1904(明治37) 年6月1日

乗輪出校本日解剖初年手筋を終り此学年講義を結了した。帰りに五号館に開ける洋画科の恤兵展覧会に立寄つて見た。可なり多数の出品を見る。夕方に佐野来訪学校より註文品の代を受取つたといつて二五をよこした。それから小代を呼びにやり十一時頃までやつた。

1904(明治37) 年6月2日

学校講義後校長より規則改正案の相談を受ける。夜高島がやつて来て小父さんを迎にやつたが床屋に行くからといつて来なかつた。何しろ毎晩続くには閉口千万な訳さ、今夜も十二時近くまでやつたが九時頃に榎坂田中の小母さんに踏み込まれて大狼狽であつた。十郎の海軍兵学校保証判の用向であつた。

1904(明治37) 年6月3日

今日からめつきり暑くなり夏向きの日が当る。朝八時過に飯倉の万長に仕着せの買物をなし五円斗余つた。それから輪を飛ばし目黒に御見舞をした。園内は全く夏景色になつて松虫がガラガラ鳴く。緑豌豆飯上出来ロースビーフ御馳走又小供貯金に拾円入金す。父上は征露気焔が盛んである。三時半から帰宅する。五時半食事半はに小代と小泉来襲鳴戸鮨の丼飯で団洲先生得意になる。

1904(明治37) 年6月4日

昨日の飽食のためか今朝から大腸感冒の気味なり。午後黒田を尋ねる。四時過から共に上野の展覧会に出掛け、夫から菊坂町白馬会研究所新築開きの会に赴く。来会者多数賑やかであつた。帰りにランプが具合が悪くなり大閉口、提灯をかつてやつとこぎつけた。

1904(明治37) 年6月5日

今日は八十度以上の暑さになる。午後東洋写真会品評会の審査を頼まれて御苦労様に向島の札幌ビールまで出掛けてくだらない出品で大に馬鹿を見る。正木に会したので共に堀切の昌蒲見に転輪す。花は大した事はないが人の出は盛んだ。碧眼連も多く見受ける。それから千住の方に向はんとして途中正木の前輪破裂応急手当てに汗をこぼす。「瓶あり」の辺から水戸街道に出で六時半過帰宅。小代高島次に佐野も来会、大に景気がわるい。ペルト二枚以上に及ぶ。

1904(明治37) 年6月7日

午後出校生徒出席調査をなす。長岡又吉来校京都行石膏像荷造中にてありき、帰りがけに淡路町亀屋にて買物をなす。夜食と際例の不行届にて大に気持を悪くしたる際に敦翁来訪不相変の笑顔で心地開くる。早速三河台に彬を馳せたるに暫時にして来場す。今夜は不思議に図にあたり、着々優勢を示す。両氏退散の際再び不礼の所為ありて怒気激発最早恕すべからすと思はん。明朝は是非宣告を行ふべく種々の感情胸に迫りて眠る能はず。

1904(明治37) 年6月8日

今朝目黒より金次郎が来て生垣きの刈り込みをなす。夏向きの処豁然となつた。宣告の一件今朝中止、徐々教誨を加へ誘導する必要ありと考へた。唯此教誨なる事柄が拙者の天性として最も不得意である事を遺憾とする。教誨は変じて威嚇となる。是れかれをして反抗の意を生ぜしむる所以なれども止むを得ず……。十一時半頃に竹野おかたさんが来て預り物品中蚊帳など夏向きのものを持つて行く。西町の先生此頃は佐賀婦人会で熱心に奔走して居るとの話。なんでも今月十九日とかに永田町の侯爵邸で第一の会合があるとの事。夜は独りで散歩、京橋の辺まで行つた帰りに上方屋に立寄つたが戦争画端書が盛んに売れて居る。該店の売り子の女に姿のいゝのを見た。二ケ所の勧工場をひやかし又愛宕下の通りにては縁日の植木を見たがもう薔薇も過き石竹も末になつて何も面白い花も見当らなかつた。スフアグノンを少々買つて十時半頃帰宅。

1904(明治37) 年6月9日

昨夜丁酉銀行より九鉄株の直段は五円十銭乃至三十銭なることを報じて来たが、売買共に此直段にては大なる見込なきを以て今朝電話で断つてやつた。午後登校最終解剖講義権衡論を講ず。今日の号外は南三山島の実況大連湾掃海の件であつた。

1904(明治37) 年6月10日

昨夜新茶にうかされて不眠。今朝六時前に起き散歩をしたが一向気分が直らない。午後一時小魔を引張つて大森辺を歩す。先づ例のお道順で公園を通り、大門まで達するや、かれは暑さに閉口してもはやあるけぬと泣き言をいつたが無理やりに電車に登せ、品川から更に京浜電鉄に転じて蒲田まで快走す。此間三十分かゝらなかつた。目的地は同地の菖蒲園であつて大変に廻り路をして〓田神社と記された鎮守の社の側を過きて同園に著す。中々広々とした立派なところで態々出掛けて来る価値は充分にある。此間の堀切の日〔比〕にあらず。しかも花は今や満開の有様で何十種といふ変化のある紫花の咲き乱れて、其間に水流を通じたのは中々趣きがある。併し世人に多く知られぬためか割り合に静かである。水辺に臨みたる芦簀張りの休み処に上りて握り鮨を注文し一時間余り休んだ。隣には町住ひの二人の媼さん連が来て頻りに賞看して居た。四時頃にこゝを出て再ひ電車に乗り穴守へ行つた。此頃は以前の如く流行しないためか極めて索寞として多数の明き家がある。是は戦争のみの影響とは思へない。渡し場には橋が架けられた。両側の茶屋よりはうるさく呼び声をかけるのでいやにならせる。社殿の処までいつて早々に引返し元の電車に乗りて品川まで一ト走り(品川にて岫巌及賽馬集占領の号外を買った)。六時頃に達し、夫から新橋まで東京電車でやつて来たが不漁の故かお定りの二軒共に休業で大失望、是非なく大門へ戻り人力を値切り倒して長坂へかけつけたが幸ひ門があいて居たので助かる。八時に帰宅してみるともふちやんと上り込んでやつて居る連中は小石川に大人小父さんで十二時半に及んだ。

1904(明治37) 年6月11日

今日から入梅であるが如何にも霖雨の空合になつて来た。三四日前までは天気は不定で晴れさへすれば必ず風になるのであつたが風は止んで蒸暑いやうな心地になる。昼後は少々早目に風呂を仕舞つた処が三時過に竹沢が来た。仏国種の苣萵を沢山に持つて来て呉れた。五時頃に小泉来り早速に始まる。小代は迎にやつたがとうと来なかつた。余り俟つて閉口した事と見ゆる。七時過には森元の怒り上戸もやつて来た。今後の戦況は激烈を極め小石川の優勢当るべからず。解散の例刻になつたところが、丁度雨勢猛烈なるため退陣する事不可能殊に小石川に取つては所詮今から帰つて行かれず。他はこれにひかされてしかも明日は日曜日で遂に夜を明すに至つた。珍らしき出来事。

1904(明治37) 年6月12日

敦翁は六時に引揚け佐野は是から役所のお勤をするといつて、七時半朝食を済まして後退出し、跡は竹沢と二人寝話しをしながら一睡。此間に戦場に出陣して闘つて負傷をした不思議な夢を見た。昼飯後三河台を竹沢と共に尋ね夕方まで話す。夫から三人で外出し飯倉の野田岩にて久し振に食す。高島大人我々を追ふて来り帰りに又々立寄りて十一時頃までやつたが不相変大景気なるは小石川であつた。 〔欄外に「旅順戦況見物人を乗せたる満州丸本日横須賀解纜」〕

1904(明治37) 年6月13日

朝九時より竹沢がもつて来てくれたサラード菜を持つて目黒に出掛ける。途中三田にて牛肉と橄欖油を求め、人力で白金までやつた。パパアは御機嫌である。昨夜鬼塚の手紙で九鉄端株買入を勧められた事を話したるに賛成を得た。午後二時の汽車にて品川まで行つて電車に乗り丁酉支店に赴き九鉄株買入の書面を整へ明日再来を約して帰る。途中宗十郎町にて髪をつんで貰ひ、夫れから歩して帰宅す。芝の大通りでは、電車の試運転で人が集つて居た。

1904(明治37) 年6月15日

午前より登校十時より解剖試験を始める。午後は一時より三時まで同様。竹沢より苣萵を沢山貰つた。五時過に佐野と小代がやつて来て、共に三田今福に夜食に出掛ける。菊地は先着で待つて居た。帰りには一同立寄る。

1904(明治37) 年6月16日

十時頃竹野のおかたさんが象山の掛物を取りに来る。午後雨中に係らずサラードと肉とを携へて目黒に行つた。晩飯の御馳走になり、余りゆるりとしたので八時二十分の汽車に乗り遅れ、無拠新宿に廻り電車で桜田門に至り、十時半過に帰宅す。

1904(明治37) 年6月17日

試験成績を調べる。午後六時半頃小泉翁来常陸丸遭難事件奮慨談をなす。なんでも露探の所業がありそふたとの評判なる由。小代は八時過になり来会。十時半まで話す。

1904(明治37) 年6月19日

日曜なれど仕方がない。午前は考古学問題を調べた。明日試験の用意をなす。午後誰れか来そふだから早目に入浴せんと思ふて居る内に小林万吾がやつて来た。例の借金に四十入金した中学の話などやつて居る処へ佐野が浴衣着かなんかではいつて来て戦争談がはじまり、上村のぼんやりに対する人情は誰れも同一である。二時過になつて万吾が帰るというので送つて出ると丁度三河台と団洲翁とがはいつてくるといふ次第で大分振やかになる。夕方になると菊地も見へた。今夜は大和田の丼をあつらへた。全局の結果は佐野が独りで景気づいて居る。あんまりつまらないから十時過になつてやめた。

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