1904(明治37) 年12月24日

朝九時より出掛け一ツ橋学校に立寄り松崎校長に面会賞与金の礼を述べ十時半頃早稲田に赴く途中にて正木氏に出逢ひ同行す。黒田は先着にて待つて居た。三浦梧楼外一名のお客ありしが間もなく帰り、跡は美術論になり一国の品位上美術保護政策の必要ある理由を校長が得意に論じたのはよかつた。昼飯御馳走後五十年史の事は愈正木が引受けるやうになり、先々世話のがれである。二時半に話は済んで後庭園を一周した。鶏舎の工事中であつた。正木黒田に別れて後中野礼四郎宅を訪ぬ。同人の父病気中にて見舞を述る。帰りは小代と一緒になり四時半帰宅。夜七時頃からこま及彬をつれて愛宕の市を散歩し台所の道具色々求める。天気で人出は中々盛んである。桶や箒を持つて九時半過帰る。

1904(明治37) 年12月25日

朝九時より前日よりの約束でこまと買物に出掛る。大門から電車に乗り日本橋白木屋の陳列場を見て十円斗色々の反物を買入れ、夫から浅草橋香取屋にて下駄を求め再び街鉄の電車に乗り神田に向ふ途中停電にて二十分斗待たさる。須田町向ひの呉服屋にて買物をなし東電にて新橋の方に下り天金に入る。不相変楼上立錐の地なし。午後二時過に帰宅す。夜佐野小代来。歳末の旅行先は愈伊東と極る。

1904(明治37) 年12月26日

十一時過より電車にて一ツ橋学校に出掛け手当金300受取る。夫より外濠線電車に乗り日本橋丁酉支店に廻り約束手形の書換を済す。鬼塚氏が居て例の掛物類を色々見せる。田崎草雲の鶴の画七拾五円にて売物になつて居る由、余り感服せず。寧ろ在中の蓬莱山を取らんとする氏の考に同意す。彼是手間取りて遅くなり、夫より銀座の煙草屋にて葉巻一函を求め又亀屋でウヰスキー一本買入れ小泉氏の会社に尋ねて錫蘭茶のお礼にやる。夫から日影町の唐物屋にても買物をなし四時少し前に帰宅。五時に佐野が来て今福に晩飯に行く。小代菊地も会した。帰りに飯倉の通りをひやかし小父さんは風月堂でチョコレート・クリームを買つて来る。夫から一同来会十一時に散ず。今日目黒より菊次郎餅を持参した。

1904(明治37) 年12月27日

朝九時より目黒に赴く。父上はお休みなりしが別に病気にてはないとの事。今日は勘定を済した。昼飯にはたゝき肉の御馳走になる。父上は例年の風引も起らず、明日より房州東海岸に避寒に出発との事で先々結構である。二時頃に帰宅す。五時頃黒田来訪。今日は墓参に廻つたといつた。暫時にて帰る。夜佐野小代来、愈廿九日夜船にて出発と確定。

1904(明治37) 年12月28日

午前上野に出掛け校長に面会す。後会計掛より国庫債券仮証券を受取る。岡田藤島小林の分も受取つた。帰りに小川町に廻り文房堂にて水彩顔料を買入れ、又松村という靴屋で編上けを一足四・七〇にて求め十二時半過帰宅す。午後糸川正鉄を芝新堀町に訪問する。此間から二度斗留守中に尋ねて来た故何か用事であるのかと思つたが別に話もなかった。マターム糸川は玄関に出て来た。成る程細しやくれた様子であるが議論は承らなかつた。留守中美術学校より昇級の辞令を持たして来た。夜磯谷来り伊東へ同行を約す。後竹沢来り十時半まで話す。

1904(明治37) 年12月29日

朝九時半和田来訪。流用金殆んと無条件の消却を承諾す。十時より宮城及青山御所年末祝儀に出掛けた。午後西ノ久保でビスケットを買つて田中氏へお歳暮に行く。丁度竹野老人と執行の細君とが来て居る所で暫時話して帰る。菊地が五時までに来て同行する約束で支度をして待つたが来らず。段々時間が迫つたので終に佐野の処に出掛け二人で出立する。山門前より街鉄の車に乗り七時前に霊岸島に行つた。小代及磯ケ谷兄弟は既に来りて待合して居た。マダ時間があるので近所の蕎麦屋で腹をこしらへ七時半少し廻つた頃にはしけに乗込み石川島の岸にかゝつて居る伊豆行の船に移る。乗客は随分多数舳の左側の棚のやうな処に陣取る。小父さんは犬の世話で中々手間取る。凡八時半か九時頃になつてソロソロ動き出した。寒天で外には出られず乗り込んだ儘でジツトして居た。隣には伊東の者だという商人と大島に帰る書生とが話をして居る。頭を伸せば船側につかへる足を出せば手摺りの外にブラ下がるという究屈な場処で眠らんとするも睡られずウトウトとして一夜を過した。唯人ごみのために暖かであるのと海が至極静穏なるとは大に仕合せであつた。

1904(明治37) 年12月30日

未明に熱海に着。はしけを待ち一時間余浪にゆられて待つて居るのは余りいゝ心持ではなかつた。六時間半頃に漸く発船し網代にて又々手間取り八時半頃に伊東に着いた。松原行のはしけに乗り無事着岸、佐野が聞いて来た元猪々戸の武智という温泉宿を尋ねて行き此家に投宿。至極古ぼけた汚ない処であるが相客の少ないのは先々仕合せ。早速入浴したが湯場は広くてこみ合はないから極上等である。食事後小父さんが早速近処を探検に出懸けるというので一同之に随行する。前の田圃で忽ち鶉が一羽飛び出したのを仕留めたのは中々のお手際であつた。河岸の辺を歩して新道を昇り山手の方を一ト廻りしたが別に獲物はなく蜜柑畑のある暖かな処まで行つて引返し下たの道に出る処で第二の鶉が取れた。是れ丈の散歩に二ツの鳥が取れたのは先々上首尾と祝して二時頃に宿に帰る。工学士の滋賀という人が同じ家に泊つて居て佐野に挨拶に来り後にも時々話しに来た。同氏は工業学校に出て居るとの事。同行の筈であつた菊地は昨日小代に手紙をやつて今日汽車で来るというので国府津の船の来るのを待つために、四時頃から磯的及佐野と共に伊東の船著場に迎へに行つた処が中々船は見へない。五時過になつても来ないので事務所に手紙を残して引返す。西風がビユービユー吹いて溜らない。駆け足で帰つて来た。宿で晩飯をしまつた頃に菊地が着いて来た。今日は歳暮で荷物が多いので二時間程遅くなつたという事。併し先々是れで約束の人数が揃つて大に勢が出る。食後少々話して後今朝の疲労があるので九時過に寝る。

1904(明治37) 年12月31日

小父さんは早飯で狩に出掛ける。跡は四人。朝飯後厄払ひを始める。直の厄払ひは菊地一人であつた。午後皆んなが写生に出掛けるというので一緒に出て見たが西風が吹いて落附けるやうな場処を見出さず、裏の山脇をあちこちさまよひ遂に少々雨が落ちて来たので、其儘に宿に戻つた。佐野は河の辺にて我慢をしてかきかけたが、それも成功せずしてふるへて帰つて来た。五時過に小代雉一羽と小鳥を少々担いて帰つて来た。夜食後小父さんは疲れて早く寝てしまひ、跡は四人でブツ叩く。鋳さんは不相変敗北である。十一時頃入浴暖まつて休む。今日の新聞で松樹山占領の報を見る。又東京では昨日東郷大将の凱旋で大騒ぎであつたという。某新聞の如きは此日を東郷デーと名附けて居る。〔欄外に「夜食には牛肉を注文して大失敗であつた。」〕 明治三十七年は斯の如くにして終つた。六月以来今にも落ちると信じて居た旅順は遂に落ちる斗りになつても全く落ちるに至らず年は暮れてしまつた。勿論歳月は人為の目割りであつて何も新年となつて改まる事はない。人の生活に境目のあるべき筈はなければ此日記も紙数の残る限り続けるのである。そこで是からは、

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