本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年3月4日

 三月四日 月 フロランス (欧洲出張日記) 今日は天気がいゝ 八時半頃に起きて十時頃から出かけて先づヅオモ寺に行た 此の寺の方へは段々町が高く為つて居てヅオモの後は小さい公園のやうなもので石の腰掛などが並べてある 其処から先きハ崖下で畠だ 其崖の上から眺めた景色は周囲に山が見へ山の頂に少しく雪のあるのなどもあり又山の形が京都の西山のやうだ 仮りに此の公園を円山とすれバ殆んど京都のながめのやうだ 只下に鴨川の流がないのと市街の代に一面の畑と云ふの丈が変つて居る 此のアレツゾは一万二三千の人口でオルヴヰエトやシエナの様に古代の風が少ない 人家もステーシヨン近所又大通辺は大抵今時風に立てゝステーシヨンから町の方へ出る通などは大道と車道とちやアんと別けてあつて又其通りの中程一つの辻が有り其処にハギイド・モナコといふ坊さんの像が立つて居る 此の像は千八百八十一年今からたつた二十年前に出来たのだから新らしいものだ 此の辻の辺から町の方を見ると両側は新形の大きな家で突当りハ小高くなつて其処には古い家が重なつて見へる ギイド・モナコは此処の人で千年近い人だが此の人が音楽の譜の発明者だといふ事だ 此のほかにアレツゾで大分有名な人が生れた 詩人のペトラルクも此処の生れだ 又画家の伝を書いて残したヴアザリも此処の人だ ヅオモ寺は千二三百年頃の建築だが前面は出来上らずに仕舞つたものと見へて飾もなニもないが内部ハそうでない ウヰトロウなどハ見事だ サクリスチの入口の左手の壁にピエロ・デラ・フランチエスカ筆のサント・マドレイヌと称する一人の女の立て居る図が有る よく出来て居る サクリスチの内にハシニヨレリの小さい下絵のやうな額が幾枚も有る ピエロ・デラ・フランチエスカといふ画家の名は余り世間によく知られて居ないが中々以て甘いものだ 此の人の作で実に驚く可き立派なものが此のアレツゾに在る それハサン・フランチエスコ寺の壁画だ フランチエスカは生年月ハよく知れない 大抵千四百十六年頃で死んだのは千四百九十二年だ サン・フランチエスコ寺は千三百年代のもので直宿屋の隣だ 少し横にひん曲つて此儘にして置けバもう長い寿命はない寺だ 壁画も随つて悪くなつて居る処が多い 惜しいものだ 其フランチエスカの壁画はアダム イブの墓の上に二本の木が生へて其木が遂に耶蘇の十字架に為るとか何とか妙な意味の昔話を其儘画にしたのだ 人物のかき方など此の時代の人にハ類の無い程甘いものだ 空の色 雲の調子 又樹木 流れ等今の風景画の専門家にも兎ても此の位にハかけまいと思ハれる位に心地のいゝ色が出て居る 此のほかにハもう大して見るものもなく又こんないゝ画を見れバもう沢山だから一時二十分の気車で立つた フロランスへ着いたのは二時四十五分だつた 此の頃乗る気車は時間表通りにきちんきちんと発着する 伊太利だつて後れる気車計は無いと見へる アレツゾ フロランス間は実に景色がいゝ 特にフロランスへ向つて右手にハ谷有り川有り山有りで又其等の位置が甘く出来て居る 佐野とオレは持つて来たコダツクを抱えて窓の前に殆んど立つきりでフロランス迄来た フロランスの宿屋はホテル・ポルタロツサと云ふのにした 市の中央部のヴヰア・ポルタロツサといふのに在る 未だ今日は早いから宿屋に着いて部屋を極めて直にサンタ・クロチエといふ寺を見に行た 此の寺はフロランスでのパンテオンにて有名な人の墓や記念碑が有る 何しろ只の寺で墓と云ても坊主の墓などと似て居るから壮厳な事はない ミケランジユやマキヤヴヘルなどの墓が有る ミケランジユの墓と云ふのは羅馬でも見たが羅馬のよりは此処に在るものゝ方がいくらか体裁がいゝ しかしあゝ云大家の墓としてハどうも尋常過て物足らぬ心地がする 全体ミケランジユは千五百六十四年に羅馬で死んだのだから羅馬の方のが本当の墓で此処のは紀念碑とでも云ふ可きものか 或ハ又此処のが本当なのか 此の寺にあるジヨツト筆の壁画はいかにも少し繕ひすぎたやうに見へける けれども面白い 夜食後月見がてらアルノ河畔を散歩した

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