本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年3月8日

 三月八日 金 雨 アペナン山 (欧洲出張日記) 今日も雨だ 十一時前に出て先づ国立美術館を見た 雨はますます強く降つて来るしそれに今日は三時の汽車で立つ筈だからぐづぐづしてハ居られず 久米指令官が大憤発で馬車で馳け廻る事に極めてミケランジユの旧宅 ペルジノの壁画 ヅオモ寺の古物保存所等を見て一時頃に宿屋に帰つた 先づフロランスで見たものはこれ丈だ 此の見た処に就て一々委しく書く日には大変だから只感心したものを摘んで記るす 羅馬ではラフアエルとミケランジユのヴアチカンにある大作が何と云ても見ものだ 此処ではあゝ云ふかたまつた大作は少ないが随分いろいろな画家の作が集まつて居る ギルランダヨのサンタ・マリヤ・ノヴエラの壁画は結構な品だ 此の人の壁画はサンタ・トリニタ オニサンチ ターバン・ド・サン・マルコ等にもあるがサンタ・マリヤ・ノヴエラのが一等だ ボチチエリの画には大作と云ふ程のものは見へなかつたが此の人の作は処々に沢山有る 美術学校内にある春と題するものなどハ尤も面白いものだ ウフヰジ美術館でフランチエスカ筆の実に甘く出来た女の肖像を一枚見た 極小さな画だ ピツチ美術館の方は家の姿は外から見た処は大柄で気持ちいゝ 又上つて行く階子段の処などは好だ 画はウフヰジより少ない チシアン チントレツト等の作が主だ ベノゾゴゾリの立派な壁画が市庁にある フロランスの彫刻物ではドナテロ ロビア ミケランジユが主で此の三人の作品は沢山有る ドナテロの有名なサン・ジヤン等は国立美術館で見た ロビアの作で尤もいゝのはヅオモ寺の古物保存所に在る説教台の周囲の彫刻だ ミケランジユのでハどうしてもメヂシスの墓の右に出るものは鮮ない 委しい事は久米が日記に付けたから忘れたら久米にたづねる事としてをく 昼めしを食て仕舞つて少し時間が有るので久米が写真を買ひに出た 其内にもう立つ時が来たが久米は帰つて来ず そうこうして居る内に漸く帰つて来て大騒ぎして机の上などへ少し散らばつて居る品物を片附け払をして宿屋の馬車に乗つた ステーシヨンでは大層な人ごみで気車の室内の席を取るのにハ一と通りならぬ混雑だつたがあつちこつちへ乗つて仕舞にゆつくりした相客はたつた一人丈しきや居ない処を見付けた さすがいゝといふ評判のフロランスの近郊も今日の雨では一向に面白く見へない 一時間程馳せて気車はアツペンナンの山登を始めた 此辺から少し雪の有る山が見へて景色がよくなる 山にかゝつてから二十分許もたつ内に雨がみぞれとなり遂に雪と為り地に雪が少し積で来た つまり気車が段々山の高い処へ登つて雪の有る部分へ進んだのだ 四時半少し過に山中の一つのステーシヨンに着いた 此辺は本当の雪降で二三寸も積で居り木も屋根も一面に白くなつて居る 先づ一寸箱根の山北駅に湯本宿を一緒にしたやうな具合の処で谷川に沿ふて村が有る 此の川はもうアドリヤチツク海の方へ向つて流れる 少しく山を下れバ雪は全くなく為つてもとの雨降だ 今通つて来た山には一面にシエーヌのやうな樹が植付けてある 薪にするものらしい 山を下れば樹木も少しく向ふ側に異つて居る フランスに多いプープリエ樹なども沢山見へるし又フランスでサパンと云ふ枝の長く延びる桧のやうな木も処々にある 其内に夜が入つてボロニアに着き乗り換へて此処を出たのが六時半 ボロニアで買つた弁当を気車の中で食ひ十一時にヴエニスに着いた 宿屋をホテル・ダングルテールと極めて其の宿屋の客引の世話でゴンドラに乗り込だ 此のヴエニスには馬車が一台もない 此のゴンドラといふ細長い舳と舮とがピーンとはねくり上つて居る川船が車の代をして居る 其船を漕ぐのには普通の欧羅巴風と異つて立つてこぐ 支那人が船をこぐのと其ざまが似て居る 始めは少し広い処を行くやうだつたが中途から細い川に這入つてあつちこつちと廻ハつて仕舞に港のやうな処に出て其処の右手の波止場のやうな先づ横浜のグランド・ホテルの前とでも云ひそうな処に舟をつけた 吾々の這入る宿屋は直其舟をつけたところの前だ 此辺が此のヴエニスでは一等の場処らしい 宿屋はエマニユエル王の銅像の大きなのが建ててある処の前だ 此の宿屋に着いた時にハ早十二時過に為つたが腹がへつて居るからチヨコレートを云ひ付けて飲だ 今夜ヴエニスに近寄つてから雨が止んだがゴンドラに乗込だ時にハおぼろ月夜に為つた 時が遅いから世間はシーンと静まつて船は水の上をすべつて行き艪で水をしやくる音丈が規則立つて聞えて一時は過去も現在も未来も忘れて何処に居るといふ事も考へず実にいゝ心地であつた 部屋に這入つて窓を開けて見れバ前は向ふに一と筋建物の有る陸が有つて大きな川の川口の湖水のやうに見へる 此の景色をぼんやりした光の無い月が照して居る

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