1896(明治29) 年12月29日


 十二月二十九日 火 (房総旅行記)
 今朝の霜ハ非常なもんだ 雪の如しだ 朝めしニ鶏を食ハせろなんかんてやつたもんだから大変暇取りめしを食て出かけたのハ十時過だつた 昨日ハ八幡山の方を見たから今日はもう少し北の方の浜辺ニ出た 風ハ無く雲ハ無くほんのりとしたいゝ天気だから色合が実ニ申分の無い調子ニ出来上つて居た 此の浜から段々南へ来て又八幡山の処ニ出て一と廻りして宿屋ニ帰つた 宿屋の手前の墓場の処で巡査がオレなどの様子を見てあやしみ一寸あなた方ハ何国から来て何と云人だなどと聞始め上つた おかしくてたまらぬ こゝぞと思つて華族正五位と書いて渡してやつた 町を通つても小児などが夷人さんだなどとぬかし上る 無理も無い話だ 小代と久米が一緒だから 二時半頃から又出かけた 今度ハ道具を持て出た 八幡山の下から前のがけをかいた 此のがけを百尺崖と云名ニした 風呂ニ這入りゆつくり夕めしを済ましそれから手紙をかいたりかるたを取つたりした 今夜ハ東京の京橋から来て居ると云下女がかるたの打ち方など教へてくれた 此間大網から四天木ニ行く途中で車屋ニやつゝけられた牛方の事を考へたらいかニも可愛そうだからとうとう今夜手紙を高砂屋までやつて見る事とした
  先夜ハ御厄介罹成候 偖而拙者共大網より御地へ参り候折途中にて拙者共車夫 牛方と口論の末牛方より二十五銭の償金を差出候事と相成居候 就てハ拙者共能く能く相考申候処人力車ニ少々の損所出来候事牛方の不注意とハ申ながら拙者共雇入候車夫の為めニ牛方風情の者へ年末ニ際し損失相掛候てハ気の毒の至ニ付拙者より牛方へ相当の金子送附可致候間重々御手数相掛候儀ニ有之候得共何卒牛方の住所姓名御調の上至急当方迄御通知相願度候 以上
 今夜非常な雨風でそれが為め夜中ニ目がさめた位だ