本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年3月2日

 三月二日 土 雨 午後霽 (欧洲出張日記) シエナ(仏語にてシエンヌ)はオルヴヰエトより三倍程もある処で矢張高い岡の上にある 三ツの岡に跨つて居るので登り降の急な長い坂が多い 皆一面に平たい石が敷つめてあるから上から見るとすべりそうでいかにもけんのんに見へる 中世時代ニハ随分烈しい戦もやつたと云ふ事だ 千五百五十四年にコスモ一世の大軍に対して十ケ月間の籠城をやつた時などにハ此処の婦女子の勇気は盛んなものであつたといふ話だ 此のシエナといふ処ハ伊太利中で尤も美人の多い処だといふ事だが美人といふやうなのハ一人も見受けない しかし甚だしい醜婦も見へないやうだ 今日の見物ハ朝の内に美術学校附属のミユゼ サン・ドミニコ ヅオモ及オペラ・デル・ヅオモ 昼過に町役場(パレ・コンミユナル) サンタゴスチノ オラトワール・ド・サン・ベルナルヂノ サン・スピリト エグリーズ・ド・フオンテジウスタ等なり 美術学校付属の絵画陳列館にハ此辺の画派の尤も古い宗教が多く集めてある 画史の研究にハいゝが画として眺めて面白いといふのハ少ない 宗教画が主できびの悪い方だ ゼンガ・ジロラモといふ千四百七十六年から千五百五十一年まで活た人で今迄ハ一向聞た事のない人だが此の人のフレスクが二枚ある Fuite d’Enée; Rachat de Prisonniers の二枚だ どつちも気に入つたから其写真を買つてかへる サン・ドミニコ寺にハソドマがサント・カトリヌ・ド・シエンヌの事をかいたフレスクがある 此の画は此のソドマの作でハ尤も優等のものとしてある ソドマの画は美術学校の方にもあつたし此のシエナには沢山ある 此の土地の生の人で評判がいゝがオレはそれ程にハ思ハぬ 画の体は一寸レオナール・ド・ヴアンシイとラフアエルとまぜたやうな風だ 達者には違ない ヅオモは此のシエナで一番立派な寺だ 内外共に充分装飾してある 尤も感心したのハ堂内の敷石で白黒鼠の三の色の大理石を組み合せて戦争の図や何か色々な図をこしらへた一四二〇から一五五〇年の間ニ出来たもので画家ベツカフミ等の作だといふ 中央の重な部分にハ一面に板がかぶせてある 一年に一回即ち八月中丈此の板をのけるそうだが其他ハ年中かぶせて置くのだそうだ 案内者がはぢの方を少しめくつて見せた 左手に文庫といふのが有る 其処の壁画はピンチユリツキヨの筆で十枚続きの大作だ 随分つよい美しい色で出来てる 馬の轡などハ別に土だか何だかで高く盛り上げてあつてそれに金で模様がかいてある 又此壁画は今に出来上つたやうに立派にして居る 画題は法王のピイ三世の功名話だ 其直脇の小さい円形の室にもピンチユリツキヨの壁画が有る 其中にも実に甘いのが有るが此の方は古ぼけて仕舞つて居て黒くなつて居る おまけに室が薄暗くして居るからはつきりは見へない 此の室にドナテロの作だといふサン・ジヤン・バチストの銅像が安置してある オペラ・デル・ヅオモは小さいミユゼでヅオモ寺にあつた古い彫刻物のこわれたのなどが保存してある 画も少しハあるがまあつまらない方だ パレ・コンミユナルは中世即ち封建時代を思ひ出させる建築で百メートル許の高い物見が附いて居て武張つた姿のいゝ家だ 千二百年代の仕事だといふ事だ 古風な壁画が沢山有る モンテマツシ襲撃の図などは建築と相応して居る ラウランゼツチ筆の善悪政府と云ふ画も中々面白い 此の家の窓から南の方を見た景色は目の下に古風な市場が有つて其先は谷に為つて向ふに岡が見へる 丸でフレスクにあるやうな形だ サンタゴスチノ寺ではマテオ・ヂ・ジオヴアニのマツサクル・デジノサンの図が面白い オラトワール・ド・サンベルナルヂノに這入らうとしたら其境内に遊んで居た児供が二三人走つて来た 何んとかしきりに云ふ 之れハ案内をするといふ事ならんと察してシイシイとやると直に又かけ出して方丈のやうな処に行て寺男を呼び出して堂の扉を開けさした 此の児供等は銭を貰ふ目的でこう云ふ事をしたのだ 総て此の伊太利にハ乞食が多いが又只の者でも臨時に乞食に為る 婆や爺で乞食でもなんでもない者が吾々の面を見てアゝこいつ等は変な面の奴等だ外国人だナといふ様子をして直にあわれつぽい声で何か云て手を出す 児供等も兼て親達から云ひ付けられて居るやうにぬからずに乞食に化ける そうだと云て案内をして呉れる人ハ皆乞食だと云ひ切る事は出来ない 中にハ深切な人もある ルツカで一人の老人が至極丁寧に寺の案内をして呉れたのもあり又此のシエンヌでハ今朝美術学校をさがして歩いて居る時或老人に道をきいたら其人がわざわざ学校の門まで送つて来て呉れた サン・ベルナルヂノではソドマの画もあるがパキアの画の方が気に入つた サン・スピリトではソドマの筆でウヰエルジユがサン・アルフオンスにドミニカンの被物を渡して居る図がいい エグリーズ・ド・フオンテジウスタでハ大した画はない 大理石の仏壇が名高い丈だ 今日は朝から雨が降つていやな天気だつたが昼頃から霽た 例の如く久米公がベデカの案内書で道を調べて先きに立つて案内してくれる 処でサン・ドミニコ寺の入口が一寸分らなくつて横手の門の有る処に這入り込だ 見ると門番は兵卒だから此処は兵隊屋敷かも知れない へたまごつくと馬鹿を見るぞと云つて佐野と門を出ると久米公は其儘少し進んで行たが間も無くラッパの音が聞へて久米公は又のそのそ出て来てナアーンだこわがつて居上らと云つて威張つた 今夜寝床に這入つてから巴里を立つ時に久保田君が貸してくれた湯島詣といふ小説を読で二時頃に眠る

1901(明治34) 年3月3日

 三月三日 日 雨 アレツゾ (欧洲出張日記) 今日も亦雨だ もう此処ぞと云て見る処もないが汽車の都合で今朝は此処に居なけれバならないのでサント・カトリヌ・ド・シエンヌといふ昔話に名高い女の生れた家だといふのを見に行た 今は寺に為つて居る それから坂道を下つて昨日の兵隊屋敷だと云つた処の裏の崖の下に在るフオンテ・ブランダといふ水溜を見る 此の水溜はボカスやダンテなどの詩の中に書き込であるといふので名高いのだ 二時二十分の汽車でシエンヌを立つた 五時十五分にキユーシに着いて此処で珈琲を飲だり又少し冷肉など食て乗かへの車の来るのを待つて居た 五時五十五分に同処を発して七時にアレツゾに着いた 今夜の宿はホテル・アンギルテーラといふのだ 此のホテルの部屋は可也いゝ ストーブも付いて居るので火をたいてあたつて三人で児供の時の話などした 又寝床にあんかを入れて呉れたのはよかつた 其あんかといふのは随分不思議な形のもので丁度椅子を横にしたやうな物で木で骨組が出来て居り其真中にかぎが有つてそれに土焼の造りつるげのつるの附いた小さな火鉢がぶら下つて居る 始めて見た 中々重宝な品だ 参考の為に其形を写し取つて置く 〔図 あんか〕

1901(明治34) 年3月4日

 三月四日 月 フロランス (欧洲出張日記) 今日は天気がいゝ 八時半頃に起きて十時頃から出かけて先づヅオモ寺に行た 此の寺の方へは段々町が高く為つて居てヅオモの後は小さい公園のやうなもので石の腰掛などが並べてある 其処から先きハ崖下で畠だ 其崖の上から眺めた景色は周囲に山が見へ山の頂に少しく雪のあるのなどもあり又山の形が京都の西山のやうだ 仮りに此の公園を円山とすれバ殆んど京都のながめのやうだ 只下に鴨川の流がないのと市街の代に一面の畑と云ふの丈が変つて居る 此のアレツゾは一万二三千の人口でオルヴヰエトやシエナの様に古代の風が少ない 人家もステーシヨン近所又大通辺は大抵今時風に立てゝステーシヨンから町の方へ出る通などは大道と車道とちやアんと別けてあつて又其通りの中程一つの辻が有り其処にハギイド・モナコといふ坊さんの像が立つて居る 此の像は千八百八十一年今からたつた二十年前に出来たのだから新らしいものだ 此の辻の辺から町の方を見ると両側は新形の大きな家で突当りハ小高くなつて其処には古い家が重なつて見へる ギイド・モナコは此処の人で千年近い人だが此の人が音楽の譜の発明者だといふ事だ 此のほかにアレツゾで大分有名な人が生れた 詩人のペトラルクも此処の生れだ 又画家の伝を書いて残したヴアザリも此処の人だ ヅオモ寺は千二三百年頃の建築だが前面は出来上らずに仕舞つたものと見へて飾もなニもないが内部ハそうでない ウヰトロウなどハ見事だ サクリスチの入口の左手の壁にピエロ・デラ・フランチエスカ筆のサント・マドレイヌと称する一人の女の立て居る図が有る よく出来て居る サクリスチの内にハシニヨレリの小さい下絵のやうな額が幾枚も有る ピエロ・デラ・フランチエスカといふ画家の名は余り世間によく知られて居ないが中々以て甘いものだ 此の人の作で実に驚く可き立派なものが此のアレツゾに在る それハサン・フランチエスコ寺の壁画だ フランチエスカは生年月ハよく知れない 大抵千四百十六年頃で死んだのは千四百九十二年だ サン・フランチエスコ寺は千三百年代のもので直宿屋の隣だ 少し横にひん曲つて此儘にして置けバもう長い寿命はない寺だ 壁画も随つて悪くなつて居る処が多い 惜しいものだ 其フランチエスカの壁画はアダム イブの墓の上に二本の木が生へて其木が遂に耶蘇の十字架に為るとか何とか妙な意味の昔話を其儘画にしたのだ 人物のかき方など此の時代の人にハ類の無い程甘いものだ 空の色 雲の調子 又樹木 流れ等今の風景画の専門家にも兎ても此の位にハかけまいと思ハれる位に心地のいゝ色が出て居る 此のほかにハもう大して見るものもなく又こんないゝ画を見れバもう沢山だから一時二十分の気車で立つた フロランスへ着いたのは二時四十五分だつた 此の頃乗る気車は時間表通りにきちんきちんと発着する 伊太利だつて後れる気車計は無いと見へる アレツゾ フロランス間は実に景色がいゝ 特にフロランスへ向つて右手にハ谷有り川有り山有りで又其等の位置が甘く出来て居る 佐野とオレは持つて来たコダツクを抱えて窓の前に殆んど立つきりでフロランス迄来た フロランスの宿屋はホテル・ポルタロツサと云ふのにした 市の中央部のヴヰア・ポルタロツサといふのに在る 未だ今日は早いから宿屋に着いて部屋を極めて直にサンタ・クロチエといふ寺を見に行た 此の寺はフロランスでのパンテオンにて有名な人の墓や記念碑が有る 何しろ只の寺で墓と云ても坊主の墓などと似て居るから壮厳な事はない ミケランジユやマキヤヴヘルなどの墓が有る ミケランジユの墓と云ふのは羅馬でも見たが羅馬のよりは此処に在るものゝ方がいくらか体裁がいゝ しかしあゝ云大家の墓としてハどうも尋常過て物足らぬ心地がする 全体ミケランジユは千五百六十四年に羅馬で死んだのだから羅馬の方のが本当の墓で此処のは紀念碑とでも云ふ可きものか 或ハ又此処のが本当なのか 此の寺にあるジヨツト筆の壁画はいかにも少し繕ひすぎたやうに見へける けれども面白い 夜食後月見がてらアルノ河畔を散歩した

1901(明治34) 年3月5日

 三月五日 火 晴 (欧洲出張日記) 午前にサンタ・トリニタ サンタ・マリヤ・ノヴエラ オニサンチの諸寺 午後にフヰエゾル行の電気鉄道でサン・ドメニコまで行た 之れはアンゼリコの居つたと云ふ寺のアンゼリコの画を見に行たのだが今お寺の修繕中で其画も手入の為によそへやつてあると云ふ事で見る事が出来なかつた 少しサン・ドメニコを散歩して又電鉄に乗つてフロランスへ引返へしてヅオモ寺の内部を見た 此寺ハ寺の建築としてハフロランス一のもので百八十六年間かゝつて出来た 円堂はブリユネレスコの作 入口の左右に騎馬武者の壁画が有る 右はカスタニヨ筆 左はウツチエロ筆 いづれも暗くしてよく見へず ミケリロのダントの肖像といふのもある 可也評判の画だ フヰエゾルといふ処はフロランス市の外で市より乾の方に当つて居る小高い丘だ オルヴヰエの樹が多く植てある サン・ドメニコは其丘の登り口の処で日本の山などで云へば馬返ヘしと云やうな場所だ 今夜は早目に十一時頃ねる

1901(明治34) 年3月6日

 三月六日 水 晴 (欧洲出張日記) 午前にギベルチやドナテロ作の諸聖の像が立て居るオールサンミケレ寺とウフヰジ美術館を見た 千四百九十八年五月二十三日にサヴヲナロルが焼殺されたといふシニヨリアの辻の飯屋で昼飯を食ひ馬車でサン・マルコの宿坊に馳け着けアンゼリコ筆の数多のフレスコを見 それよりサン・マルコ寺に寄りイノツサン寺にてジヨツトと称する大きな張付の図を見 ギルランダヨの油画の掛けてあるイノツサン病院内の念仏堂 スピネロ・アレチノ壁画のサン・アンブロジオ寺等に這入り帰り路にミケランジユが住んだと云ふ家の前を通り昼飯を食た 飯屋に立寄り一と休みやらかし又其近所の写真屋に立寄り八時頃宿屋へ帰る

1901(明治34) 年3月7日

 三月七日 木 朝雨 午後霽 (欧洲出張日記) 昨日までいゝ天気だつたのに今日は雨だ 昨夜は例の如く十二時過に床に這入つてそれから佐野から借りた大橋乙羽君著の『続千山万水』を読み一時過に為つて段々見て居る内に巻末に春山某の書いた九州旅行の案内文の有るのを見出した 見ると春山鶴峯としてある サテは郁次郎が書いたのかと気が着くと同時に吾少年時代の事から春山と去る二十七年の夏に鎌倉の雪の下で出遇ひ久し振に昔語などした事 それから二三年間時々逢つた事 其後又さつぱり見へなく為つた事など思ひ出しとうとう三時頃まで考へたり読だりして眠る事を忘れた 今朝は十時半頃から見物を始めてメヂシスの墓 ドナテロの作品の多いサン・ロレンソ寺及市庁を見再びイノサン寺に這入つた 此の寺にハ昨日も一寸這入つたけれども肝腎のサルトの壁画を見る事が出来なかつたから今日も這入つて見たのだ 左程面白いものでハなかつた 此処を出て美術学校附属の美術館に行きヅオモ寺の横手のケチな飯屋で昼飯を済ませ後ピツチ美術館 同庭園及カルミネ寺を見アリナリの写真見世に寄つて六時半頃に宿屋に帰つた 今日は午後に為つて雨が霽んだ丈は仕合だつた 此の頃の生活は朝は大抵九時か九時半に起きてそれから食事の間丈を除き夕方まで処々見物して歩き夜食後は部屋のストーブのまへで三人寄つて昼間に見たものの評をするやら友達にやる端書をかくやら又日記をつけるやらして十二時頃まで起て居りそれから床に入るのだ

1901(明治34) 年3月8日

 三月八日 金 雨 アペナン山 (欧洲出張日記) 今日も雨だ 十一時前に出て先づ国立美術館を見た 雨はますます強く降つて来るしそれに今日は三時の汽車で立つ筈だからぐづぐづしてハ居られず 久米指令官が大憤発で馬車で馳け廻る事に極めてミケランジユの旧宅 ペルジノの壁画 ヅオモ寺の古物保存所等を見て一時頃に宿屋に帰つた 先づフロランスで見たものはこれ丈だ 此の見た処に就て一々委しく書く日には大変だから只感心したものを摘んで記るす 羅馬ではラフアエルとミケランジユのヴアチカンにある大作が何と云ても見ものだ 此処ではあゝ云ふかたまつた大作は少ないが随分いろいろな画家の作が集まつて居る ギルランダヨのサンタ・マリヤ・ノヴエラの壁画は結構な品だ 此の人の壁画はサンタ・トリニタ オニサンチ ターバン・ド・サン・マルコ等にもあるがサンタ・マリヤ・ノヴエラのが一等だ ボチチエリの画には大作と云ふ程のものは見へなかつたが此の人の作は処々に沢山有る 美術学校内にある春と題するものなどハ尤も面白いものだ ウフヰジ美術館でフランチエスカ筆の実に甘く出来た女の肖像を一枚見た 極小さな画だ ピツチ美術館の方は家の姿は外から見た処は大柄で気持ちいゝ 又上つて行く階子段の処などは好だ 画はウフヰジより少ない チシアン チントレツト等の作が主だ ベノゾゴゾリの立派な壁画が市庁にある フロランスの彫刻物ではドナテロ ロビア ミケランジユが主で此の三人の作品は沢山有る ドナテロの有名なサン・ジヤン等は国立美術館で見た ロビアの作で尤もいゝのはヅオモ寺の古物保存所に在る説教台の周囲の彫刻だ ミケランジユのでハどうしてもメヂシスの墓の右に出るものは鮮ない 委しい事は久米が日記に付けたから忘れたら久米にたづねる事としてをく 昼めしを食て仕舞つて少し時間が有るので久米が写真を買ひに出た 其内にもう立つ時が来たが久米は帰つて来ず そうこうして居る内に漸く帰つて来て大騒ぎして机の上などへ少し散らばつて居る品物を片附け払をして宿屋の馬車に乗つた ステーシヨンでは大層な人ごみで気車の室内の席を取るのにハ一と通りならぬ混雑だつたがあつちこつちへ乗つて仕舞にゆつくりした相客はたつた一人丈しきや居ない処を見付けた さすがいゝといふ評判のフロランスの近郊も今日の雨では一向に面白く見へない 一時間程馳せて気車はアツペンナンの山登を始めた 此辺から少し雪の有る山が見へて景色がよくなる 山にかゝつてから二十分許もたつ内に雨がみぞれとなり遂に雪と為り地に雪が少し積で来た つまり気車が段々山の高い処へ登つて雪の有る部分へ進んだのだ 四時半少し過に山中の一つのステーシヨンに着いた 此辺は本当の雪降で二三寸も積で居り木も屋根も一面に白くなつて居る 先づ一寸箱根の山北駅に湯本宿を一緒にしたやうな具合の処で谷川に沿ふて村が有る 此の川はもうアドリヤチツク海の方へ向つて流れる 少しく山を下れバ雪は全くなく為つてもとの雨降だ 今通つて来た山には一面にシエーヌのやうな樹が植付けてある 薪にするものらしい 山を下れば樹木も少しく向ふ側に異つて居る フランスに多いプープリエ樹なども沢山見へるし又フランスでサパンと云ふ枝の長く延びる桧のやうな木も処々にある 其内に夜が入つてボロニアに着き乗り換へて此処を出たのが六時半 ボロニアで買つた弁当を気車の中で食ひ十一時にヴエニスに着いた 宿屋をホテル・ダングルテールと極めて其の宿屋の客引の世話でゴンドラに乗り込だ 此のヴエニスには馬車が一台もない 此のゴンドラといふ細長い舳と舮とがピーンとはねくり上つて居る川船が車の代をして居る 其船を漕ぐのには普通の欧羅巴風と異つて立つてこぐ 支那人が船をこぐのと其ざまが似て居る 始めは少し広い処を行くやうだつたが中途から細い川に這入つてあつちこつちと廻ハつて仕舞に港のやうな処に出て其処の右手の波止場のやうな先づ横浜のグランド・ホテルの前とでも云ひそうな処に舟をつけた 吾々の這入る宿屋は直其舟をつけたところの前だ 此辺が此のヴエニスでは一等の場処らしい 宿屋はエマニユエル王の銅像の大きなのが建ててある処の前だ 此の宿屋に着いた時にハ早十二時過に為つたが腹がへつて居るからチヨコレートを云ひ付けて飲だ 今夜ヴエニスに近寄つてから雨が止んだがゴンドラに乗込だ時にハおぼろ月夜に為つた 時が遅いから世間はシーンと静まつて船は水の上をすべつて行き艪で水をしやくる音丈が規則立つて聞えて一時は過去も現在も未来も忘れて何処に居るといふ事も考へず実にいゝ心地であつた 部屋に這入つて窓を開けて見れバ前は向ふに一と筋建物の有る陸が有つて大きな川の川口の湖水のやうに見へる 此の景色をぼんやりした光の無い月が照して居る

1901(明治34) 年3月9日

 三月九日 土 雨 ヴエニーズ (欧洲出張日記) ヴエニーズと云ふ処は奇妙な処で先づ島だ 其島にハ殆んど地べたと云ふものが無くて家のかたまりで出来て居る島だ 此のヴエニーズ島は小別すれバ百二十二の小さな島だが大別すれバ三ツの島だ 此の切れ切れの島を三百五十の橋で繋いで居る そうして此の島の全体は鉄道用の石橋で伊太利の大陸につながつて居るのだ 人口は十五万余も有つてなかなか盛んな処だ 此の人口の四分の一は貧民だといふ事だがナアープルなどに比すれバ一文下さいを業として居る者ハ至て少ないやうに感じる 人気も一体に悪くはないやうだ 住ふのにハいゝ処に違ない 第一車が無いので夜は誠に静かで寝心地などは申分はない 吾々の宿屋のある処は島の南の浜辺でスキヤウオニといふ処だ 浜といふと砂原か石原かのやうに感ずるけれども此処の浜は至て立派なものでキチンと石が敷きつめてある 此のスキヤウオニという処が尤も立派に出来て居る 宿屋を出て西の方へ浜伝ひに行くと美しい石橋が二つある それを二ツとも渡ると右手のトラベルタンの丸い柱の立つて居る四角な立派な家がパレ・ヂユカルで其角を右に曲れバ直其処に右手にぐじぐじした土耳古的装飾の大きな寺が有る これがサン・マルコ寺だ 又左手に四角な高い鐘楼が有る 此の辺にハ丁度浅草の観音堂のやうに鳩が群がつて飛廻ハつて居る サン・マルコ寺の前に鐘楼と並んで旗竿が三本立つて居る これはヴエニス市が独立の共和政治で有つた時分に共和国の旗を立てゝ居つたもので今は祭日などに伊太利の国旗を立てる 今日は先づサン・マルコ寺を見に行た 此の寺は壁や天井総てモザイツクで装飾して有 大抵皆絵の地にハ金色ガラスを用て居るから実ぎらぎらして立派だ お寺にハ持て来いの装飾だ 羅馬のお寺にも随分モザイツクが使つてあるが此寺程にモザイツク固め処は無い 十一世紀に此寺の装飾をやらせる為めに希臘からモザイツク師を呼び寄せて仕事をさせたものだそうだ つまり此のヴエニーズの画派の天祖とも云ふべきものハ是等のモザイツク師であらう 堂の前飾に為つて居る四つの赤銅の馬はネロン時代の作で一度巴里までも持て行かれた 寺の前は大きな長方形の立派に敷石のしてある明地で丁度巴里のパレ・ロワイヤルと云ふ体裁で囲にハ写真 土産物等外国人向の色々な見世が並んで居る 仏語英語等にて客を引く サン・マルコ寺に這入らうとしたら案内者が附いて来てうるさくてたまらずとうとう寺中案内して一仏といふ事で雇つた 寺の見物が済むと此処の近所にモザイツクを作る家があるから其処に案内すると云ふから其跡について行くと右の方へ曲り小さい橋を一つ渡ると女の職人が四五人で下らない土産物向の俗極まつたガラスのモザイツクやつて居る処に這入つた サアそうすると番頭の様な奴が前のお寺の案内者と代つて此つちへと云て案内する ナーンダ馬鹿々々しい 此処は外国人向の品物を売る家で寺の案内者などが此の家に客を引張り込めバ必ず何がしか頂けるやうな事に為つて居るに違ないのだ 又此の家に一度這入込だ日にハこれがいやだと云へバあれハどうだと云ひどうにかして何か売着けやうとして外へハ出さない 此家で売て居る品物と云つたら木彫の椅子 机類 大理石の人形 ガラスのコップ 皿の類 モザイクの安いピンや指環品々 それから黒ん坊の人形に金や赤い色の裸をさせた置物等でいづれもいやらしいもの計さ 久米や佐野がモザイツクのピンを買つたので漸く外に出る事が出来た 少し町を歩いて宿屋に帰つて昼飯を食ひ直に出る 今度は宿屋を出て西へ一番目の小さい橋を渡ると左手の岸に汽船の舟着場が有る 其処で其船に乗り込む 此の船は全く東京の一銭蒸気で此のヴエニスをS字形に切つて居る一番幅の広い水の処を通つて居るもので一人前二銭銅貨一枚だ 丁度美術館の前に船を寄せるから其処で下りて美術館に入る 一人前一仏 日曜ハ只だ そうして平日は十時から三時まで見せて日曜は十時から二時まで 小さな処だが今日は時間が少なく半分程見るともう三時だと番人に注意されてあとの室は馳け通りに見た 其能く見なかつた部分にマンスエチ ゼンチレ・ベリニ カルパチヨ等の作が有つた カナル・グランデ即ち大堀とでも云ふ可き川蒸気の通る処は此処の大通りで立派な建物は大抵皆此の堀のふちにあつて表口は皆堀の方を向ひて居る 古い建築で一寸名の有るもの丈でも大堀の左右の岸に百五十余も有ると云ふ事だ 大抵は皆ヲジヴ式のものだ 美術館の前から又汽船に乗りステーシヨンのそばまで行きそれから市中の細い道をあつちこつちと廻ハつて東京の日影町と云ふやうな賑かな通りで久米と佐野が髯をそらせた オレはシヤボン入を一つ買つた 又アリナリの出見世で写真を買つた 此処の往来は随分狭いものだ 今日見た内で一番見世の立派な人通りの多い通りでも傘をさした者が二人行違ふ時は傘が突き懸る ヴエニスで感心なのハ美人の多いのだ 先づ今度見た伊太利の諸市の内で一等だ シエナなどは兎ても兎ても 此処の女は帽子を冠らず広いシヨールの茶や鼠のを巻き付けて居る 又雨をよける為めか顔丈出して頭から掛けて居るのもある 一寸タナグラ人形と云ふ姿で悪くない 又此処の人間は割合に吾々を見て驚かない 随つて支那人とやられる事も少ない 七時頃に宿屋へ帰つた 今日は終日雨で閉口した しかし車の丸つきり無い処だから泥をはねかされる事もなく馬をよける世話も入らず気楽に散歩が出来る 部屋に火をたいて話をした 久米は早く寝て佐野と二人で珈琲や鉱泉を取り寄せて十二時過まで起て居た

1901(明治34) 年3月10日

 三月十日 日 雨 (欧洲出張日記) 今日も雨だ 十一時頃から出てパレー・ヂユカルを見てそれから又昨日見た美術館に行た パレ・ヂユカルの壁や天井の画はヴエロネーズ チシヤン チントレツト等の筆だ 中々立派なものではあるが皆油画だから黒々として光つて居てよく見へないのが多い どうも壁などにハこう云油画は余り適当しないやうだ 矢張フレスクに限る そうして此の人達の画は肉の色などはいかにも甘いがコンポジシヨンなどが少し芝居めいた処が有つて賎しいやうに思ハれる しかし就中ヴエロネーズが甘くペルスペクチーブをやつたのにハ驚く 又此のパレの中に昔の牢屋が有る 美術館でハ今度はよく昨日の見残しを見た カルパチヨの画などハ実にまじめに根よくかいたものだ 総てゞ九枚ある続きものでサント・ユルの物語がかいてある 美術館を出て帰りの汽船に乗る為めに舟着場ニ乗ると人が沢山溜つて居る 其内に傘もなく茶色の肩掛に体を包んで立つて居る十七八の美人が居た こんないい面の女は今度の旅行中でハ未だ見ない 丸でチシヤンか誰かの画の中から抜け出したやうな女だ 処で能く能く見ると重そうに頭の上に盛り上つて居る髪の毛にそれハそれハよくもこれ程に立派に育つたものかなと思ふ程こてと虱の玉子が附いて居た 之れにハ二度びつくりさ 二時に昼飯を食ふ 雨降だけれども三時頃から市中を散歩した 今日は日曜で大抵な見世ハしまつて居るので見るものもなく淋みしいから四時頃に宿屋に帰り手紙など書く 夜は又部屋に火をたいて日記附けなどやつた 佐野は十一時頃に寝て仕舞つて久米と二人で起て居た 十二時半頃に床に入る 今夜十一時半頃からますます雨が強くなり風も加ハり雷も鳴り出し十二時少し前には海の上に稲光が三ツ四つ烈しく光た

1901(明治34) 年3月11日

 三月十一日 月 朝晴 午後曇 ヴエロナ (欧洲出張日記) もう八時だ起きろ 天気がいゝぜと云ハれて目をさまし窓の処に行て見ると成る程海の上から前の島へかけて霞がかゝつて薄ぼんやりして居るが海面がきら付て浜辺の敷石の上に日が当つて居る 昨夜の雷で天気を一変さしたものと見へる 被物を被 珈琲を飲み外へ出ると道路は未だ濡れて居るけれども日がなまぬくゝて気持がいい 今日は此処を立つてヴエロナを過ぎ墺国の方へ這入る積だからサン・マルコ寺の横手のクツクの会社に行て金を換又町で写真用のフヰルム紙を買つて来た 十時頃に宿屋を出てゴンドル船に乗つて有名なポン・デ・スーピル(溜息橋)の下を通り曲りくねつてカナル・グランデに出てステーシヨン前まで来た お別に途中で度々写真を写した 飯の為めにキヤンチーの葡萄酒 チンヤチヤノの鉱泉 パンに鶏肉等を気車に乗せた 十一時三十分に気車が出た ヴエニスを大陸に繋いで居る鉄道の石橋は中々長い 通るのに五分かゝつた 昼過から又曇つて来た ヴエロナに三時四十分に着く 乗換の気車が来るまで一時間程有るから市中の見物に出懸く 此の時にハぼつぼつ雨が降つた ヴエロナはアヂジユ河に沿ふた七万三千人の町だから可也繁昌だ シエナなどより遥かに活気が有るやうに見へた 案内書に曰ク(中略) 彼のヴエニス画派中で有名なヴエロネーズ(Le Véronése/ Paolo. Caliari, 1528-1588)は此のヴエロナの生まれだ 又セイキスピア Shakespeare の作のロメオ ジユリエツトの小説は此処で実際有つたと云ふ Juliette Capulet と Roméo Montaigue との事を書いたもので此の著述によつても此のヴエロナは人に知られて居る ヴエロナを出たのは四時五十分で五時半頃から絶壁幾十丈と云ふ山の谷間に差かゝつて来た 此辺は羅馬時代から街道のあるところといふ事 こう云ふ景色は日本などで兎ても見られない 六時四十分にアラといふ税関のある処に着く こゝからは言葉も何もかも総て伊太利風は無くなつて仕舞ふ 今夜は墺国チロル州ボゼンといふ処に泊る

1901(明治34) 年

 三月十一日(続) 伊太利の見物はいよいよ済だ 伊太利ではむづかしく云へば美術研究平らく云へバいゝ画などを見て歩いたのだ サテ是れからハ全く目的が別だ もう只呑気に風俗や景色を見て行く 困た事には路銀が残り少なに為つたから窮屈な事もあるだらうが併し其位の事ハ仕方がないとしなけれバならない 伊と墺との国境の税関の調も無事に済んでボゼンに着いたのは九時二十五分だ アゝ今日は誠にひだるい思ひをした 昼飯はヴエニスのステーシヨンで買つた少し許の鶏の冷肉でパンをかぢりキヤンチ酒とチンチヤノの水でのどをしめしてごまかして置きヴエロナのステーシヨンで珈琲を一杯飲だ丈で夜の九時半までぶつこ抜は少々閉口した 今夜の宿屋はステーシヨン前の大きな家でホテル・ヴヰクトリヤといふのだ 同じ気車で来た米国の女連が七八人皆此処に泊る 其外三四人吾々までで都合十四五人の客が一緒に押懸けたから宿屋の亭主部屋の割付方に大騒をやつた しかし先づ仕合にいゝ部屋に入れて呉れて安心した ボーイに仏語のわかる奴が居て何の不都合もなし 此処は山の中で随分寒い処と見へて窓にハ二重のガラス戸が有り又大きな部屋は入口の戸も二重に為つて居る ストーブは焼物を重ねて四角に造つてある このストーブは中々暖かいそうだが今夜は左程に寒くもないから火はたかず

1901(明治34) 年3月12日

 三月十二日 火 朝晴 正午雪後雨又雪 夜みぞれ ボウゼン (欧洲出張日記) 七時にボーイが戸をたゝいて呉れたから直に飛起きた 窓の幕を上げて見ると山の重なつて居る間に人家が有る 山には半腹より上には薄く雪が見へる 又人家はポツポツ殆んど絶頂まである 八時四十五分に気車が出た 米国の婦人連も此の気車に乗る 気車は未だこれから段々山を登つて行く 片側の山には日が当つて片側ニは霞がかゝつて未だ夜がはつきり明けないといふ姿だ 谷川に沿ふて行く時も有り人家を幾尋といふ下に見て走る時もある 十一時過にブレンネールと云ふ村を過ぎたが此辺が絶頂と見へる 此処から少しづゝ下りに為つたやうだ 又此辺は雪降で山も谷も真白く為つて居る 此の辺の山に生へて居る樹木はパン サパン シエーヌ ブーローの四種が主なものだ 山を下れバ次第に雪はなくなる 十二時四十五分にインスブルグに着いた 此辺にはもう全く雪はない 此処のステーシヨン内の食堂で出来合の飯を食ふ 一人前酒附で一クーロン半なり 一時十二分に此のステーシヨンを出て墺独の国境リンスタインに着いたのは二時四十五分 荷物の検査が済で三時五分に此処を発し五時五分にミユンヘンに着いた 直にステーシヨン前のホテル・ドルーロツプと云ふのに這入る 此の宿屋では門番 ボウイ長 食堂のボーイ等仏語をやる 此処でハ昼めしはスーペと名づけて二た品位で止める 丁度仏国風とは逆だ 全体此処の風で行けバ今晩は即ちスーペをやつた 二た品位で我慢をして置かなけれバならないのだがいかにも腹がへつて居るからわざわざヂネーを命じて食た 又此処の名物のビールを飲んで見たがさすがに有名なもの丈あつて甘い 一口たつた時にハ麦の香か知らないが一寸蜂蜜のやうな香がプーンとする 味も普通ビールといふものゝやうに苦くない 巴里のカルチエ・ラタンのミユンヘン・ビールなどといふものハ丸つ切り此の味ぢやない 今日は丁度いゝ処に着いた 此のバヴアリヤ国王の八十の賀の祝とかで白と浅黄と縦に合はした細長い褌的の旗をぶら下げるやら日本のお正月のやうに松を木戸口に立てるやら其他店先きに王様の石膏像を飾つた内も有れバ二階の窓の前に油画の御肖像を出した家もあり色々に意匠を凝らして一軒毎の装飾がしてある 今日着いた時は雪がパラパラ降て居たが食後に外へ出ると今度はみぞれだ こんな天気でも平気なものだ 傘もさゝないでぞろぞろ人が通つて居る 市庁か何かの前でハ音楽をやつて居り又赤や青の火をもやしたりして居るものだから此の辺へ皆人が押懸けて其賑ハひは花時の円山どころでハない しかし浮かれて飛び廻るやうな酔パライも居ず又巡査などが馳けあるいて大声だして人を制するといふやうな事もさつぱり見受けなかつた 只縁日流に人がぞろぞろ歩いて居るが此国の人は一体に極おとなしいと見へる 人の衣服は巴里の流行といふやうなのは極稀で大抵はいかにも田舎平らしい様子をしてをる 萌黄羅紗の少し頂がすぼまつて居て後に羽の差してある帽子を冠つて居る男を沢山見た シルクハツトの者は百人に一人あるかなしだ 丸帽の者もたんとはない 大抵ハ柔かい帽子だ 学校通の小児等には毛糸の帽子が多い 別嬪は至て少ない 犬は必ず金網を面にはめて居る

1901(明治34) 年3月13日

 三月十三日 水 晴 ミユンヘン (欧洲出張日記) 仕合にいゝ天気だ 電鉄に乗つて河の近くまで行き川向ふのマキシミリヤネオムといふ大きな宮殿を見に行たがしまつて居て中を見る事は出来なかつた 中々いゝ位置の処に建てゝある家だ 又電鉄で一と廻りやつてクリプトテクといふ希臘の彫刻物の集めてある処を見た 又其真前の家で今セセツシヨン(コンプレシヨニスト)の展覧会が開会中だからそれも序に見た 夫れから宿屋へ帰つて土地風にヂネーをやつた 食後にはぼつぼつ歩いてバウヱリアと名くるつまり此の国を代表して居る女の其全身は三丈余もあらうかと思ハれる大きな銅像のある処まで行く 其銅像の立つて居る処の前は周囲一里もあらうかと思ハれる広い練兵場の様な原だ さすがに独逸は当時日の出の大国だ 伊太利亜などでは只古いものを種にしてお客を取つて居ると云姿であんなに立派な美術品を沢山持て居ても其れを見て利益を得るのは外国人で自分の方では只番人をして居るに過ないで一向大家を出さない 先づ美術のなんのかのと云事はさて置き伊太利亜の方には総て活気がない 羅馬では大きい裁判所などを造りかけてハ居るが何をして居るのだか殆んど中止の体でぐづぐづして居る 又フロランス其他の市でハ只の住居でも造りかけて居るやうな家は丸で見かけなかつた それに反して此処ではどしどし新築して居る 町はますます広くなり立派になる 又今見た大仏でも作としてハ或ハ伊太利古代の一小品にも及ないかも知れないがそれハそれあれハあれで兎ニ角こんなでか物をこしらへるといふ元気が面白いぢやないか 此のミユンヘンは美術は中々進だ処だといふ事だ 彫刻絵画等の為めに立派な陳列館などが有るが其元をたづぬれバ先代の国王が美術好で自分の楽の為めに千八百年の始頃世間は戦などでがやがややかましくやつて居る間のいろいろいゝものを買ては集めたのがそもそもの始まりであるそうだ 早く日本もせめて此位までにハ漕ぎ着けたいものだ 吾々には王様の金力はないが同志の者が十四五人もあるしやつゝけやうと云ふ熱心が有るからナ 併し実際のところ上に有力の人が居て奨励して呉れなけれバ進みが悪い事ハ知れた事だ 今夜はスーペーをやつた 後九時頃から久米と二人で市中へ散歩に行たがもうお祝も済だのだし此の地の習慣と見へて見世は大抵閉て仕舞つて淋みしく昨夜とハ大層な違だ 此のミユンヘンで他の国と少しく異なつて居るものが今一つ気に付いた それハ女を労動に使つて居る事だ 家の建築をやつて居る処で煉瓦積の手伝に女が仕事をして居た 又往来の掃除や電鉄の線路掃除の役は皆女だ 是等の女は皆一様に帽子を頂て居る 萌黄色の極平たい羅紗の帽子だ

1901(明治34) 年3月14日

 三月十四日 木 晴 ウルツブルヒ (欧洲出張日記) 今日も天気がいゝ ヴエニスに居る時にこう云ふ日が一日あつたならバさぞ愉快であつたらうにと思ふヨ 市中を廻る電鉄を利用して古画の陳列館と新画の陳列館とを見に行た 此の二つの建物は広いゆつくりとした場所に往来を中にして隣り合つて居る 又此処でハ伊太利と異つて入場料を取らない いづれも陳列の仕方は整頓して居る 古画の方などハ国分けに為つて居て見易い アルベール・ヂユレールの画など中々いゝのが有る 外国のものではフランドル派 オランダ派等のものが多い 就中フランドルのリユベンスの画などはよく集めたものだ 肖像などの実に達者にかいて有るのなどを見た 原田君はこんな画に対してハどんな考を持つて居つたか知らん 新らしい方の画は実に沢山陳列してある 去年の巴里の博覧会に出品してあつた画もあつた 宿屋に帰つてヂネーを済ませ四時五分の汽車に乗つてウルツブルヒに向ふ 途中右側に極静な小さき流などあつて気持のいゝ景色の処あり 夕方に為つて川のふちにある小さい古びた村に霞がかゝつて人家から白い煙が立ちのぼる姿はいかにも民のかまどハ賑にけりだ 八時二十五分にウルツブルヒに着く 宿屋をホテル・スウヰンと極めて出迎の馬車に乗る 此時此の同じ馬車に乗込んだ年の頃三十四五の髯の生へた立派な男子不図話し掛けると此男ハ仏人でボルドウの酒屋で商用の為めに此処に来たのだ 此のウルツブルヒには数年前独逸語の稽古の為めに来て居て今夜泊る事としたホテル・スウヰンに一ケ年間滞在して居たそうだ 又段々話に蔓が出て東京の仏国公使館のアンドレ氏の妻に為つた婦人は此の人の妻の友達だなど話をした アンドレ氏は私もよく知つて居ると云つたらアヽどうも世界は狭いものですねと云ふ事であつた 此人と一緒に宿屋に這入つて万事都合よし 又宿屋の主人もボーイもどうやらこうやら仏語を解するので不自由はない こんな片田舎でさへ仏語を解する奴が居るのだからもう大抵な処でハさしたる難儀はあるまいと思ハれる 部屋の窓は川の方へ向ひて附いて居る 外の景色は暗くして分らないが向岸の瓦斯灯のあかりが水にうつつてきれいだ 今夜は寝床に流の音が聞えて愉快だ これで千鳥の声さへすれバ木屋町に泊つて居るのと同じだ

1901(明治34) 年3月15日

 三月十五日 金 曇 ライン河 (欧洲出張日記) 今日は朝早く立つので七時に起きた 早速窓掛をかゝげて外を見ると川霧が立込めて景色は未だぼんやりして居るが向岸に高く中世の城の如きものが見へるなどいかにも古風で面白い 昨夜の仏人に別れの印として名札を一枚残し置て立つ 九時十八分の汽車に乗る ライン河畔のマインツ(仏語にてマクヤンス)へ着いたのは十二時四十九分であつた 此処で気車を乗換るのだ 時間が有るから早速ステーシヨン内の食堂で昼飯をやらかし直に馬車を雇つて市中見物に出かけた 馬車屋が如才なく先づ博物館に案内した 一人前五十フエニヒで這入る 此の博物館には古器物は勿論絵画も彫刻も一寸一と通り備ハつて居るがさつぱり縦覧者はないと見へて吾々が見て行けバ至て不景気な老人の番人が先きに立つて窓掛けを開いて廻ハるなどなんだか番人に気の毒なやうだつたから少し許の心附けをやる事と為つた 番人は二人で古器物の部に一人美術の部に一人居る丈だ 此処を出てから馬車屋が川のふちへ引張て行た 此辺のライン河畔の景色は巴里の近在で云へばウヰルヌーヴ サンシヨルジユ辺の如く平たい 又市中へ這入つてお寺の前で馬車を停めやうとしたがもうお寺などを見る暇がないからバンホツフと云つて直にステーシヨンへいそがした 二時五十分に気車が出た これからは彼の有名なライン河の景色だ 先づ第一に右手の川向ふの山に大きな銅像が立つて居る これは普仏戦争の時の紀念碑で仏国の方を向ひて立つて居る 遠方だからよくは分らないが軍神とでも云ふべきものか女の如きものが真中にあつて左右に低くほかの人物がついて居るらしい 仏人が見たらいかにも面にくい銅像であるだらう サア来るなら来て見ろと云ハぬ計のものに見へる 直く其少し先きの岩の上に古い城のくづれたのがある これハ千七百年代に仏人がぶちこわしたのだそうだ これから川の右左に処々に古城が有り又川の中の岩の上に築いた城も有る 中世時代に小さい大名が小ぜり合をやつて居た時分の様子が目の前に見へる様に思ハれる こう云歴史的の想像を丸つきり取り除けて仕舞つて単に風景といふ事丈から云へバ日本の瀬戸内の方がましかも知れないが瀬戸内にハ歴史はあつても歴史を思ひ出させて人にいろいろな想像を起させるのに便利な建築物など即ち歴史的人物の手で出来たものが少しも見へず只天然一天張だから割合に面白く感ずる事が少ない サテ此のライン河畔の古城は大抵皆川に向いた方の左も嶮ハしい岩崖の上に造つてある 岩山の内でも昔し化物が出たといふ名代の処などハ唐山水にでもありそうな形をして居る こう云マアどつちかと云へバ余りきびのよくないいくらかすごみのある景色を見るのにハ今日の天気は至極妙であつた なぜなら朝の内に少し許太陽が面を出しかけたがズーツと其儘曇で仕舞つた 此の中世のいかめしい建築物の残つて居る崖と又其次の岩との間などにいかにも佳よさそうな村の様なものがいくらもあつた 又処によつてハしやれた別荘などの並んで居るのも有る 又切角の此のライン河のいゝ景色の邪魔になるものは引船をして居る川蒸気だ 石炭の黒煙をポツポと吹いていくらも通るのだ いかニも殺風景だ 西洋人がやゝもすると日本の事を評して日本が西洋の真似をしてどうだのこうだのといふがなる程一理ないではない 日本は矢張日本の昔の儘で居た方が見物人にハ面白いに違ないがそうは行かぬ そんなことをして居れバ日本はだめに為つて仕舞ふ 丁度此のライン河の景色の邪魔になるから川蒸気をやめろといふやうなものだ 見物人ハ見物人で又其土地の者は土地の者で考を別々にしなけれバいけない 日本などでも見物人の云ふ事をうつかり聴くととんだ目に逢ふぞ 今日はオレは見物人としてライン河の川蒸気を攻撃する 五時五十分にコローニユに着いてパレスト・ホテルといふのに泊る 夜市中を散歩した 此処はそう早く見世をしめないから賑やかであつた 十二時頃にねる

1901(明治34) 年3月16日

 三月十六日 土 コロニユ (欧洲出張日記) 九時起 ドム見物 ミユゼも見る 一時食事 五時四十四分発 八時十分 Vervier 着 税関 ブリユクセル十一時着(十時五分ベルギーの時間)

1901(明治34) 年3月18日

 三月十八日 月 雨 (欧洲出張日記) 久 佐和蘭陀へ十時過の気車で立つ ヴアンハルトラン方へ荷物を置き公使館 ウヰツマンを訪問す 和郎の家で昼めし後ミユゼ・モデルスを見る リーブル・エステヂツクスも入る

1901(明治34) 年3月19日

 三月十九日 火 雨 (欧洲出張日記) 朝Edの案内で美術学校を見る 午後三時ウヰツマンを訪 五時半頃Edト英婦人を訪 Ed方にて夜食後又美術学校 後Edの妻及妻の妹と十一時頃まで話 Ed帰り一時過まで話

1901(明治34) 年3月20日

 三時二十日 水 雨 (欧洲出張日記) 朝府庁 昔時の政庁を見 午後公使館 ヴアン・デル・スタペン氏をウヰツマンと共にたづねウヰ方にて夜食 十二時十五分頃帰り一時頃までEdと話

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