本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年3月11日

 三月十一日 月 朝晴 午後曇 ヴエロナ (欧洲出張日記) もう八時だ起きろ 天気がいゝぜと云ハれて目をさまし窓の処に行て見ると成る程海の上から前の島へかけて霞がかゝつて薄ぼんやりして居るが海面がきら付て浜辺の敷石の上に日が当つて居る 昨夜の雷で天気を一変さしたものと見へる 被物を被 珈琲を飲み外へ出ると道路は未だ濡れて居るけれども日がなまぬくゝて気持がいい 今日は此処を立つてヴエロナを過ぎ墺国の方へ這入る積だからサン・マルコ寺の横手のクツクの会社に行て金を換又町で写真用のフヰルム紙を買つて来た 十時頃に宿屋を出てゴンドル船に乗つて有名なポン・デ・スーピル(溜息橋)の下を通り曲りくねつてカナル・グランデに出てステーシヨン前まで来た お別に途中で度々写真を写した 飯の為めにキヤンチーの葡萄酒 チンヤチヤノの鉱泉 パンに鶏肉等を気車に乗せた 十一時三十分に気車が出た ヴエニスを大陸に繋いで居る鉄道の石橋は中々長い 通るのに五分かゝつた 昼過から又曇つて来た ヴエロナに三時四十分に着く 乗換の気車が来るまで一時間程有るから市中の見物に出懸く 此の時にハぼつぼつ雨が降つた ヴエロナはアヂジユ河に沿ふた七万三千人の町だから可也繁昌だ シエナなどより遥かに活気が有るやうに見へた 案内書に曰ク(中略) 彼のヴエニス画派中で有名なヴエロネーズ(Le Véronése/ Paolo. Caliari, 1528-1588)は此のヴエロナの生まれだ 又セイキスピア Shakespeare の作のロメオ ジユリエツトの小説は此処で実際有つたと云ふ Juliette Capulet と Roméo Montaigue との事を書いたもので此の著述によつても此のヴエロナは人に知られて居る ヴエロナを出たのは四時五十分で五時半頃から絶壁幾十丈と云ふ山の谷間に差かゝつて来た 此辺は羅馬時代から街道のあるところといふ事 こう云ふ景色は日本などで兎ても見られない 六時四十分にアラといふ税関のある処に着く こゝからは言葉も何もかも総て伊太利風は無くなつて仕舞ふ 今夜は墺国チロル州ボゼンといふ処に泊る

1901(明治34) 年

 三月十一日(続) 伊太利の見物はいよいよ済だ 伊太利ではむづかしく云へば美術研究平らく云へバいゝ画などを見て歩いたのだ サテ是れからハ全く目的が別だ もう只呑気に風俗や景色を見て行く 困た事には路銀が残り少なに為つたから窮屈な事もあるだらうが併し其位の事ハ仕方がないとしなけれバならない 伊と墺との国境の税関の調も無事に済んでボゼンに着いたのは九時二十五分だ アゝ今日は誠にひだるい思ひをした 昼飯はヴエニスのステーシヨンで買つた少し許の鶏の冷肉でパンをかぢりキヤンチ酒とチンチヤノの水でのどをしめしてごまかして置きヴエロナのステーシヨンで珈琲を一杯飲だ丈で夜の九時半までぶつこ抜は少々閉口した 今夜の宿屋はステーシヨン前の大きな家でホテル・ヴヰクトリヤといふのだ 同じ気車で来た米国の女連が七八人皆此処に泊る 其外三四人吾々までで都合十四五人の客が一緒に押懸けたから宿屋の亭主部屋の割付方に大騒をやつた しかし先づ仕合にいゝ部屋に入れて呉れて安心した ボーイに仏語のわかる奴が居て何の不都合もなし 此処は山の中で随分寒い処と見へて窓にハ二重のガラス戸が有り又大きな部屋は入口の戸も二重に為つて居る ストーブは焼物を重ねて四角に造つてある このストーブは中々暖かいそうだが今夜は左程に寒くもないから火はたかず

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