杉の様な木計り見て居るから面迄青くなるのかナ 奇体だ奇体だ