1904(明治37) 年5月9日

今日は日本晴の好天気であつた。午前は希臘考古学オリムピア遺跡及ポリクレツトの事を調べる。午後自転車にて外出溜池に合田を尋ねる。同処暗室落成試験中である。二時前より日本橋丁酉支店に赴く。途中呉服橋外の湟畔に大事ありて大に雑踏した。鬼塚に面会、瓦斯株買入の相談に及びたるに、本日の場面は愈騰昂八拾五円位の市況なれば、寧ろ之を見合せ九鉄の端株を買入たる方便利ならんとの事にて、其説に従ひ本株五株の売若くは買新株二の買入を依頼する。此際仲買の番頭らしき者来りて、唯今普蘭店占領の報疑はしく、鉄道及電信の破壊は清人の所為なりとの報伝はり少しく下火になりたりと告ぐ。市価の知覚機敏なるは此の如きもの歟。鬼塚氏は又二階に誘ひて、令哉の銘ある花見の幅を見せた。余り感心しない方であるからその意を告げた。三時半過帰宅す。本日の新聞は昨夜祝捷行列の盛況を掲け十万の参列者を報した。又和田倉門と桜田門との両処にては、通路狹隘なるに加ふるに街鉄電車の運転せるため四五十人の死傷者を生じ、内二十名は即死せり。人命を賭して得たる勝利を祝して更に人命を失ふ。こゝらが非戦論者の良き口実を求め得る処ならんも、われは塵芥の如き人命の決してさほどに貴しとは信ぜす。

to page top