1905(明治38) 年1月1日

昨夜は雨空になつたが今朝の風で雨は散じ晴天になつた。小父さんも宵の空相が悪かつたので早出は断念して一同と共に雑煮を喰べて九時頃から狸と命名された猟師を連れて出掛けた。朝の風は止んで誠に朗らかになつた。丁度一昨年興津でやつた元旦のやうであるが、宿屋がお粗末であるからあれ程いゝ気持はしない。午前は滋賀君が話しに来て明日出発するといつた。正月で国府津行の船は出ないから東京行の船で熱海まで行くといつて居る。午後は窓より見た景色を水彩で写生した。菊地は浜辺に行つて船の画をかいて来た。さて小代の帰りが遅いから今日は風もなし大猟に相違ないと噂をしたが五時過に帰つて来て大に不満足の姿で雉子を二羽に小鳥を幾つか提げて来た。此処は愈だめであるという事に極つた。夜食には烏賊の酢味噌が出た。一体海辺の地でありながら肴のない事は船原よりも甚だしい位である。それも家によるのかも知れない。食後は大なる勝敗を決する筈であつたが滋賀氏が話しに来り磯谷が得意の話となつて埒が明かないから島油を買ふといつて菊地、佐野と三人で外に出て船場まで歩し、明日出船の時刻を確かめたる、十二時であるといつた。夫から橋の側まで行つて島宿を尋ねたるに油はないと聞いて引返し、宿屋の近所の林屋という処で油及ふのりを買入れ七時半頃宿に帰り、夫から今夜は総勢五人で団坐をなす。菊地は相分らず不印で全体では大分の背負ひ込みとなる。一時頃までかゝつて夫から入浴して臥す。

1905(明治38) 年1月2日

今朝は八時に一同起き立つ。船の都合がわるくて明日此処を立つては冲も東京まで帰り着く事は六ケ敷というので今日の船に乗る事にした。滋賀先生は船では覚束ないから陸を大仁に山越する由。兎に角帰りの支度を整へ勘定も済した。六人の総勘定僅かに十四円八十何銭というのであつた。茶代は積金にて家に三円女中に一円やつた。十一時餅で腹をこしらへやがて宿を出る。船場に至りて聞けば今日は船が損じたとかで出ないというのである。案の如く予定のプログラムは一変せざるを得ない。そこで断然熱海まで陸行する事に一同賛成し茶屋で人足を雇ひ、荷物をかつがせる。熱海まで一円の約束である。若し余り骨が折れるやうなら網代で泊るというので其支度をなし、磯谷兄弟に分れて十二時に歩き出した。小父さんは銃を肩にして途中を打ちながら歩こうという訳で出発する。海辺の眺望の良い暖かい道を尻端折りして歩く心地は中々わるくない。意外な事で此愉快な気持を儲け得たのである。伊東から一里で宇佐美という村は伊東よりも却て面白い処である。此村の鎮守の森で小父さんは小鳥を二羽射留めた。夫より山道にかゝつてだんだん登つて行く途中には裏白の沢山生へた藪を通る。峠の上の茶屋にて一ト休みする。亭主は猟師て今も兎を料理して居るのであつた。小父さんが此辺に鳥は沢山出るかと問ふにそれは一日に十五や二十は見つかるのだが取れると取れないとは腕前の如何にありとの返事は大に小父さんのアムール・プロプルに反動を起して生意気な奴といつたが是はいつも聞く至当の返事である。此茶屋を出ると直くに降り坂にかゝり瞬間に急路を下る途中海の見ゆる処より近路らしい径路に入る。傾斜が急で霜解けのために表面のみグチヤグチヤてあるから滑る事一ト通り、遂にエキリーブルを失つて尻餅をつき羽織も着物も泥だらけになる。中頃に至りて小父さんは鶉が居そうだといつて左の畑にはいつて行つたが間もなく雌雉子が一つバタバタと飛び出したのを連発て射て落たはもうけものであつた。山路を下つてしまへば網代港である。荷かつぎの爺は跡になつたであらうといつて探して居るうち奴さんは如才なくチヤンと清水屋という宿屋にはいつて待つて居たので、まだ時間はあるが誰も熱海まで進行せんというものはない。宿屋の様子も鳥渡気に入つたから裏二階に上る。荷物かつぎには八貫やつて返した。二階坐敷の眺望は中々妙である。前は松の大木を隔てゝ箱根足柄の山々が海面に聳へて居る。今や温かき光を送つて来る夕陽は港口の人家に当つて潮に耀いて見へる。一寸中国あたりの景色に似た所がある。菊地は早速ブツクを出して写生を始める。小代は台所へいつて鳥汁を命した。熱海から来た十人斗の鉄砲連は宿屋で一杯やつて前岸に繋いた船に乗つて帰つて行く。此際椽側に写生をして居た菊地の耳に誰かの声で旅順が落ちたというのを聞いたといつた。何んだか分らないが或は事実かも知れないと思つたか、是ころ都では既に今朝来知れ渡つた事で其反響が今斯る僻地の浦頭に居る我々の耳に入るとは割合に迅速なもんである。夜食は久し振で人間らしい飯を食つた。甘鯛の煮肴いかの酢の物で一杯やり、小鳥の汁は誠によい味に出来た。菊地は酒が利いて直に寝てしまひ跡は三人で十時頃まで遊んだ。是れが即ち旅順開城規約成立の当日の日暮しであつた。

1905(明治38) 年1月3日

七時半頃に起き出で朝飯は小鯛の塩焼に玉子の汁、雑煮の餅も至極加減がいゝ。此清水屋という宿屋は是までの処では申分のない評判であつた処で愈出掛けるといく段になり、又荷物担きの人足を頼まうとするとくや昨夜お注文の船が出来てチヤンと待つて居るとの事、なにそれは直段を聞いた丈で注文はせぬと争ふたが亭主が出て来て折角支度をしたのと正月の事であるから御無理でも乗つて戴きたいといつて止まない。昨夜からの待遇は申分なかつたが此一事で大に感しを悪くした。熱海に昼前に着くだろうかといつたら昼前ところではなく十一時には旅順陥落の籏行列があるから其前に帰つて来る積りだという。是で陥落も愈確実となつた。船に乗る事は小父さんと佐野とは第一に賛成したのであるが、拙者は此暖かい天気に二里の山越へをして此辺の風景を眺めながらブラブラ歩きをするのを楽しみにして居たのだから失望せざるを得なかつた。併しモー仕方がない、宿屋の前から船に乗込正九時に出発した。漕き出して見ると静かな海風に浴する気持決して悪くはない。船は四丁櫓で押すのであるから中々よく走る。船中で生じた一事件はヂョンの病気で、元来腹具合のわるい所を船に揺られたのだから忽ち腹痛を感じたと見へて艫先に出てビリビリ始めた。臭い臭い一ト通りてない。小父さんは立つて行つて介抱する。トート着岸するまで抱へ通しであつた。其内船は熱海湾に入り市中では祝捷の旗がひらめくを見る。海岸には白衣の負傷兵があちこちに散歩するのを見る。丁度十時に着船する。船賃一円六十銭の外に酒代を要求したが与へなかつた。熱海では直様山手に登り人車鉄道のステーシヨンに向ふ。樋口の裏門を通り過きた横町で如何にも豪義な金持の家族らしい女連に逢つたが小代は其中の一婦人に対して挨拶をして居るから我々は一ト足先きに停車場に行つて待つて居ると、何そ図らんそれは小泉翁の一行であつて間もなく翁もやつて来て此奇遇を喜び遂に我々と同車して三等車を一台買ひ切りにして十時半に出た。随分甘い都合に行つたものである。こうなつて見ると網代で船に乗つたのも損はなかつた訳で若し陸を来たならば或は最終の人車に間に合はなかつたかも知れない。左なくとも東京帰着の時間は非常に後れたに相違ない。車中で小泉氏が持つて居た今日の日々を見て、元日にステッセルより開城の申込があつて二日の午後日露両軍の委員が会見するという事を知つた。途中は色々な話で四時間の箱詰めも大して退屈せずに二時少し過きに小田原に着車、小泉氏と別れて電車停車場に向ふ。此処ても正月と祝捷とで大賑ひ、狭い町で紙旗の続いたのを軒から軒に掛け渡したのは中々奇麗であつた。停車場では少し待ち合せ其間に菊地と小代とは塩からの桶詰を買つた。二時四十五分の電車に乗り国府津に着。まだ一時間斗間があるというので蔦屋本店にはいり昼食をやる。此時に朝日新聞号外旅順開城談判結了の公報が来た。やがて発車時間になりて車に乗込み四時半に発す。途中は無事到る処に軒提灯を見るのである。殊更横浜はイルュミネーシヨンをやつて市中は賑ひの様子である。七時半品川にて佐野と二人で下車、始めて通行税を払つて電車に乗り札の辻で下り今福で晩飯をやり、おひろひで家に帰つたのは九時少し過きで昨日陥落の報で大賑はひの様子を聞いた。

1905(明治38) 年1月4日

昼前は年始はがきの認め方で暮す。午後彬を連れて賢崇寺に墓参する兵隊の宿舎になつて大混雑の様子である。閑叟公墓の前で伊東祐穀に出つこわした。夜祝捷の様子を見ながら新橋辺まで歩し色々買物をした。

1905(明治38) 年1月6日

午前散歩小舟町安田銀行に赴き債券の引換へをなし、帰りに中通りをひやかしドテラ地を買ひ入れる。大に堀出し物であつたとの評判。昼頃にこまの友達である菊坂町のきいチヤンという人が来た。雨に降られて夕方帰る。

1905(明治38) 年1月7日

昼頃に小代来訪。午後矢来町に正木氏を尋ねて去年辞令を貰つた礼を述べる。通俗補修教育に関するドキュマンを見る。飜訳をやつてくれないかというやうな口振りであつたが応ぜずに置いた。夜麻布亭柳派のはなしをきく。

1905(明治38) 年1月8日

午前十番から飯倉まで歩いた。昼少し前に竹沢来訪。後佐野小代も来集。久し振りで面白かつた。晩飯は丼飯で例の如し。十一時半過に解散した。昨日来バルチック艦隊旗艦沈没同艦隊廻航の報伝はる。多分事実なるべし。

1905(明治38) 年1月9日

一月の休みも別段何も出来ずに愈々今日限りとなり、明日からは又々機械のやうになつて働かねばならぬので色々仕度をする。又昨日小原からせつゝかれたソルボンヌの絵の説明書を認める。三時こまに迫られて飯倉に行つてドテラの裏絹を求める。夫から山内より電車で散髪屋に出掛け帰りには歩いて戻つた。夜なべには明日の支度にかゝる。

1905(明治38) 年1月10日

今日より二ヶ所の学校始まり朝九時半に高等商業学校の稽古は平日の通りになす。午後美術学校の方は一時間斗やつてやめた。カルデヤ彫刻総論を講ず。夜小原来ソルボンヌ壁画解説を渡す。松方氏より電話かゝり話に行く。

1905(明治38) 年1月11日

一ツ橋では専攻部は総欠席であつた。昼は宝亭にて食事す。解剖は骨盤の完形だけやる後校長の所に松田という人が尋ねて来た。是は開国五十年史の編纂者で早稲田伯から催促にやられたのである。今月中位に纏める事を正木が引受けたので助かる。夜小泉来訪小代も来た。翁は景気で大喜びであつた。

1905(明治38) 年1月13日

朝八時半に本郷に行つた。洋画科の生徒で来たのは僅か八人であつた。十時過に終り一度帰宅し再び一ツ橋に赴く。今日牛荘敵襲の公報伝はる。併し大なる損害なくして撃退したる由。旅順降伏の結果英国市場に於ける本邦公債の好況を現はし開戦当時六十二三磅なりし四分利公債は七十七磅以上の価を生じた。此影響により日本の株式相場も其価を維持する有様なり。三月限九鉄の直段は五六・六〇である。

1905(明治38) 年1月14日

今日は人力で一ツ橋に出掛け十一時過に帰宅す。越後生れの下女たのというのが国元から電報が来て暇を乞ふて帰る。跡は下女なして二日間過す。四時竹沢来り佐野を誘ひ三田今福に食事に行く。小泉小代は先きに待つて居た。今夜は竹沢が愈出発する事になつたので送別の意味を以て会食を発起したのであつた。六時過になり黒田と合田も会したので総勢七人となつた。中々賑やかである。併し余り大勢過ぎで面白い話もなかつた食事。合田佐野黒田と分れて跡の連中は皆やつて来て第二次会も盛んである。今夜は小父さん万歳である。

1905(明治38) 年1月15日

朝九時過より目黒に出掛る。父上はお休み中である。少々鼻加答児の気味で沙河軍と同様防禦手段を取るとの事である。豚煮しめにビールの御馳走になる。昼過きになり曹洞宗大学林の生徒が演説を依頼に来たのを相手に講釈が始まつた。三時過に立出でた。其前よねが表のばあさんが近頃不埒の所業がある次第を聞く。そんな風ては到底だめであらうと答へて置いた。帰宅後校友会月報の原稿を書いた。

1905(明治38) 年1月17日

今日は朝八時から稽古に廻り上野は三時過ぎに終つた。昨今の新聞には長崎に到著して居る旅順降将の話が記されて居る。ステッセルは丁度今日仏国の便船に乗込む筈である。此三週間斗りの間は日記を御不沙汰した。勿論前の一週は風の心地で休んで居たので出来事は少ない。然るに此間に世の中は大活動をやつて僅かに三週日の経過で天下の形勢一変したやうな姿である。即ち露国内の擾乱及び沙河左翼黒溝台附近の会戦の二大事件が生じたのであつて露国の不利益の位置たる事が愈々明らかになつて来た。依て此大切な時期の事を漏すのも残念であるから記臆をたどつて書いて見ようと思ふ。

1905(明治38) 年1月19日

今朝一ツ橋は休んだ。九時頃より電車で本郷にいつて大学に立寄り屍体の様子を見て夫から上野に廻る。夜北蓮が来て愈々戦地に出発するといつた。それについて芳翠のために二百円斗会から具面をしたいというのであつたが今手元に金はないから長原の方から引出さなければならぬので黒田の方に掛け合つてくれといつて断はつた。

1905(明治38) 年1月20日

八時より医科大学に赴く。前週の屍体が保存されてあつた。上下肢後側筋を見る。十時に終り、一旦帰宅し後一ツ橋に出掛る。前日より鼻加答児より喉頭に風邪がはいつて気分が悪いから早寝をする積りで居ると磯谷が来り芳翠の金の一件を相談して帰ると其後に又黒田が来た。結局断はる方針を取る事にきめた。

1905(明治38) 年1月21日

朝の稽古が済んで午後は床を引いて寝て居ると金子薫園という歌人が先日来屡々手紙をよこして居たのがついに例の画帖を持参でやつて来た。一時間斗話して帰つた。夜は早寝をする。熱が少々あるやうであつた。

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