本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1889(明治22) 年7月5日

 七月五日附 ボアニュビル発信 父宛 封書 暑気甚敷ノ処御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気に御座候間御安心被下度奉願上候 学校の方も休みニ相成候 去る二日より又々此のボアニユビルと申田舍ニ米人と来り勉強罷在候 友人なる英人一人已ニ当地ニ来り居候間合して三人と相成にぎやかなる事ニ御座候 此の前ニ参り候時画き候田舍屋の室の内にて十七八の女と八九歳位の子供と針仕事を為し居画教師へ見せ候処かなりよろしく候故念を入れて今一枚額をかき見てハ如何と申候 依而今度ハ其考にて勉強仕候 本式ニ額をかく時ニハ窓ハ窓人ハ人と皆別々ニ下画をかき而後ニ一つの額面ニ集め申候 依而随分ひまもかゝり申候 巴里出発前一週間程日本の女を頼み其面をかき申候 未だかき終らずして出立仕候間帰巴後ハ又々三四日其面をかゝんと考居候 此の女ハ親父と妹と三人連れにて欧洲へ来り見世物同様に相成居候 親父ハ大工にて島原の者の由 随分正直なる田舍男と相見申候 只金もうけのために来りたりとの事ニ候 先づ憐れむ可き人間と奉存候 西洋人を雇ひ画をかくよりも此の女の面をかくにハ金も少しハ高く掛り候得共同国の者ニ金を与えると思へバ心地よく御座候 此の十二三日頃当地へ滞在仕候て一週間程巴里へ帰へり英国又ハ白耳義などより博覧会見物の為メ来る友人等へ逢ひ而又当地へ来り勉強仕度存候 来月の末か九月ニハ十日程休暇の為白耳義へでも出掛んかと相考申候 何ニも其節の金の都合と奉存候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候  皆々様へよろしく奉願上候

1889(明治22) 年7月18日

 七月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉大賀候 私事大元気にて此一週間程巴里へ帰り居毎日英国などより遊びに来りたる友人(日本人)などゝ博覧会の見物致し候 明後日より又々田舍ニ引籠少しく勉強仕考ニ御座候 田舍ニハ例の虫多く有之候 之レニハ誠ニ閉口仕候 田舍ニテ一二の額仕上げ候上ハ例年の如く白耳義へでも遊びニ出掛ケ度者と存候 余附後便 草々 頓首 父上様  清輝

1889(明治22) 年7月25日

 七月二十五日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 (前略)わたくしことまことにげんきにてこの四五にちまへにまたまたいなかへまへりましてゑをかいてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハこのいなかでハずいぶんすずしいことでございますからまことにうれしいことです けれどもあめがよくふるのにハまことにへいこうでございます ひがてつてゐてあめがふることがたびたびございます こないだぱりすからこのいなかにかへつてまゐりますときにあめりかのおんなのやつが三人とおとこのやつがひとりそれからわたしのゑのせんせいのいもとさんが一しよにまへりましてみんな二三にちとまつてをりました まことににぎやかなことでございました けれどもおんなのやつらばかりでしたからうんどうなどするときにハ一しよにあるかないわけにもゆかずべんきようハちつともできませんでした せいようでハなるたけおんなにへいへいしないとわるくちをゆわれますからこまつたもんです わたしハまづまづどうかこうかつきあいができるようです こんどハまづこれぎりにいたしてをきます めでたくかしく 母上様  新太より この九月ごろにはまたまたべるじつくのばんはるとらんさんのうちへあすびにいこうとおもつてをります まことにしんせつなひとたちにてことしもぜひぜひあそびニやつてこいとゆつてよこしました

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