1904(明治37) 年5月11日

千万磅外債募集条件愈発表せられた。六分利にして手取九十磅とは実に情ない条件の様だが、併し実際の処正貨欠乏で止むを得ない次第である。それに戦争に勝つても斯ふ信用がなくてはだめダ。昼後学校出勤五時帰宅。小泉待受けて居つた今日の号外は旅順の爆声を聞くと云司令官報多分露艦自ら破壊せるならんとの話。六時半頃小代も来る。飯後に開場おぢさん万歳である。珍らしく十時にしまつた。

1904(明治37) 年5月12日

今日は鎌倉地方に遠足をやるので学校は休みになつた。夕方寄席へでも行ふかと思つて居る処に菊地の野郎がやつて来た。軍人の肖像を売り出す積りだから其広告文をかいてくれろと頼みに来たのだ。それから是非小父さんを迎ひにやれと云ふので呼びにいつて間もなく来た。今夜は十時過で帰る。

1904(明治37) 年5月13日

一日引込んで居た。夜七時頃小代が来て一緒に麻布亭に源氏節を見にいつた。例の通芝居の真似事をやつたが先づ役者は揃つて居る方であつた。入りは七分通りである。

1904(明治37) 年5月14日

今朝佐野来浅井行の石膏は出来上り学校へ昨日届けたといつた。請求書及見積書は直に郵送する都合である。今日は降雨で大に無寥を感じたが午後二時小泉翁来訪。小代をも呼びにやり今日は頗る変化に富み盛んであつた。戦争談の材料はなし。十時過済み。

1904(明治37) 年5月15日

今朝は八時まで寝た。咽喉を損じ塩剥含嗽をなす。十一時頃大村西崖来訪、愈二十日の船で渡米するといふ。岩村も同船との事。午後銀座辺まで歩き修髪買物などをして三時に帰宅すれば竹沢が来て待つて居た。後程なく佐野小代も来集す。竹沢の房州地方情況談は大に悲観的である。債券を村民に割り当てたる方法などを聞けば、現今財政の基礎は随分怪し気に思はれる。戦後の結果については多少懸念なきにあらざるべし。九十九里浜の漁民は生活困難を極め古縄を粉末にして食餌とする位であるという。是等の窮民救済法を議するために、明日千葉県庁より大多喜まで旅行する由。例会は四時頃に開く。五時半頃高島大人も来り、間もなく四ツ辻の三ツ星に晩食に出掛け七時過に帰宅す。前約の小泉翁は八時半頃になつて参加し総て七人となる。併し十一時過には解散となつた。大なる輸〓を見ざるも近来の大会に相違ない。

1904(明治37) 年5月16日

今朝中丸来訪。白馬会展覧会設計につき相談なす。午後余り天気がよいから目黒に出掛けた。新緑の好季にて園内は清鮮を極む、目今燕子花〔アヤメ〕満開せり。

1904(明治37) 年5月18日

黒田のマヽン腸窒扶斯にて二ヶ月来臥床したるが、最早全快の由を聞きたり、祝ひに肴を贈る。岩村別れのため来訪。波士敦美術商店事業の見込を話す、至極賛成の意を表して置いた。電車にて出校し五時過に帰宅す。黒田が来て待つて居た。白滝に餞別云々の件話す。六時半帰る。夜小代来訪九時半まで話す。

1904(明治37) 年5月19日

今日は天気で仕合せ、午後学校五時半帰宅。六時より三田今福にて岩村の別れに会食す。小代、菊地、高島等先着続いて佐野、合田、黒田参集、竹沢は九時過になつてから来た。総て九人近来珍らしい賑やかな会食で、例の通り過去の旅行其他の紀念の跡ざらへで興を覚へ十時に散会す。こんな事は実に久し振りの事なり。

1904(明治37) 年5月20日

昨夜高島大人と二人で横浜へ輪行を約したから、今朝は五時に起きて支度をなして総ての用意を整へた。六時には大人早くも来る。然るに大人の車のタイヤアに小疵があつたため、其繕ひにて少々手間取つた。大人は又今朝の新聞にある初瀬吉野二艦沈没の報を告げたるに大々的奮慨の意気を示し、我軍人の戦勝に忸れて戒謹を怠るの故に斯る重大の損失を被ることを痛罵して止まず。七時少し前に車を聯ねて発程。御殿山より大井村道を経、停車場の処にて本街道に出で、蒲田を過ぎて小憩此時八時であつた。それから鶴見の宿外れで一度休んだ。神奈川の入口に四五町の砂利路あるの他は、道路は上等であつたが神奈川横浜間は電車軌道の工事で嶮悪を極む。横浜停車場に着いたのが丁度九時半一行を待受ける。間もなく来着。西村に伴ひたるも大勢にて上らなかつた。竹沢の周旋に依り、上州屋に車を預けて英国波止場に赴く。同処にも出発者多数の為め見送り人混雑を極めたから本船へは行かず、茲で御免を蒙り十一時小蒸汽発船を見送り、それから小代、合田、黒田、竹沢、高嶋と大人で公園前万花亭といふ西洋料理で昼食をなした。同処で上田得之助氏に出逢ひ松波の近状を聞いた。妙香寺に住して居るから尋ねて見よふではないかと合田が発議したるも断然不賛成を表した。黒田と合田は一時四十分の汽車で帰り残り三人と共に再び輪行を始める。今日は日があたつて中々暑い。神奈川で真田の紐を買つて衣物を縛り身軽になつて踏行す。生麦の畷道の芦簀茶屋で暫らく休む。竹沢は向の畠で覆盆子を買つて来て食して居た。三時頃に此処を出る。追ひ風にて疾走快いふべからず。一ト息で大森浜辺まで飛行見晴しの佳い茶店に休む。小父さんと大人とは頻りにところてんを啜り、竹沢は夏密柑を平らげた。南品川から東海寺踏切り路に出で、前の通り御殿山を経て四時半に連中と共に帰宅。皆して入浴心身快美を称す。後は例会開ける。夜になりて小泉、佐野も来場す。今朝早起にて疲労せるを以て十一時解散する。今夜は少々敗北の態なり。

1904(明治37) 年5月21日

前約に依り一時半本郷帝国大学文学会にて講演をなす。聴衆頗る多数二時開演す。最後福地桜痴氏の阿古屋の琴責の講評で燈がつき、後に旧御殿にて晩餐の御馳走になる。上田万年と姉崎正治及三上参次等主人役であつた。食事中は福地先生の懐旧談で五千足の武者草鞋処分の奇話があつた。九時過になり解散、車の用意を受けて十時に帰宅した。

1904(明治37) 年5月23日

今朝早起七時半より大崎村に赴く。先日黒田に学校洋画科恤兵展覧会へ何か出さうといつて置いたから其画を探すために行つたのである。色々かきかけのものなど集めて八枚斗出来たからそれを纒めて頼んで帰る。午後磯谷の処に行つて見たが体がわるいといつて元気のない顔付をして居た。額を目黒に取りにやる事と其仕立て方とをいひつけた。それから八官町小林時計店に廻つて帰宅。三時過生出亀之進といふ先生が約束によりやつて来た。軍事画報の挿画の事で頻りに退治つけよふとしたが、ついに藤島と和田に紹介の名刺をやり文章を引受けて御免を被る、随分魂気のいゝには驚いた。夜大学院学生垣内松三といふ立派な羽織袴の若旦那が尋ねて来た。始めは先日の講話の挨拶に来た事と思つて待遇したが段々聴けば是から洋画を研究して見たいといふ特志であつて、若し出来るならば美術学校の撰科に入りたいといふのである。それから色々稽古の方法など話した。此若き人は垣内雲〓といふ美濃の画家の養子であるとの事、中々有福な事であると見へる、八時過まで話していつた。

1904(明治37) 年5月24日

今日は考古学の支度に時間がなくなつて大に閉口したがどふかこふかやつてのけた。電車で大雨の中をやつていつたか無事に講義の時間を充たし、一時間も彫刻史の課外講釈をやり五時半過に帰宅す。夜田中氏のお梅さん来訪す。それから忘れたが今朝永峯の婆さんが昨日頼んで置いた苺を持つて来たので早速御殿に献上に及んだところが大分評判がよかつたそうだ。苺ももう盛りは過ぎた。

1904(明治37) 年5月25日

今日も電車にて出校す。講義後職員生徒を第一講義室に集めて校長の演説があつた。戦争について世界の同情を得る必要がある事を長々と説明せる挙句、ペリイ紀念資金を軍人の援護の目的に使用するため、米国人の発企にて彼地にて義損の勧誘をするから、此挙に対して感謝を表するため公私各学校集りて決議をなす筈にて本校よりも之に参同して代表者を出席せしむるといふ話であった。帰路降雨甚だし。

1904(明治37) 年5月26日

朝の内は降つて居たが昼頃には大分明るくなつて自転車で出掛ける事が出来た。課外講義を四時半に済まして五時過に帰宅。入浴。食事をまだすまぬ内小泉が攻めかけて来た。例の如く小代を呼びにやり一会す。

1904(明治37) 年5月27日

午前一本松増田氏を尋ね広渡氏戦死の弔辞を述べる。おあさどのは風邪にてやすみ居たり。秀島夫人も来合せ久し振りで面会す。御亭主は北海勤務なる由。午後こまを連れて日本橋辺まで出掛ける。丁酉支店に立寄り株券を受取り、白木屋にて買物をなし、帰路例々橋善にて食事をなし、六時過に帰宅した。

1904(明治37) 年5月28日

前約に依り午後一時過より一つ橋商業学校に催ふせるぺルリ彰諠会に出掛ける。米人のお世辞的演劇に過ぎないのである。例の大隈伯の演説は大出来であつた。伊藤のは気焔揚らずといふべきなり。四時半散会す。

1904(明治37) 年5月29日

昼後佐野来り、小代を訪ひ三人で散歩、附近の植木屋をひやかし、又青山御所前の草花を見る。中々綺麗な花が沢山あつた。一寸佐野がゼラニオムを買ひはじめてから小代も媼さんの調子の佳いのに乗せられ、終にはわれも引込まれてナデシコを一鉢とそれからセキコクを一つ七拾銭といふのを五拾銭に負けたのでしよいこみになる。媼さんは息子が兵隊になつて居るから、娘と二人女手で商売をして居ると話した。三人とも左右の手に植木鉢をブラ提げて帰つて来た。小代の処に立寄つたが、内から小供が二度ばかり迎に来たといふ事で必定小泉が来て居るのが分つた。何しろ植木を持つたので大にくたびれたから一と休して五時過に帰つて見ると小泉高信がこまを相手にして既に始めて居るのであつた。間もなく小父さんも来て大に賑ひ野田岩の丼飯の注文が遅くてやりながら食するに暇なしである。

1904(明治37) 年5月30日

昼前に竹沢来訪ロメーヌとレーチユを沢山貰つた。豌豆飯を喰う事をすゝめたが三十日勘定で忙ケ敷といふて帰つた。昨今金州南山占領の詳報続々達する。死傷三千五百余なりといふ。夜は恵智十に再度出掛ける。入りは七分通小さんの話は面白い。名古屋芸妓の合奏及踊りは一寸よかつた。久吉叶小三とんこ外一名。

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