1904(明治37) 年5月23日

今朝早起七時半より大崎村に赴く。先日黒田に学校洋画科恤兵展覧会へ何か出さうといつて置いたから其画を探すために行つたのである。色々かきかけのものなど集めて八枚斗出来たからそれを纒めて頼んで帰る。午後磯谷の処に行つて見たが体がわるいといつて元気のない顔付をして居た。額を目黒に取りにやる事と其仕立て方とをいひつけた。それから八官町小林時計店に廻つて帰宅。三時過生出亀之進といふ先生が約束によりやつて来た。軍事画報の挿画の事で頻りに退治つけよふとしたが、ついに藤島と和田に紹介の名刺をやり文章を引受けて御免を被る、随分魂気のいゝには驚いた。夜大学院学生垣内松三といふ立派な羽織袴の若旦那が尋ねて来た。始めは先日の講話の挨拶に来た事と思つて待遇したが段々聴けば是から洋画を研究して見たいといふ特志であつて、若し出来るならば美術学校の撰科に入りたいといふのである。それから色々稽古の方法など話した。此若き人は垣内雲〓といふ美濃の画家の養子であるとの事、中々有福な事であると見へる、八時過まで話していつた。

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