1904(明治37) 年8月1日 今日始めてツクヅクシ蝉の声を聞いた。午前日記認めにて過す。午後は天気になり乗輪永峯に赴く。佐賀来信持参寺上金其他送金五円父上より受取る。芦の湯行愈明後日出発の由なり。増田氏も同行の筈。夜食御馳走後園内一周畠作気候順調の為見事にそだつ。丸庭鹿の子百合満開せり。黄昏帰途に就く。途中一本松増田氏に立寄る。八時過小代来明朝輪行の事を約す。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月2日 朝四時に離寝直様小代を誘ひ青山の高島の処に出掛け、大人を喚起し五時に同処を出発、大山街道を走る。郊外朝靄の景色妙なり。途中無事六時に二子渡船場に達す。河を渡り溝の口の或宿屋に入り朝飯を命ず。玉子焼にて酒一合を別ち二十五銭の割前は少々お高いやうだ。七時半同地を出で鞠子に向ひ、向岸の道路を行く。日は熱けれども風ありて汗も出ず。鞠子は通り過ぎて平間の渡し場を越へる。小代の発起により著衣を脱して川に浴す。夫より池上に出て本門寺の周囲を迂回し馬込三方辻の茶屋にて暫く休み、桐ケ谷道より猿町坂を登り十二時永坂更科にて昼飯を喰ひ皆々我家に立寄休息後散ず。夕こまを打連今福牛店に晩食をなし帰路佐野の宅に立寄、京都派遣員の件話す。旧妓夫の手紙到着不快を極む。本日楡樹林様子嶺進軍の号外出る。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月3日 自転車の後輪漏気の修繕にて半日暮す。夜食後佐野前約に依り来る。共に小代を誘ひ黒田の見舞に出掛ける。合田中村定連の外小林磯谷伊藤源ちやん等が来て居た。十二時頃まで話した。柝木城附近の戦報出る。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月4日 朝青山の葬具屋に赴き黒田に贈る榊壱対人夫附トロアにて誂へる。帰路南町を迂曲し墓地内を通過し、戦歿軍人の墓などを見ながら霞町の坂を下り、三聯隊の周囲を歩して帰つた。午後竹沢来大塚琢造亦来。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月7日 八時頃大塚を尋ねたが不在。帰りに佐野氏方に立寄る。午后再び大塚の処に行つて面会話しといふのは白耳義博覧会一件で是非拙者を引出さんとする相談であつた。こちらはとこまでも竹沢を推薦して断つた。一寸洋行もやつて見たいが博覧会にはこりたから大抵の事では御免を蒙りたいと思ふ。殊に先発で万端の準備を整へる抔といふのはとても引受ける見込は立たないから仕方がない。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月9日 今朝は早起きをして八時半に昼飯を済し、それから小代を誘ひ、電車で大井村の海岸に家を借りて居る礒谷の処に涼みに行く。彬及こまも同道した。到着すれば磯谷は留守で静岡の甥御という先の光太郎が居た。直様海に飛込んだが水は浅いので女小供には妙である。蜊蛤なんかを足でさがし大喜び、昼は蟹の御馳走なり、昼後も寝転んだり水へ入つたりで過し、其内に主人も帰つて来た、米利堅式蛮カラアも来た、風は中々涼処なる、小鯵の酢のもので晩飯も甘かつた。一日の保養を遂げて八時過から元の電車で帰つた。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月14日 午前十時過中村勝さん来る。白馬会書記近藤智敬急病にて死去せるに付相談の用であつた。今朝対州沖海戦中との号外が出たが後浦塩艦隊大敗リュウリック撃沈の報来る。上村艦隊大手柄前日黄海大海戦の結果よりも一般の感情を刺戟した事は確かに著るしい。夫丈浦塩露艦の今までの働きが思はれるが最早大した事も出来なくなつた。四時半頃竹沢来る。五もく飯で晩餐後佐野小代高島等集つたと記憶する。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月15日 本日より美術学夏期講習会に於て午後一時より三時まで希臘の絵画といふ題で講演をなす。何しろ炎天の最中に上野まで出掛けるのは一ト通りではない。帰りはいつも汗が着物を透すのである。お勤めというは此位な事である。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月17日 今日も目のくらむやうな暑さの中を学校に出で無事講話を終る。今夜久し振にて散歩に出る。街鉄電車で銀座通に出で玻璃コツプ及茶網を求め新橋の勧工場に入りたるに階子段の下り口で十三四の小娘が外から飛込んで行なりこまをつかまへて其旧名を尋ねた。彼れは極めて冷静で此問を却けたが、宛然前科者が旧悪を露はされたやうな心地がして直様電車に乗込んでしまつた。こふいう邂逅は今後も折々あるべきは当然なり。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月18日 今朝は三時に目が醒めて余り早いからと思つて居る内、表を叩くものがある。珍らしや小父さんが先がけでやつて来たのである。仕度は前夜ちやんとすんで居るのであるから着物をきるや直ちに出発した。丁度正四時でマダ薄暗り軒燈の光がかゞやいて居るのである。往来の人のない東京の町を快走し青山練兵場の側より信濃町を経て四ツ谷の通りを行つた。新宿遊郭も全く睡つて居る。併し最早夜は充分に明けたのである。女郎屋の少し先で敦翁が車で行くのに出逢つた。鉄道の踏切りを過ぎてから中野の町ではモー往来の人が段々繁くなる。田無を通り小河に行くまで途中で一度か二度煙草の火をつけるために車輪を停めたのみで六時に此道幅が広濶で一直線をなし両側に緑樹の茂つた恰かもヴェルサイユのパルクの様な此小川村に入り腹が減つて溜らなくなつて一つの居酒屋見たやうな処で煎餅をかじる。此処から青梅へは五里に過ぎないというので大に力を得て彼是三十分休息して此家を出たところが村外れになつて路が二本になり右の方にはいつたが今までの大路は畑道となつた。怪しく思つて里人に問ふたら矢張是が青梅道であるという。サア是からが大変で殆んど車の通する路はなくなり草ぶくの間に三条の窪んだ狭い線を引いたのであつてウツカリすると梶をとり損なつて顛倒する曲乗を続けていかなければならぬ。いくら通行が少ないといつてもこんな道路があるのは分らない。是が此旅行の大難であつた。桜並木の路なり凡十四五町も此通を通り過ぎると当り前の街道に出る。是は実に不可思議である。石畑の宿までは可なりであるが是から横道に入ると今度は沙ブタとゴツゴツの砂利とで困難をする。尻の落つきがわるいので腰が痛くなる。小父さんは膝蓋骨が痛むといふ。此処一時間といふものは大困難で漸く青梅の入口軽便鉄道の敷かれた大道に出る。是は入間川街道で立派なもんである。八時過青梅を過ぎ日向和田に前進すると今度は又一面の砂利道となり下車せざるを得ない。モー宿屋が見へるという処で小父さんを待合して居ると丁度小泉老人が停車場から出で来るのと会した。大人はトート来なかつたという。砂利の上に坐つて麦酒を一ト口呑んだが其味は格別流石老人は用意周到である。それから万年屋に上つたのは九時十五分前であつた。裏の二階から多摩川の清流懸崖の下を通する景色は何ともいへない。清涼の空気が脳漿を洗ふか如く爽然たる心地がする。偖目的物たる香魚は如何と聞合せたるに今年は不漁でとてもだめたが幸ひに二疋丈さがして来た。中々立派なもんだ。是丈でも青梅の鮎は東京で知られて居る玉川鮎と違つて馬鹿にはならぬものだと分つた。朝飯兼帯の昼飯に此二疋の鮎を三人で食し枕を出させて一ト休みして大人が二番の汽車で来るかどふかを噂して居るとやがて十二時近くなつてから小児の頭位な西瓜を小脇にかゝへてはいつて来た。矢張今朝寝過して新宿で乗遅れたといふ事である。お負けに青梅で降りて歩いて来たそうで大分手間が取れた訳が分つた。大人の食事が済むのを待つて崖下の渡船場に赴き水泳をやる。川は左程深くはないが激流であるからウツカリ出来ずお負けに水が冷たいから冲も永くはいつて居られない。併し水の清んて居るのは実に気持がいい。水泳後宿屋に帰つて直様例の戦が始まる。不相変も大人の幸運は驚く斗である。今日は小生の全敗に終つた。夜食には鳥鍋が出る。肉の硬きこと申様なし、エビス麦酒三四本を明けてしまつた。食後も老人同行の事故散歩は禁物で程なくランプの下に円坐が設けられた。蚊は先少ない方で仕合せ蚤もたんとは居ない。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月19日 今朝は大分ユルリと休み七時頃に起きた。すぐに崖を下り多摩川の清流に浴するなど中々価値のある所である。やがて朝飯が済むと又坐蒲団が敷かれたが今度はバランスが変して来て小泉老人が最低位に落ち大人は益々優勢である。午餐には川魚の煮びたしが出る。余り結構ではない。食後老人と小父さんとは昼寝、拙者は寝られないで自転車掃除を始める。大人は徒歩演習に出てあたりには見へず。三時になりて帰りの仕度に取りかゝる。再ひ乗輪悪路を踏行する事は小父さんは大に不賛成で立川まで汽車便乗説を昨夜から唱へて居たから拙者断然自転車独行を提言した処で日向和田の発車は最早最終六時四十分のを残すのみであるから不得已小父さんをして再輪行を決意せしむるに至つた。正四時といふに万年屋を出で青梅までの半分は沙利道を押し送り、夫から鞍に上り青梅の町は忽ちに通り越して分れ路に入つたが昨夜の悪路も存外骨が折れず小父の説では大傾斜あるに依るというのである。兎に角思つたより産むが易しでやがて桜並木の草むら路にさしかゝつたがこれも二三度小父さんが車輪を横道に入れた丈で大した困難もなく小川村に出て、是からはボア、ド、サン、ゼルマン的の大直路で小父さんも成る丈明るい内に飛せといふので風を切つて進行する。田無の町を大方過ぎて所沢分れ路の附近で氷屋に休んだのが丁度七時であつた。茲から点燈をして沙塵のフカフカした中を走るのは存外困難である。しかしそれも僅かの間で八時十五分には新宿停車場前の角の茶屋に着いた。茲で鮨なんか喰して連中の着を待ち九時半に汽車がはいり四人一緒になり新宿の蕎麦屋にて腹をこしらへ十時半に帰宅。風呂が涌いていたので充分に汗を流し洒然となつて休む。 続きを読む »
1904(明治37) 年8月20日 今日午後から夏期講習会茶話会をやるとの事であつたが電話で断つて今日は休息するつもりである。午後西瓜を割るので小代を呼びにやり夕方には更科に行きたいというこまの請求である。物事は予想のやうにならないもんで小父さんはどこか冷しそうな処にしよう、兎に角小泉を誘つて来るといつて出掛けて行つたが中々帰つて来ない。漸く六時半に至つてやつて来た。それから今福に小泉と三人会食す。帰りに佐野を誘ひ一同会談した。 続きを読む »