1904(明治37) 年6月21日

終日点数調べにて暮した。夜食後街鉄三田線が落成したので本日から始めたから試みに乗つた。数寄屋橋から銀座の通を歩し、帝国文学を求め、新橋勧工場に入り帰り途には飯倉四ツ辻の縁日でセツコクを得た。

1904(明治37) 年6月27日

今日は久し振にて霖天晴れ夏景色になる。蝉の声を始めて聞いた。朝金次郎が来て夜食に来いという目黒の使を伝へた。午後五時頃から乗輪大崎村に行く。例のサラード及炙り肉の御馳走になり、パヽは御機嫌、すみは腸加答児にて憐れなさまである。九時半頃まで表の坐敷で話した。夜中暑気はげしく蚊が出る。

1904(明治37) 年6月28日

午後野田会計より来状、京都工芸学校より模型品全部破損の照会文同封せり。大に驚き早速学校に飛行き校長に面会相談した。兎に角破損の程度を問合せる事とし会計では長岡に荷造り責任の件談判する事にした。此夜佐野を尋ねたるも不在後浅井へ書状を出す。

1904(明治37) 年6月29日

朝十時頃九島夫人が見へた。四五日前に静岡から帰京すといへり。十一時には竹沢来訪英国製自転車出物の件を話す。其処へ仁戸田竹庵氏が伜を溜池へ通学させたいといつて来る。一寸ごたついたが間もなく両名共帰つた。昼はお常さんを更科に同行した。日中の暑さは頗る強かつたが家に帰れば風でつめたい位である。入浴後四時半過おつねさんを送つて新橋で夜食、後練瓦通りより丸ノ内まで散歩、日比谷から街鉄電車にて帰宅。途中狸穴坂の上で佐野に行き逢ひ同道す。

1904(明治37) 年6月30日

午前正九時に東京美術学校に登行、終日教員会議。午前は試験成績調査、午後は規則改正の議起りしが結局委員調査といふ事になり四時過に散会した。

1904(明治37) 年7月1日

午後前約に依り黒田を尋ね規則改正の事を相談する。帰りは共に和田の画室を訪ふ。不在なりしがおつかさんの案内にて製作中の画を見た。五時半頃帰宅。

1904(明治37) 年7月2日

夜こまと共に恵智十に出掛けた。出物は柳派の落語源水の独楽廻し等色々あり。最も可笑しかつたのは高橋勝造が来て居たのが如何なる覚へ違ひかあなたは小林さんでしようといつて日光ホテルや中禅寺に居た何某が愛宕館に来て居る話なとをしたが面倒だから其儘の挨拶をしてやつた。大方小林といふは異人附のガイド位なもんだろうと思ふ。そんな奴に間違へられたのは感心しないがどこか似て居る所があると見へる。勝造が何故に来て居たかといふと此寄席で中入後には松尾龍といつて日露義太夫をやるが後しろに幕を引張つてかきわりのやうなものを見せるのであつて、是は米国で金銀の賞牌を色々得られた高橋勝造先生の義侠心を以て描かれた油絵にござり舛と義太夫語りが披露をする一種の広告手段であるのだ。特に妙なのは此義太夫語りは高座の処に卓子を置いて演説をやるやう突立つて新作の義太夫をやる。それがために肝賢な書割りは体に隠れて見えないといふ滑稽な訳である。余り面白くもないから半分で御免を蒙つた。夕立模様で怪し気な風が吹くので急き帰る。

1904(明治37) 年7月3日

午後小泉翁来訪、戦争画報及渡航協会設立の事など話す。小代を迎ひにやつたが不在、佐野は来る。夕方になり三人で三田の今福にて夜食をなし後春日亭を見に行く。演芸会といふ看板で例の常盤津浄瑠璃都太夫式佐連中及ひ名古屋芸者久吉歌名江の音曲踊り等で大入り十一時にはねる。

1904(明治37) 年7月4日

本日卒業式に付八時過より家を出で学校に出掛ける。炎天にて暑気随分はげしい。正木先生は病気のため不参。高村髯翁代理を勤める。列席者は文部大臣を始め大勢であつたが至極簡単に儀式は済んだ。後運動場の老木の蔭で写真を取り十時半頃に引受つ〔ママ〕た。午後日本画の生徒毛利牧野の二人落第生免除願ひに来る。校長に相談して見よふといつて帰した。夜、校長及川端の送別会を八百松に開く筈で総ての準備を行つた後であるから校長の欠席に構はず開かれた。職員連は大概出席、小使頭の西村の裸体踊りの乱行を見たる外至極無事に終つた。帰りは小林と二人で本所の方を廻り大橋を越へて十時半頃帰宅した。

1904(明治37) 年7月5日

八時頃から目黒に出掛ける。丁度よねがサラードを買ひに行つた処であつたので例のロースビーフの御馳走になつた。前日歌舞伎座活動写真見物の話などがあつた。庭は凌霄花満開山百合多くの蕾を持つ、畑には茄子茂る。今日は井戸浚へ職人が来て仕事をした。連日の旱天に拘はらず水勢盛んなり。二時頃に辞し帰る。夜留守番。

1904(明治37) 年7月6日

夜九時過矢来町に校長の病気を見舞ふ。高村光雲が来て居た。落第生の件につき話す。十一時過帰宅。午後四時頃に竹沢来訪、小代と佐野を誘ひ今福にて食事。旅順陥落十五日見当なるべしとの風説、其他戦争談色々始まる。今日は大山総司令官の出発で市中は宛然旅順祝捷のやうな観がある。帰り掛に一同立寄り冷風の中に少時話す。

1904(明治37) 年7月7日

夕方に散歩に出掛けたるに紅葉館前にて小泉が人力に乗つて来るのに逢つた。共に散歩、山門前で電車に乗り数寄屋橋にて降り銀座通りまで同行し分れて地蔵の縁日をひやかし植木鉢を求め、夫から資生堂の二階で氷菓子を喫し、勧工場に入り再び電車にて帰路に就く。

1904(明治37) 年7月9日

校則改正委員会午前八時より開会との通知うく。八時過に到着、九時より開会、校長は病後にて無気力、異見区々決せず。午後六時になり散会、各科にて競技法の案を提出する約なり。学校を出て電車にて山王山に馳けつける。今夜白馬会例会を同処榎本にて開く。出席二十人、九時過になつて誂への弁当が来て夫から展覧会の下た相談を始め、十一時過に終る。

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