1904(明治37) 年2月6日

此日の午後岩村の家に話に行くと丁度小代おぢさんもやつて来て例の通の馬鹿話をして居る内五時過に一枚の端書が配達された。それは東京美術学校から来たのであつて学校の職員中羽田禎之進、結城貞松両人は召集に応し不日出発、又大沢三之介、石井、増井等も追つて召集せらるべきにつき、淡路町宝亭にて送別会を催すといふ通知書である。処で此送別会はいつの事だかは書いてない。或は今日であるかも知れない。大抵それに違ひないが扨是から飛ばして行こふかどうしよふといつて居る内最早日暮になつた。まあ仕方がない宝亭の料理より三ツ星で一杯やつた方がましたといふのでとふと送別会の方は義理をかいてしまった。後に聞けば、羽田は此夜の汽車で仙台に出立し、結城は翌日入営したといふ事だ。我々三人は十番の三ツ星に牛鍋を喰ひにいつたが余り戦争の話も出なかつた。といふものは岩村は先天的非戦主義で、日本が負けたらザマア見ろといふ方である。新聞も社会主義の平民新聞(後に禁示された)を取つてゐる位だから、此事件に同情を表する気持は毛頭ないのである。唯今夜の話に、日進春日は英国の進物ではあるまいかと思ふといふ説を立てたがそんな事のある訳はない。それから跡は丁度此時母の大病の為め帰国した○○に関する話になり、母の訃音は果して事実であるかといふ余の疑念を判断せしめたがおぢさんは無邪気であると断言した。

1904(明治37) 年2月7日

今朝十時頃浅井より頼んで来た石膏型造一件を話すために佐野に逢ひに行き直段の事など取極めて、此事を校長に相談するために小林といふ医者の処の電話を借り、午後一時に正木の処に行く約束をした。それで内に帰つて昼飯をたべ直ぐに出掛ける。途中青山の練兵場を通つたが、馬を入れる仮小舎を盛んに作り、又其側に幕を張つて、大勢集つて居る。中々勇ましく見えた。牛込辺では彼地此地の家に張紙がしてあつて、近衛兵召集者宿舎にあてる用意がしてあるのは何んとなく異様に思はれた。正木に面会して切り型の製作は佐野に引請させる相談を遂げ帰り途合田の処に寄る約束であつたから、牛込見附から招魂社の前を通つたが、此所にもバラックの工事をして居る。近衛師団の裏門には召集兵と見送人とが群集して居るのを見た。合田の処では再び佐野と会合したがそれから跡はどうなつたか確かには記臆しない。

1904(明治37) 年2月8日

十時半学校で佐野と逢ふ約束であつたから上野に出掛け校長にも逢ひ石膏の事を取極める。校長は文部省から呼出されて居るといつて間もなく出た。それから佐野と二人で実物に就いて撰定し長原の部屋に集り十二時過まで話した。十二時半学校を出て三橋の世界といふ牛肉屋にはいつた。此附近も召集者でゴタゴタして居る。田舎から出た赤毛布冠りの同伴人と三々五々あたりを歩いている。牛屋にも沢山の草鞋が表にならんでいたが我々は表の小室に入り余り混雑の余波を被らなかつた。此室の窓からみた三橋の光景は平日とは全く変つて見えた。食事を終ると小雨が降り出し早々自転車を飛ばして帰宅す。

1904(明治37) 年2月9日

今朝八時半頃にこま帰宅、一昨夜豊橋出発以来汽車の中は満員で睡られず寒気のために心地悪しといふて直に臥す。是までの通知はコメディーではなかつた事はコンスタテされた。此日は学校に行つたが別に変つた事はなかつた。

1904(明治37) 年2月10日

仁川及旅順海戦の報発表せられ市中は号外売りの鈴声と海軍大勝利の呼び声は満都に響いた。開戦の劈頭に斯る吉報来りたるがため人心は浮立つやうである。併し旅順の戦報は芝罘の電報で敵艦の損傷を挙げたるも我艦隊の消息は不明である。砲台下の交戦で敵の軍艦を数隻傷ける位なれば我れも多少の損失は免れぬやうに思はれ、一艘の怪我もなかつたといふ事は到底想像する能はざる所である。勿論未だ詳細の報が来らぬのであるから夜間の攻撃丈は甘くいつても翌日の大海戦には我軍の受けた損害も必ず重大なるべしと掛念せられるのである。学校に例の通り十二時半頃に出た処、合田が今日は校長から生徒一般に達しる事があるから第一講義室に集めるといふので課業はやめだといふた。一時半頃から校長演説が始まり、我々も生徒と共に聴聞するのである。演説はやはり戦争についての心得であつた。先づ此戦争は我邦に取りて容易ならざる出来事で、魯西亜といふ国は、今までの歴史上不思議に他国を抑へつける力を持つて居るのであつて、今度の戦争の如きも容易く其結果を予知すべからざることで、此際国民一般は沈重の態度を取らねばならぬ。今日勝利の報が来たといつて、決して之に浮れて騒くやうなことは許さない。騒くべき時になれば、自分を始め大に騒ぐから、それまでは落ついて勉強をしなければならぬ。又戦争については政府は大に金が入る。其金はつまり国民の懐から出さねばならぬから此際成るだけ使はないやうにして余金を供給しなければならぬ。それも其金を政府にやつてしまふ必要はなく、唯軍費に差支へない丈に勝手に出来ればよいのであるから、郵便貯金の如きものに倹約をして、積立つてやる丈のことをすればよいといふやうな趣意で、三十分斗りの間かゝつた。是が為め今日の解剖講義は休講した。此演説は多分文部大臣の内訓を受けて、何れの学校にても同様の論告をやつた事と思はれる。然なから慶応義塾では此夜か明る紀元節の夜にカンテラ行列を催し、上野公園に勢揃ひをして二重橋に繰込んだそうである。東京でこふいふマニフェスタッションをやつたのは是限りで、文部大臣及び、警視総監は極力之をやめさせる事を努めたやうだ。是は外国人に対する遠慮と見るより外はない。随分量見の狭いやり方で大分文部大臣をひやかした新聞もあつた。先づ開戦前後の様子はこんなもんである。丁度紀元節の祭日が追々種々の電報が集つて、旅順の大勝利は疑ひない事となつて益々恐悦になつた最中であろう。処で翌十二日の朝、一の警報が伝はつた。それは浦塩にすつこんで居た露国の艦隊が北海に現はれ、商船二艘を撃沈し、又福山の市街を砲撃したいふので、一寸人心洶々としかゝつたが、福山砲撃丈は事実でないといふ事が段々分つた。又露艦は此暴行後、直様浦塩に帰したといふので、やつと安堵をした次第なり。此報知で最も奮慨して止まなかつたのは小代の小父さんで、海軍の奴等は北海道はからにして何をしていやがるといつて頻りに其油断を罵つた事がある。

1904(明治37) 年4月25日

午前八時半より大崎村に参り村役場にて自転車新鑑札を受ける。昼飯後日本銀行へ立寄学校にて俸給を受取一時半帰宅、南風劇し、間もなく竹沢来訪夕刻まで話す(元山事件の日)

1904(明治37) 年4月27日

電車にて学校出勤課業を終りて後、谷中より人力に乗り小石川原町竹沢を訪問、自転車組立てを手伝ひした。夜食の馳走を受け九時過に辞し帰る。本郷電車の処まで同行し来る。十時半帰宅。

1904(明治37) 年4月30日

午食後彬を連れ賢崇寺に墓参す。三時前約に依り竹沢来る。四時に小泉と間もなく小代も参会す。五時過に佐野も集り満員となり戦場開け子夜に及ぶ(鴨緑江大戦前日)。

1904(明治37) 年5月2日

午後茅場町今村銀行に払込用に赴く。帰路京橋にて下車銀座通りを歩す。号外売りの声今朝来盛んにして、昨日九連城占領を報ず。此際時事新報第二の号外といふを求めたるに日本海第二艦隊の報告であつた。二日間五里霧中の彷徨は少々不手際であつた。入浴後こま発熱夜中呻吟す。

1904(明治37) 年5月5日

曇天のため電車にて登校す。五時半過帰宅すれば一昨日学校にて面会せし帝国文学会幹事といふ近視眼の学生待合せて居た。来二十一日講話の題は「戦争と芸術」といふことに取極める。種々雑談の後に帰る。今日は端午節にて菖蒲湯に入る。浴後晩くなり、夜食中に佐野来。節句にて夜なべは休んだといつた。岩村のアンタンションを話したるに頗る満足した。後こまも同席十一時半に至る。

1904(明治37) 年5月6日

朝大崎に赴く、父上は三十銀行におでかけになる。午後に第二軍遼東半島上陸の号外出づ。市中賑ふ。四時半頃よりこまを伴ひ、かきがら町久留米かすり屋に買物をなし、帰りに橋善にて夜食、客多し、上どん中々出来よし、傍には一人の職人らしき男と一人の兵士との酔談面白し、九時頃に帰宅す。

1904(明治37) 年5月7日

午前九時丁酉銀行に九鉄株記入のため持参、瓦斯株買換のことを諮らんと欲したるも鬼塚不在にて果さず。午後四時半頃小泉敦来訪小代に使を馳す、七時過蕗飯にて食事をしまつた頃に菊地も来り会遊子夜を過く。

1904(明治37) 年5月8日

午前月報の原稿を書く。十一時磯谷勘定のため来る。見世物大景気にて日々千二百人の入場ある由にて例の気焔談少々うるさくなる。さや豌豆に肴の煮附丈にて昼飯後程なく帰る 今日鳳凰城占領と普蘭店占領の号外来る。今夜都下新聞社催しの祝捷提灯行列があるといふので、家中のものを日比谷公園に見物にやり独りで留守番。秘密写真を発見す。併し秘密の程度は極めて浅薄である。

1904(明治37) 年5月9日

今日は日本晴の好天気であつた。午前は希臘考古学オリムピア遺跡及ポリクレツトの事を調べる。午後自転車にて外出溜池に合田を尋ねる。同処暗室落成試験中である。二時前より日本橋丁酉支店に赴く。途中呉服橋外の湟畔に大事ありて大に雑踏した。鬼塚に面会、瓦斯株買入の相談に及びたるに、本日の場面は愈騰昂八拾五円位の市況なれば、寧ろ之を見合せ九鉄の端株を買入たる方便利ならんとの事にて、其説に従ひ本株五株の売若くは買新株二の買入を依頼する。此際仲買の番頭らしき者来りて、唯今普蘭店占領の報疑はしく、鉄道及電信の破壊は清人の所為なりとの報伝はり少しく下火になりたりと告ぐ。市価の知覚機敏なるは此の如きもの歟。鬼塚氏は又二階に誘ひて、令哉の銘ある花見の幅を見せた。余り感心しない方であるからその意を告げた。三時半過帰宅す。本日の新聞は昨夜祝捷行列の盛況を掲け十万の参列者を報した。又和田倉門と桜田門との両処にては、通路狹隘なるに加ふるに街鉄電車の運転せるため四五十人の死傷者を生じ、内二十名は即死せり。人命を賭して得たる勝利を祝して更に人命を失ふ。こゝらが非戦論者の良き口実を求め得る処ならんも、われは塵芥の如き人命の決してさほどに貴しとは信ぜす。

1904(明治37) 年5月10日

今朝金次郎新茶を持参す。昼後学校出勤早く帰つた。夜虎之門金毘羅祭にこま及彬を伴ひ出掛ける。好季節にて大に賑ふ。薔薇石竹百合などを買ふて帰る。外債条件の発表と内債も亦近日募集せらんとす。その情報に依り、株式市場大暴落葢し。前日は騰昂の頂点なる如し。後日の変動果して如何。

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