1904(明治37) 年5月20日 Friday


五月二十日 金曜 晴

昨夜高島大人と二人で横浜へ輪行を約したから、今朝は五時に起きて支度をなして総ての用意を整へた。六時には大人早くも来る。然るに大人の車のタイヤアに小疵があつたため、其繕ひにて少々手間取つた。大人は又今朝の新聞にある初瀬吉野二艦沈没の報を告げたるに大々的奮慨の意気を示し、我軍人の戦勝に忸れて戒謹を怠るの故に斯る重大の損失を被ることを痛罵して止まず。七時少し前に車を聯ねて発程。御殿山より大井村道を経、停車場の処にて本街道に出で、蒲田を過ぎて小憩此時八時であつた。それから鶴見の宿外れで一度休んだ。神奈川の入口に四五町の砂利路あるの他は、道路は上等であつたが神奈川横浜間は電車軌道の工事で嶮悪を極む。横浜停車場に着いたのが丁度九時半一行を待受ける。間もなく来着。西村に伴ひたるも大勢にて上らなかつた。竹沢の周旋に依り、上州屋に車を預けて英国波止場に赴く。同処にも出発者多数の為め見送り人混雑を極めたから本船へは行かず、茲で御免を蒙り十一時小蒸汽発船を見送り、それから小代、合田、黒田、竹沢、高嶋と大人で公園前万花亭といふ西洋料理で昼食をなした。同処で上田得之助氏に出逢ひ松波の近状を聞いた。妙香寺に住して居るから尋ねて見よふではないかと合田が発議したるも断然不賛成を表した。黒田と合田は一時四十分の汽車で帰り残り三人と共に再び輪行を始める。今日は日があたつて中々暑い。神奈川で真田の紐を買つて衣物を縛り身軽になつて踏行す。生麦の畷道の芦簀茶屋で暫らく休む。竹沢は向の畠で覆盆子を買つて来て食して居た。三時頃に此処を出る。追ひ風にて疾走快いふべからず。一ト息で大森浜辺まで飛行見晴しの佳い茶店に休む。小父さんと大人とは頻りにところてんを啜り、竹沢は夏密柑を平らげた。南品川から東海寺踏切り路に出で、前の通り御殿山を経て四時半に連中と共に帰宅。皆して入浴心身快美を称す。後は例会開ける。夜になりて小泉、佐野も来場す。今朝早起にて疲労せるを以て十一時解散する。今夜は少々敗北の態なり。

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例)「1904/05/20 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/871341.html(閲覧日 2024-05-11)

同日の「黒田清輝日記」より
 五月二十日 金 晴
 母上ノ御容体大体ニ於テ少シモ申分ナシト雖ドモ数日来御体温時々上リ本日ハ七度五分ニ達シタリト 此原因ハ先日ノ御感動ナラント察ス 午前八時四十分新橋発列車ニテ岩村 白瀧 高木ノ面々出発 吾々同乗横浜マデ送ル 十一時頃波止場ニテ別レヲ告ゲタリ 夫レヨリ小代 久米 竹澤 合田 高島ノ五人ト公園前西洋料理ニテ食事 皆々自転車ニテ東京ヘ向ヒ拙者ト合田ノ二人丈汽車ニテ帰ル 五時頃吉井一三来訪 六時頃日本倶楽部ナル白耳義会ニ出席ス 此会秋月左都夫君ノ歓迎ヲ兼ネテ催サレタリ 秋月君ト共ニ倶楽部ヲ出一緒ニ徒歩公園ヲ抜ケ平河丁五丁目ノ角ニテ別レ帰宅セリ 時ニ十時頃也
五月二十日 金 晴