1904(明治37) 年7月12日

今朝竹沢と同行出発を約したが曇天にてお流れとなる。残念。菊次郎が野菜を持つて来た。午後学校に出掛けたが文庫は既に退出後であつた。校長は病気未た全快に至らずとの事。学校を出て竹沢の方に向つた処音楽学校前にて中村に行逢ひ高等商業学校の一件を聞込む。団子坂上長原を訪ひ研究所用金四〇渡す。間もなく辞し竹沢の処へ行つた。房州輪行相談の為なり。併し旅行の事は赤痢類似患者生じたるに依り今回は廃案となる。晩食の御馳走になり九時過に帰宅すれば、高樹町丈が待つて居て十一時頃まで話す。

1904(明治37) 年7月13日

午前黒田の処に出掛ける。吉井一三より商業学校仏国教頭云々の話があつたといふので其詳細を聞き同伴にて松崎校長を尋ねる積りで電話をかけたが不在にて止め、委細の話は黒田に托する。昼飯御馳走になる。又黒田の電話を借りて竹沢と房州行の相談をしたが赤痢患者騒きのため愈々延期と決した。夫から帰り掛に合田に逢つた、不相変写真熱心の姿なり。暑中にて御苦労千万。

1904(明治37) 年7月17日

午後九島喜三郎夫妻近々成田へ転居するとて暇乞ひに来訪、間もなく竹沢も来り一同入浴、世間話しに時を過し大和田の丼を注文する。九島は明るい内に帰り、竹沢は残りて十一時過まで遊んだ。雨催ひにて自転車は預る。

1904(明治37) 年7月19日

朝八時に竹沢の自転車に乗つて出掛けたが、電話にて其不在なる事を知り帰宅す。午後竹沢来訪、何れへか輪行せんを発議し合田を尋ねたが差支へ、夫より竹沢の用向で浜松町の銀行までつきあひ、後佐野を東宮御所内に尋ね、一緒に小父さんをも網にかけ、芝の生ヶ洲に夜食に行く。奥の上等の坐敷を占領し、品川海の眺めと涼風との心地いはん方なし。入浴後清鮮のさしみと大盛りのあら煮で一杯やる。近来成功せる晩食会をなした。帰路三人共立寄り少時話す。

1904(明治37) 年7月20日

午後大塚を訪問し、リエージュ博覧会に竹沢採用の件を話す。夫より目黒に行つた。父上はリョマチスムの気味にて平臥せり。又小代の小供が水道に飛込み怪我をしたといつて大騒ぎであつた。茄子のしぎ焼の御馳走中々美味なり。八時半頃より帰宅すれば、小代小泉待ち合せて居たので少々つきあつた。本日露国軍艦津軽海峡通過の号外出づ。

1904(明治37) 年7月21日

今朝浅井より石膏破損の件返書到来、直様東宮御造営に赴き佐野と修繕方法の相談をなす。本日炎暑酷烈を極む。午後三時帝国ホテルに仏国新来客ウィコムト・ドローヌを訪問。杉竹の紹介に依る。一時間足らず会談の後帰る。

1904(明治37) 年7月22日

ドローヌ大尉との約に依り、早朝より学校に出掛ける。校長は不在。九時半ドローヌ来り学校にて生徒成績品を一覧せしめ、後帝室博物館に同行。石人及石棺に関する説明を与へた。十二時に分れる。小川町今文にて昼食後竹沢を訪ふ。途中炎熱満州軍隊を思ひやる。小石川にてはアイスクリームの御馳走になり五時より無理に辞し帰る。夜恵智十に出掛けたが途中にて大事な荷蘭陀銀貨を桜川町の煙草屋にて盗まれた、不愉快な次第であつた。恵智十では至極淋しく内派の話も面白からず。

1904(明治37) 年7月23日

午前学校に出掛け校長に面会、京都工芸学校へ照会案につき相談する。大分円滑に局を結ぶべき見込あり、大に満足した。今朝用人にてごたごたする。十二時頃帰宅。帝国文学会の安藤勝一郎報酬を持参。演説筆記本日中に校閲を約す。夜小代来佐野を迎へにやり二回にて小代弱る。スミレの鉢植へをなす。

1904(明治37) 年7月25日

午前十一時雨中なれど約束手形期日に付丁酉銀行に赴く。金利引上の為め二銭一厘に改正した。大分の違ひになる。用事を済して後学校へ廻り俸給を受取、三時帰宅す。今日も露艦事件号外の声あり。旅順祝捷の支度は一ヶ月前に準備整ひ、今に実行せられず。而して一方には露艦太平洋に横行して商船の航路止り東京横浜食米の欠乏を報ず。連戦連勝も中々甘い事斗りはないのである。

1904(明治37) 年7月26日

大石橋占領の号外出る。午後田中氏に暑中見舞桃一籠を持参す。病人赤十字病院の診断を請ふ事を勧める。又同家知人出征軍人の来信を示さる。日本砲ポコペン云々は耳新らしい。帰りにトリミヤ苗を貰つて来る。夜彬及こまと共に月明を機とし散歩、赤坂一ツ木縁日をひやかす。鹿の子百合の大株六十銭といふのを十五銭につけたが負けなかつた。朝顔の中鉢一つ七銭で買つて帰ると内では小代に高島佐野の三人待伏せをして居た。

1904(明治37) 年7月27日

午後溜池に合田を尋ね、それから一緒に上野に自転車で行く。岩村の俸給を受取るためなり。今日は文部省から検査に来て大混雑であつた。又会計で岡田の差押一件を聞込む。校長も来て居て少時話す。三時半頃より帰路に就く。途中霊南坂上で杉竹に出会ひ久し振で立話をした。近日尋ねよふと約した。今朝京都浅井へ石膏事件答へる。

1904(明治37) 年7月28日

夜食を五時前に仕舞つたから、父上の病気見舞に水蜜桃を携へて自転車で目黒に行く。最早神経痛は鎮静との事であつた。今日の朝日新聞銀行金融順調論を話したるに、早稲田伯は全く反対にて財政悲観有価証券下落の見込との事を聞く。是も余り当てにはならぬと思ふ。九時頃まで話し、帰宅せんとして狸穴坂にて伏兵あるを偵知し、銀座辺まで迂回す。是は今夕万朝の号外遊弋露艦全滅の報を確かめんと欲したる故なり。果して此報は海軍省より虚報なるを言明したり。世俗の期待心に満足を与へんとする此種の報はとふして出るものにや。十時過になり帰れば高島、小泉、菊地、森元、小父さん悉く集つて居た。大人の勢当るべからずとの事、余は一回丈でやめた。

1904(明治37) 年7月29日

前日開通合名会社よりコラン氏へ送つた小荷物行違ひの報あり。コラン氏宛にて再び此報道を告知する手紙を認めた。但し今日の般便には間に合はす。来月二日布哇廻米船にて出す筈なり。

1904(明治37) 年7月30日

三四日前から朝顔見物を約束したが天気都合あしく延び延びになつたが、今朝はこま四時頃から起きて騒ぎ朝飯の支度で遅くなり五時が鳴つてから家を出て大門から電車に乗り六時過きに入谷に着いた。モー太陽は大分昇り花を見るに少々遅刻の方である。併し朝顔のみならず外の草花も色々あつて中々気持は良い。最初にはいつた植木屋拾銭づつのを二つ求める。是は届けてよこすとの事、中々便利な訳だ。三四軒の植木屋に入つたが新花園とかいうのが一番広くて見事であつた。併し楽隊には閉口する。こんな処でも人が少し出るようになると兎角生人形なんかこしらへてドンチヤンやるのは困る。然し是も大世間の必要具に相違ない。段々日が出ると暑くなつて来たからどこにもまわらす最近の電車に乗り九時前に帰宅す。昼飯後三時まで午睡した。夜九時過に小代高島来り大人今夜は不景気極る。先日得物の一部を返上す。十二時過る。 〔欄外に「浦塩艦隊遂に津軽海峡を脱過し帰航すとの報あり。」〕

1904(明治37) 年7月31日

朝より空合が悪かつたが十一時頃より雷鳴次第に劇烈になつて来る。十一時半より十二時頃最も甚しく数回落雷の地響きがする。近来にない大雷りであつた。東京中では三十五ケ所も落ちたとの事。満州激戦の音響を市民に感知せしめんとの雷公の注意一種の心切と思はねばなるまい。今日は帝国文学講演筆記の訂正を終り夕方安藤勝へ郵送した。黒田の母堂今朝十一時永眠の報あり。七時車を飛ばして訪問、来客多し。合田藤島なんかと話し後佐野も来た。十時佐野と共に辞し帰る。〔欄外に「旅順攻撃開始の報あり併しあてにはならぬ。」〕

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