本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1896(明治29) 年12月21日

 十二月二十一日 月 午前晴 午後曇 午前学校ニ出 精養軒で安仲と一緒ニ昼めし 午後二人で開拓社の竹越と云人を訪ひ後芝浦の大野屋で風呂ニ入りめしを食た 京都から帰つて今日始めて風呂ニ入つた 又二人で豊陵を攻撃した 小代がやつて来て三人と為る 中村へ例の狂歌や狂句の手紙を出す 一時過内へ帰る 帰る時月よし… Tout va bien ces jours-ci excepté ce petit coeur qui est toujours vide !

1896(明治29) 年12月22日

 十二月二十二日 火 今朝起きたら霰がしきりに降つて居り後雪と為つた 十時頃ニ磯谷が来奴と伊藤とを相手ニ額の片附をした 十二時前ニ佐野が来ストーブの形などの事ニ付注意してくれた 四人で昼めし 母上も一緒 四時ニ佐野が帰つた 六時二十分の汽車で品川へ行き例の岩家で佐野 小代とめし 九時半の汽車で東京ニ帰り三人で柳堤橋頭ニ一時迄遊だ Ce froid, ce clair de lune et cette gelée blanche, me font penser aux hivers de Grèz et à tout le monde le là-bas.

1896(明治29) 年12月23日

 十二月二十三日 水 今朝霜が全く雪の如しだ 十時頃から学校ニ出た これが今年の出おさめだ 昼めしハ藤島 和田と精養軒でやる 岡田が奈良で大病だと云事を聞く 内へ帰り暗くなる迄植木屋を相手にした 晩めしニ伊藤を引きとめた 吉岡が来て九時頃まで話した 一緒ニ出て番町から四ツ谷見附外まで散歩した 内へ帰り中村へやる手紙などかき十二時ニ為つた 昨夜から玄関の取次の間ニねる

1896(明治29) 年12月24日

 十二月二十四日 木 十二時頃ニ安仲が来 一緒ニ出て米福でめし 合田の処ニ一寸寄つたのニ奴留守 佐野の処ニ行き佐野を誘ひ出し小代の処ニ行つたらこれも留守 三人で又合田の処ニ行た 内で小代ニ出逢つた 即ち四人で豊陵で晩めし 米的が酔て大立廻りを始めたのニ閉口して大弓屋ニ入る 此処で合田 久米 吉岡等と合し七人連で又豊陵ニ帰る 内へ帰つたのハ一時過 今夜ハ少々曇つてぼんやり

1896(明治29) 年12月25日

 十二月二十五日 金 朝世界の日本からと云て石版屋の岡本とか云人が来た 夫れから和田 藤島 丹羽 小林 白瀧 湯浅が来た 和田 藤島の二人を昼めしに引とめた 皆が帰つてから明日の旅の用意など少しづゝ始めた 月の払の事やら名刺くバリの事やら…平岡□(原文不明)太郎氏の処ニ使をやつたり… 夜食後マヽンと天神の市ニ出かけた 中々盛だ 子供の時の事を思ひ出した 五丁目の市もにぎやかだ 帰りがけに新二郎の内ニ寄り九時頃まで居た 内へ帰つて荷造の仕度をした 又中村へやる手紙をかき十二時頃ニねる

1896(明治29) 年12月26日

 十二月二十六日 土 (房総旅行記) 中々いゝ天気だ 合田が十時頃ニ来て一寸話して行つた 今日ハ伊藤も見へてる 留守中の建築の事を奴ニ頼だ 清が来て居て荷造をしてくれた 十一時半頃ニ出かけ様として居た処ニ世界の日本からだと云て人が来た 一寸逢つて話を聞きそれから立つた マアこれで俗世界をのがれた心地だ 久米の処ニ寄つて荷物を置き清新軒でめし 小代が間も無くやつて来た 一時ニ久米の処ニ行て三人で出かけた 本所のステーシヨンの二時の汽車に乗り一時間たつて千葉に着き此処のステーシヨンで三十分待ち四時半ニ大網ニ着いた ステーシヨン前の茶見世で油げを食たり又まぐろのさしみを食たり正宗を飲だりして勢づきいよいよ東京を離れて気楽ニ為つた 宿屋を聞合したら清宮と云のがいゝと云ので其処ニきめた 鰯のすぬたをこしらへさせ豚を取り寄せて食ひながら例の如く狂歌狂句をやらかし後花がるたを十二時頃までやつた 小代が花がるたの先生でやつて見たが中々面白いもんだ

1896(明治29) 年12月27日

 十二月二十七日 日 (房総旅行記) 目がさめて見れバ雨だ 小代と久米ハ囲碁をやらかしオレハ又狂歌などで暇をつぶした 十一時頃ニ為つてはれたから車を雇て出かけた 四天木村ニ着たのハ二時 宿屋ハ高砂屋と云ひ下女の名ハあつ 直ニ食物を云ひつけて食ひ御酒も少々きこしめしそれから宿の亭主を案内ニ引連れて浜見物ニ行た 此の辺の景色が左程ニよくないから明日ハ又何処かほかの処ニ行て仕舞ハんと云気が出たからいゝかげんニ云て暇乞した 全体此の辺の浜の景は至極平たく広い計で家などが一向味が無い 夕方又宿屋ニ帰つて来ていろいろ評議の末いよいよ房州の方へ向つて行ふと云事ニ極まつた 今朝大網を立つてから途中の道悪るい事や牛ひきと車屋とのけんくわなどニついて狂歌などやらかした それをやりつゝめしをすました 何しろ景色がよくなかつたのでいやニ気がいらだつ様ニなりそれニ宿帳をつけニ出て来た男がなまいきな様な奴で気ニ食ハず手を拍いて下女を呼で何か云ひつけても急ニ仕事をせず一時ハ余程気持が悪く為つた 先づ下女ニ銭を二十銭やつてオレなんかゞ呼だら直ニ来いと云ひつけてそれから花がるたを買ニやつた これから心持が少しづゝ直つて来た 内へ出す手紙をかき十一時頃まで三人でかるたとりをして遊だ 寝る時ニ為つて新らしい敷ぶとんが出て来たので全く心地が直つた 此の辺の気候ハ東京より余程暖かな様だ

1896(明治29) 年12月28日

 十二月二十八日 月 (房総旅行記) 朝九時過ニ高砂屋を立ち十一時頃ニ一つ松と云処ニ来て冷酒の立食をした 此の酒を飲だ家ハよしづ張のにうりやの一軒屋だ 白首二つ計見へた これが此の辺で云達磨と云女郎だそうだ 五十以上の爺が此の茶見世ニ居たがこいつが此の二人の女を連れて来て大ニ散財をして居る処だつたと見へる 此の二人の女ハ此の先きの常盤屋と云料理屋の女だそうだ 此の辺の料理屋ハ墓場の茶屋の様な体裁だ 一の宮ニ十二時前ニ着いて倶楽部と云ふ大きな宿屋ニ寄りお中食と相成る 此の宿屋ニハ東京から出稼ぎの下女が二三人居た 其内の一人ハお京と云者だつた 此処で乗合馬車を一台二円で借切りニして二時ニ大原を指して出かけた 四時半頃ニ大原ニついたがいやはや此の間の道の悪さ加減ハ非常なもんだつた 竹屋と云宿屋ニ荷物を置き馬車の別当の案内で小浜の八幡へ行た 小浜と云処ハ一寸画ニなりそうな処だからしばらく大原ニ居る事ニきめ宿屋ニ帰り風呂ニ入りめしを食ひ手紙をかき狂歌をやらかし花がるたを取りなどして十二時前ニねる 今日馬車で上総山とか云処の前を通つた時馬丁があの松が名高い三階松です 又あれが二葉の松ですと云て見せた 三階松と云のハ此間の風で折れたと云て真中から折れて上の方ハ土手の下にぶら下つて水ニつかつて居た

1896(明治29) 年12月29日

 十二月二十九日 火 (房総旅行記) 今朝の霜ハ非常なもんだ 雪の如しだ 朝めしニ鶏を食ハせろなんかんてやつたもんだから大変暇取りめしを食て出かけたのハ十時過だつた 昨日ハ八幡山の方を見たから今日はもう少し北の方の浜辺ニ出た 風ハ無く雲ハ無くほんのりとしたいゝ天気だから色合が実ニ申分の無い調子ニ出来上つて居た 此の浜から段々南へ来て又八幡山の処ニ出て一と廻りして宿屋ニ帰つた 宿屋の手前の墓場の処で巡査がオレなどの様子を見てあやしみ一寸あなた方ハ何国から来て何と云人だなどと聞始め上つた おかしくてたまらぬ こゝぞと思つて華族正五位と書いて渡してやつた 町を通つても小児などが夷人さんだなどとぬかし上る 無理も無い話だ 小代と久米が一緒だから 二時半頃から又出かけた 今度ハ道具を持て出た 八幡山の下から前のがけをかいた 此のがけを百尺崖と云名ニした 風呂ニ這入りゆつくり夕めしを済ましそれから手紙をかいたりかるたを取つたりした 今夜ハ東京の京橋から来て居ると云下女がかるたの打ち方など教へてくれた 此間大網から四天木ニ行く途中で車屋ニやつゝけられた牛方の事を考へたらいかニも可愛そうだからとうとう今夜手紙を高砂屋までやつて見る事とした  先夜ハ御厄介罹成候 偖而拙者共大網より御地へ参り候折途中にて拙者共車夫 牛方と口論の末牛方より二十五銭の償金を差出候事と相成居候 就てハ拙者共能く能く相考申候処人力車ニ少々の損所出来候事牛方の不注意とハ申ながら拙者共雇入候車夫の為めニ牛方風情の者へ年末ニ際し損失相掛候てハ気の毒の至ニ付拙者より牛方へ相当の金子送附可致候間重々御手数相掛候儀ニ有之候得共何卒牛方の住所姓名御調の上至急当方迄御通知相願度候 以上 今夜非常な雨風でそれが為め夜中ニ目がさめた位だ

1896(明治29) 年12月30日

 十二月三十日 水 (房総旅行記) 風は未だ本当にやまないが天気はよく為つた 今日は通りに市が出たからそれを見に行た 一寸面白いから一枚かいた 午後二時頃から又かきに出かけた 浜ニ行て見ると鰯舟がついて居て大騒の最中だつたからこれを一つせしめ後又海の画を一つやらかし暗く為つてから内へ帰つた 夜は例の如く又三人でかるたをやるやら狂歌をやるやら十一時頃ニねる

1896(明治29) 年12月31日

 十二月三十一日 木 (房総旅行記) 今日は晴とまでニハ行かずはだもちは寒い方だ 朝小浜から大東の岬の方へ向つて画をかき午後は三時頃より百尺崖の画をかき夕方ニ為つて田圃の夕ぎりの具合をかいた 帰る時ニ道を間違ひ村をまごまごした 夜そばなど取よせて食つたが一向甘くなかつた 久米や小代が年頭の手紙をかくのでオレも鎌倉や東京ニ出す手紙を二本かき其ほか名札を三四ケ所ニ出した

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