本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年2月10日

 二月十日 日 (欧洲出張日記) 朝モデル来 昼めしに中が其モデルを連れて来 久 中とモデル二人とオレと五人でアトリエでやり食後しばらく雑談 夕方再中が来 要談 六時過 Mme B の処に行 晩めしハ門前 中を訪 小林が居二人共内へ来る 久と三時まで話 今晩久 佐から電信来 ミランより

1901(明治34) 年2月11日

 二月十一日 月 (欧洲出張日記) 今日よりは画をかゝないから気楽で十時半頃までねる 十一時過 Camille 来る Cと久 中と四人でアトリエでめし 二時半頃から Lombard の処に要談に行く 帰りがけに Cook に寄つて切符を買ふ 中 久で味噌の汁などこしらへて小林はテンプラを持て来てくれた 女子理想美術学校の規則なるものが出来中々面白く四時にねる 午後中が部屋の片着をやつてくれた

1901(明治34) 年2月12日

 二月十二日 火 (欧洲出張日記) 今朝は久し振ニいゝ天気だつたが午後は曇つた 十一時頃に寝床を出 ぐづぐづして居つて一時過ニ煙草屋でめしを食ひ二時半頃に馬車を雇ひ先づ久米へ電信を出しサンゼルマン通で帽子を三十五仏で買ひ医師 Legoff の処へ行く 石川巌氏ニ出遇ふ 後サンミセルのシヤツ屋で腹巻のフラネルなど買ひ夫れより Cook へ行たが時間がをくれた 夜食ハ内で岡 久とやる 後中 和来る 今夜 中が手伝つてくれて少しく荷造をやる

1901(明治34) 年2月13日

 二月十三日 水 午後雪 夜寒し (欧洲出張日記) 朝十時頃馬車屋が来 十時半より銀行 Cook 等へ行き又買物などして帰る 午後荷造を為す 夕方より岡田 中丸等来 岡 中 久等と食事 夜和田と岡田□□□□□(原文不明)まで話 岡泊る 午後雪 夜寒し

1901(明治34) 年2月14日

 二月十四日 木 マーコン (欧洲出張日記) 中丸が七時過ニ来 珈琲などこしらへてくれた 九時半の気車に乗る 中が送つて来てくれた マーコンにて晩めし 十時過再マーコンを発す

1901(明治34) 年2月15日

 二月十五日 金 チユラン (欧洲出張日記) 今朝未明にモダーヌ駅で伊太利領に入るので手荷物の税関検査や汽車の乗換をする間に熱いシヨコラーを一杯飲んで暖まつたお蔭で伊太利の汽車に乗込んでから心持よく一と寝入りやつて目が覚めたのは七時過であつた 車室の水蒸気が窓の硝子に凍りついて真白になつたのを爪の先でガシガシやつて外をのそひて見ると前には雪の積んだ山が聳えてゐる まだスニイ山の近所か知らん そうすればチユランに着くには大分間があるからもう一ト息やらうと思ひ眠らうとして見たが股のあたりがイヤに寒むい様でねられず 其内に向ふに座つて居る仏人が話をし始めた 此男は肺病専門の医者でアレキタンドリヤ辺に招かれて行くのだそうだ 全体昨日の午前に巴里を立つ時に乗込んだ汽車は馬耳塞への直行列車であつたから一ト走りで午後三時過にはマーコンへ着いたが是からは真直に南へリヨンの方へ行つてしまうので伊太利へ行くには此処で他の汽車に乗換へなければならぬ 処が其汽車は夜に入らなければ来ないというので止むを得ず茲で下りて市中を見物に出かけた マーコンという地名は葡萄酒の名で随分おなじみになつてゐるが其土地を踏むのは始めてだ ひつそりした田舎の一都会なれどラマルチンの生地と聞けば床しく思はれる ソオヌと云ふ大きな河の両側にある町で停車場から川の方へ段々に下り坂になつて居る 川向ふは平地でそこにも町がある 川の手前は片側町でカツフエやホテルなどが軒を並べた処があるが何れも大いに不景気な様子に見受けた 其中の一つの宿屋にはいつた ホテル・ソーバージユといふので此ホテルの入口の左の一部は咖啡店になつてゐる 客も八九人許りゐた 皆商人らしい風体である 此咖啡店の一隅に陣取つて日本や巴里にやる手紙を書いて時を過す 晩飯も此宿屋の食堂でやつた ターブル・ドートで食事をするものは十七八人も居た これも皆商人連らしかつた 色々くだらない議論などしてゐるのを聞いて独りで別のターブルで食つた どうしてこう云連中は皆自分が一番物事を能く知つてゐて一番智慧のあるものだと人に見せてやろうという様に話をするのだろうか 妙なもんだ 九時半にチユラン行の汽車が出る筈だつたが三十分程後れて発車し其上モダーヌで又一時間ばかり手間を取つたからチユランへ着いたのは十時過だつた 尤も伊太利の時刻は巴里の時より五十五分丈進んでゐる 昨夜マーコンのステーシヨンから電信をかけて置いたから久米と佐野が迎に来て居た 一番先きに聞いたのは久米のミランの自慢さ ホテル・テルミニユスで一緒に昼飯を食べて直に三人でミユゼを見に行く 久米と佐野は既に一度見たのだそうだが是非もう一度行けといつてとうとう一緒に行く事と為つた 一つの博物館で古代部と絵画部との二つに別けてあつて一方の縦覧料が一人一フランだ 杖の代は取らない 是れは巴里とは全く反対だ 先づ絵画部には入る 間取りの具合は悪くないが陳列は雑ぜこぜで国別にも時代別にもなつて居ない 又非常な名画という程のものは少ない ボチチエリの画も三四枚ある ドナテロの石も一つ見当つた 尤も彫刻物は殆んどない 肖像のやうなものがあちこちに少し許りある丈だ 一寸面白いと思つたのはレムブラントの油画で小さな画だが年寄りが火にあたりながら何か考へて居るか居眠りをして居るかと云ふ体の図がある 是れは中々気持よく出来てゐるやうだ 珍らしいと思つたのは日本の工部大学校時分の画の教師であつたと云フオンタネジという人の画が二枚ある 二枚共人物入りの小さい風景だ 是等のものを見ると決して上手と云程のかきてゞは無かつたらしい 三時の汽車でゼノワへ立つ 伊太利の鉄道では仏蘭西や日本での様に何キロとか何貫目かまでは乗車券を見せて無代で手荷物を送るといふことが出来ないから一寸した物でも荷物として預けた日にはそれ丈の賃銭を払はせられるのである 又此国の汽車の時間の勘定は一風変つて居る 午前何時といふ事をやらないで午前の一時が第一時で昼の十二時までは其儘で午後一時は第十三時で十四 十五 十六時と二十四時までぶつこぬきに数へるから慣れないと一寸分らないでまごつく事がある

1901(明治34) 年2月18日

 二月十八日 月 リユック 雪 (欧洲出張日記) 九時五分の気車でリユックへ行き寺を三ツ見る 三時半ピサへ帰り六時頃ピサを立つ 夜一時十五分ローマ着 二時宿屋

1901(明治34) 年2月19日

 二月十九日 火 ローマ (欧洲出張日記) 十時半起る 食後一時頃外出 Villa Borghese を見る 帰路茶見世に寄り公使館へ行く チーブル河畔散歩 六時過帰る 夜食後芝居見物 十二時過帰る

1901(明治34) 年2月20日

 二月二十日 水 (欧洲出張日記) 九時半頃起る 朝めし後直ニシキスチーヌを見る 一時頃昼めし 又サンピエールを見る 公使館にて御馳走 十一時頃帰宿 二時にねる

1901(明治34) 年2月21日

 二月二十一日 木 晴 ナアプル (欧洲出張日記) 八時半頃佐野に起された 九時少過から見物に出かく カピトルを見 Conservatoir とサンタ・マリア・ドラ・ラコエリ寺を見る 一時四十分頃ナアプルへ立ツ 七時十分ナアプル着

1901(明治34) 年2月22日

 二月二十二日 金 曇 (欧洲出張日記) 十一時過起る 昼飯後ムゼオ・ナチオナレを見に行く ゆつくり見て四時ニ出 鉄道馬車で浜辺まで行く 帰りにも鉄道馬車に乗りパツサアジユで茶をのみ画端書を購ふてピアツア・デイ・マルチリにて写真を求め八時宿屋へ帰り夜食す 夜雨 方々へやる端書をかく 一時過ねる

1901(明治34) 年2月23日

 二月二十三日 土 ポンペイ (欧洲出張日記) 七時半頃に起されて八時頃に起る 馬車を雇ひ九時にポンペイへ出かく 十一時過着 ホテル・スイスにて昼食 十二時少し過より古市の見物をはじめ三時過終る 四時に帰途に就き六時過ナアプルの宿屋に帰着 夜食後市中を散歩す 髪を切り十一時前帰る 小説をよみ二時頃にねる

1901(明治34) 年2月24日

 二月二十四日 日 晴 (欧洲出張日記) 九時に起き荷ごしらへをして十時半頃から水族館を見る 又馬車でウヰルジルの墓へ行 後市中を馬車で廻る 三時十五分ローマへ立 八時四十分ローマ着 十二時半頃床に入る

1901(明治34) 年2月25日

 二月二十五日 月 晴 (欧洲出張日記) 朝九時に起十時頃から見物を始め先づパレ・フアルネジヌを見る 門番に一人前一仏を払つて入る 門の正面は植木の植てある一寸した庭で家は右手にある 門より玄関までは十間位のもの 四角な建物で千五百五年から十年までの間にラフアエルの下図に依つて或る建築師が建てたのだと云ふ事だ 玄関を這入つた処の広間の天井の画が見物だ アムールとプシケの話を絵にしたものだ 中々愉快なコンポジシヨンだ ラフアエルの下図で其門人等がかいたのハいゝが十七世紀の末に羅馬の画工のマラツタといふ男が手をいれたといふので色が重苦しく為つて居る処や又人物の主に腕や何かの形のまづい処などが有る 其次の部屋にハトリヨンフ・ド・ガラテといふ題の壁画が有る これは大部分ラフアエルの直筆で只右の一部が他の者の筆だそうだ 此の室の欄間に半円形の画が並んで居る これハペルセとメヂユーズの話でセバスチアン・デル・ピヨンボの筆だ 人物の逆落しに為つたのなどは半円にハ至極似合つたコンポジシヨンだ 総て空や雲の色がよく出来て居る 是等の画と並んで隅の方に非常に大きな頭が木炭でかいてあるが甚だ不似合なものだ 筆者はミケランジユだといふがどうだか 果してミケランジユならバミケランジユがかいたものを切つて此処に張り付けたもので此の室の為にかいたものではなからう 二階はしまつて居て見る事が出来なかつた 此処を出て直筋向ふのパレ・コルシニに入る 此の建物は今は政府のもので千八百九十八年以来絵画摺物の陳列館に為つて居るが元はコルシニ家の所有であつた 陳列所ハ二階で木戸銭は矢張一仏 又門番がいつぞやの大洪水の時にチーブルの水が此処まで上つたと云つて玄関の柱に筋の付けてあるのを見せてニコニコやりお金を頂く 此の図でハ何処のミユゼに行ても番人が或る一室の戸を開いて特別に見せてやるといふやうな風をして金をねだる 甚だしいのハ只其処に陳列してあるものを指さして分らない言葉で何んだか下らない説明をして帽子を取つてどうぞ一文といふ様子をして見せる こう云ふ具合で二銭三銭と一日にどの位せしめられるか知れない 此のミユゼハ各国の品がごつたまぜで大きなコンポジシヨンのものハ少ない 肖像 風景画等が主だ アンゼリコの筆でジユジユマンデルニエが真中で左右一面づつ三面一つの小さい額に這入つたものが有る 又オルベインの可也大きな至極丁寧な肖像画がある 夫れからサントノフリヨ寺に行く 此の寺は高見で日本での神社仏閣の位置のやうな処に有る 羅馬の北東を見晴すいかニもひつそりしたお寺らしい処だ 何処に門番が居るか分らないからズーツと中に這入つて見ると四角な中庭に出た 廻りの廊下の壁にハ古いフレスクが有る 其廊下の右の隅に鳴子が付て居たからそれを引たら戸を開いて白い被物をきた女が出た 薬の香がぷんぷんして居る ハテ此処は病院だと見へる 其女の指図で右手の壁にぶら下つて居る半鐘をギランと鳴らした やがて一人の坊主が廊下の左の隅から現ハれて案内を始めた 本堂にハペリユツヂにピンチユリキオのフレスクがある それから宿坊とでも云何き処に案内す これハ入口の右の手也 直に二階へ上り縁側の如き処に出る 其処の右手の壁の上に立派な画が有 耶蘇母子を一人の坊主の如き者が拝んで居る図で地は金色 レオナルドヴアンシがかいたものだ 実に落着いたいゝ画だ 惜い事にハ人物の指などは形が少しくづれて居るやうだ 少し進むと左手に部屋が二つある 室内には古い椅子や又古い書物や書附けの如きものが陳列してある 是等の物品ハトルコアドタアスが使つて居たもので千五百九十五年の四月二十五日にタアスが死んだのハ即ち此処だそうだ タアスの肖像も置てある 成る程今此の室に品物はいかにもタアスが使用したものニハ違なかろうが此の室などはタアスの死後今日までに随分いろいろな姿に改って只窓の位置や間取がもとの儘だらう 併し器具丈でも有名な人のものだと云て保存して其人の居たと云ふ場所に並べてこうして後世の者に見せるといふ事ハ実ニいゝ事だ 此処の王室でハ王が崩ぜらるれバ其王の住ハれた宮殿は生前の儘にして残して置て次の王は別な処に住ハれるといふ例だと聞たが王室などでハそうあつてしかるべしだ 国王はつまり其国の其時代の尤も立派な点を代表して居るものであり又室内の装飾などハ其持王の意匠を立派に代表するものだから各時代の王の宮殿或は居間を其儘保存して置くのハ後世の為中々いゝ参考になるだらうと思ハれる 一時頃に宿屋に帰り昼飯をすませて又出る 今度は方角をかへて東南の方へ行きミユゼ・ド・ラトランを始め隣のサン・ジヤン・ド・ラトラン寺 西北へ戻つてサン・クレマンテ寺 それよりコリゼへ出フオーロムの中をうろつき廻り夕方宿屋へ帰る ミユゼ・ド・ラトランは千五百年の後半期に出来た家でプロフアス部とクレチヤン部の二つに分けてある 今日はプロフアス部は閉てあるのでクレチヤン部丈見る 古代の石棺などが並べてある 又古画の室もある クリウエリ フヰリポ・リピ ベノゾ・ゴツゾリ等の宗教画が有るが総て画の数は少ない 又皆これハと云て肝をつぶす程のものでもない 一度見て通つたのでハあとになつてどんな画だつたらうかと思ひ出しにくい位のものだ それから新らしい糞の如き画の大きなのが沢山並べてある 是等の室ハ大またで通抜る 幸にして一枚も記憶に存せず サン・ジヤン・ド・ラトロン寺は千年程前に耶蘇教に帰依した羅馬帝のコンスタンタンが造らしたものでそれから修繕を加へるやら造足しをするやらで火事にも逢つたがどうやらこうやら今日まで持つて来た 本堂の石段を上り左手の隅に大きな石像があるがこれがコンスタンタン帝の像でこれハ後世テルム・ド・コンスタンタンの古跡から掘り出して此処に安置したものだと云ふ 本堂の中にハ一の柱の横にあるジヨツトの画位のものでこれぞと云ふ程のものハない 又宿坊の中庭を見る 周囲に立ち並んで居るモザイツクをはめ入んだねぢくれた柱は面白い 十三世紀にこしらへたものだ 尤も奇なものは四本の石の柱で持たした大理石の板があるがこれは耶蘇の身長を示したものだそうだ 地から石の板までが一メートル八十三 大きな男だなア 中庭の真中に井戸が有る 其井戸側は大理石に彫刻がしてある これがサマリタンの井戸の側だ 又此の寺にハ耶蘇が最後の食事した時のテーブルの板が有るそうだ もうそんなものは見なかつた 頼朝公御幼少の舎利頭的宝物だ サン・クレマンテ寺は小さい寺だが古い事に至てハ羅馬中屈指のものだ 今の寺はいつ出来たのだかはつきりは分らないが多分十二世紀頃のものだらうと云ふ事だ 此の寺の下に今一つ寺がある これが以前の寺で七百七十二年頃に修繕したといふ事が知れて居る丈で出来た年月は分らない 案内者が棒の先に蝋燭を付けて地の下へ這入つて古い寺を見せた 大きなトラベルタンで積み上げてあり大理石の立派な柱が並んで居る 又極ぶきつちよな宗教的の壁画が残つて居る 此の古い寺の奥に今一段下へ降る石段が有るけれども其石段の半まで水が来て居るので下にはどんなものが有るか知る事は出来ない サテ一番新らしい上部の寺には結構な壁画が有る マサチオの筆でサント・カトリヌの一代記だ サント・カトリヌがドクトル連と争論をして居る図など中々高尚だ フオロムはポンペイなどよりは無論大袈裟なものだ バジリツク・ド・コンスタンタンなどハ非常なもんであつたに違ない 何分にも皆ごてごてにこわれて居るから一寸見るのにハポンペイの方が面白味が有る 今掘出し方や修復やしきりにやつて居るからこれが古代の姿に略出来上った時にハ実に二つとないいゝ見物であるだらう 此処の見物料ハ一人一仏なり コリゼはフオロムの垣の外に有る 其広大な事ハ実に可驚だ 愉快な建物さ 夜風呂に入る 実に久し振だ 去年の七月の極始め馬耳塞港に着く前日に船中で風呂ニ這入つた以来今日まで風呂に入らず サテ這入つて見れバ決して悪い気持ぢやない(十二時少し過ねる)

1901(明治34) 年2月26日

 二月二十六日 火 晴れ (欧洲出張日記) 朝十時前に内を出て十二時半頃に帰つた 此の間に見たのハサンチ・アポストリ寺 ガレリヤ・ドリア サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴア パンテオン サンタゴスチノ サンタ・マリヤ・デラ・パアチエ也 午後見たのはサンタ・マリヤ・デル・ポポロ丈だ パレ・バルベリニにも行たが修繕中と云ふ事にて見る事が出来ず ポポロを見てからウキラ・ピンチヨといふ公園地を散歩した 音楽も有り馬車などで立派な人が沢山来て居た 此ハ羅馬のボワドブーロニユならん 音楽をきくのにハ皆馬車を止めさして其れに乗つた儘で聞て居る 随分不意気なり カツフエも一軒あるが甚だ不景気な吾々は其カッフエに立寄つて茶を飲だ 器物等至てぢゞむさし ピンチヨはナポレオン一世がこんな風にこしらへさした処だといふ 羅馬市の北の高台だから市一面を見下していい眺めだ 今日の見物は名家のお墓参りと云ふ如きものであつた 第一にサンチ・アポストリ寺でミケランジユの墓を見る 只の家で云へバ台所口とでも云ふべき路次の中に有つて誠にけち臭いなさけないものだ しかも彼程に立派なものをこしらへた彼程の大家にこんなつまらない墓をこしらへてやつたかと思へバ気之毒な感がする それからサンタ・マリヤ・ソプラ・ミネルヴアにハアンジエリコの墓がありパンテオンにはラフアエルの墓が有る ラフアエルは一番割がいゝ パンテオンに這入て居るのだから先づ申分はなからう 先頃弑せられた当国の王も此処に葬られて居る 王の墓にハ随分お参りに来る人が有る 憲兵が二人墓前に控へて居る 参詣人は其処に出して有る帳面に記名して行く ガレリア・ドリアは一つのパレーを陳列館に直したもので奇麗な家だ 一人一仏払つて見る 此処で一番名高いのは西班牙のヴエラスケス筆の法王イノサン十世の肖像だ 隅の小さな一室に大事にしてある 達者な筆だ 又ラフアエルの筆だと云ふ一面の額にバルトロとバルドと云二人の男の肖像がかいてあるのが有る ジヤヌダラゴンの肖像はルウヴルの画の写しだと云ふ説もあり 又此の画はラフアエルでなくレオナールドヴアンシだといふ説もある 何がなんだかはつきりハ分らないが兎に角女の顔もいゝし又画も面白い 目や口の具合でハレオナール風が有る 又此処で改めて見るせいか此の肖像の方がルーブルのよりよく出来てハ居ないかと思ハれる位だ 其他和蘭陀の画家の作も可也見へた サンタ・マリヤ・ソプラ・ミネルヴアはミネルヴアの社の跡に建てたもので十三世紀から十四世紀へかけて出来した寺だ 此の寺にハアンゼリコの墓の外にミケンランジユの作の耶蘇の像が有る 右の足に黄銅の沓がはかして又腰に黄銅の褌が巻き付けてある 之れ等は無論後世の仕事だ 足は信者がむやみに唇をおつ付けるので石がすり切れたからこう云ふ事にしたのだと云ふ 褌は丸裸でハ見苦しいと云ふ下らない考から来たのだろうが何にしろ此の褌と沓で大に見にくゝ為つて居る 尤も此の耶蘇はミケランジユが作りかけてフリツジといふ人が仕上げたものだそうだ パンテオンの建築は実に壮快なものだ 堂の前面に十六本の大理石の大きな柱を並べたのは尤も心地がいゝ 羅馬帝国時代の残り物としてハ甚だ貴い建物だ 今度羅馬で見た建物の内でオレは此のパンテオンが一番気に入つた サンタゴスチノにはラフアエルがミケランジユの真似をしてかいたといふプロフエト・イザユの図が有るがぼんやりなつて居てよくは分らず サンタ・マリヤ・デラ・パアチエにはラフアエルがチモテヲ・デラ・ウヰツテを手伝ハしてかいたといふシビル Sibylles の図が有 立派なものだ 其向ひ側にぺルツジ筆のサント・マリヤ サント・ビルジツト サント・カトリヌ及びカルヂナル・ポンゼツチが一緒に居る図が有る 之れも甘いものだ サンタ・マリヤ・デル・ポポロではピンチユリツキオの耶蘇降誕の図が尤も見物だ

1901(明治34) 年2月27日

 二月二十七日 水 晴 (欧洲出張日記) 毎日の晴天で仕合だ 今日は朝ミユゼ・ド・ヴアチカンを見 午後はミユゼ・ド・カピトル サンタ・マリヤ・マツヂヨレ寺及びヴヰラ・メヂシスを見る 此の前にヴアチカンでロージユ・ド・ラフアエルという方を見残したからそれと法王ニコラ五世の室といふのを見る積で行たが今日も閉て居る 見る事叶ハず 残念千万だ 併し其お蔭で再びゆつくりシヤプル・ド・ラフアエルの壁画を見る事が出来た ミユゼ・ド・ヴアチカンと称する彫刻品の陳列してある所はサン・ピエル寺を一と廻りして後の高い所に入口が有る 此処にハ有名なものが沢山有る事ハ云ハずと知れた事也 ミユゼ・ド・カピトルではウエニス・ド・カピトルが一番ほしい品だ 其後の寺のサンタ・マリア・イン・アラリは先達て一度見たが其時ピンチユリキオの画を見なかつたから今日わざわざ再び這入つたのだ サン・ピエトロ・イン・ウヰコリにはミケランジユ作の有名なモイズの大きな石像が有る サンタ・マリヤ・マツジヨーレ寺はサンタ・マリヤの為に建てた寺の内でハ一番大きい寺だ 此の寺はリベリユス一世と云ふ法王の時即ち三百五十二年に始めて出来たのだ 尤も其後段々改築して今日の姿に為つたのだ サンタ・マリがリベリユス一世の夢枕に立つて雪の有る処に寺を建立せよと云ふ事であつたそうだ 其時が丁度八月の五日であつたが不思議に此処に雪が積で居たので此の寺を建立したのだと云ふ昔話が残つて居る 堂内の両側に三十六本の大理石の柱が並んで居る様すばらしいものだ 極古いモザイツクの装飾もあるが図様などは高くしてよく分らず 柱の上に一列に金地に紺青の唐草の模様は格天井の具合などゝうつりが能くて立派だ 此の寺を出てからウヰラ・メヂシスへ行た 此のウヰラ・メヂシスは仏蘭西の所有で仏国の美術学校の留学生の寄留舍に為つて居る ピンチヨ公園の隣で高台で実にいゝ処だ 甘い処をせしめたものだ しばらく庭をぶらぶらした 夜食後八時半頃から町へ散歩に出た 西班牙の辻と云辺まで行て来た 此の羅馬市でハどんな処でも大層早く見世をしめる もう八時半か九時頃にハ開けて居るところは少ない 淋みしいものだ しかし大通丈にはぶら付て居る人はいくらか有るがこれとても僅かだ

1901(明治34) 年2月28日

 二月二十八日 木 晴 オルヴヰエト (欧洲出張日記) 今日も天気がいゝ 羅馬は今日限りだから公使館に暇乞に行て来て其帰りがけにミユゼ・コロナへ這入つた コロナ館は小さい所ではあるがいゝものもあるし又座敷はなかなか美くしい 這入つて直右手にあのミケランジユがほれてをつたと云ふ評判のウヰツトリア・コロナの肖像が有る 一番奥の座敷に最も古い画が陳列してある 其内でボチチエリのマドナの図 ルイニの耶蘇の家族の図 ジヤン・マビーズのリユクレス・ロメーヌの図等が面白い チシヤンの筆でオノフリオ・パンヴヰニオといふ坊主の肖像は其一つ手前の室にあるが上手なもんだ 中の大きな部屋にニコラ・プーツサンのベルジエ共が木蔭にねて居る図が有るが立派なコンポジシヨンで気持のいゝ絵だ 二時半の気車で羅馬を立つた 先日は羅馬の近在には雪が一杯積で居たが今日はもう少しもない あつちこつちに羊の群など見へる 此の辺は大抵牧場らしい 此の辺で一番多い木は高く真直く立つ木で葉は柳のやうで柳よりは一層大きな裏の白ろ白ろとした葉の木だ 羅馬やナアプルなどには落葉樹が少ないから公園地などに行て見ると冬のやうでハない 気車の中では久米公が天下の大勢を論じて伊太利亜は亡国であると云つて中々いゝ景気であつた 昼めしの葡萄酒大ニ与つて力ありだ 佐公は窓の外を覗込んでしきりに何か歌を歌つて居る オレは横の面に日がさしてあつたかくていゝ気持でとうとう眠て仕舞つた キウシといふ処で気車をのりかへた ラポラノなどといふ辺はいゝ景色だ 四時五十分頃オルヴヰエトに着いてヴヰア・ガリバルヂのホテル・トルヂといふのに宿を取る オルヴヰエトといふ処は岩崖の上に一郭を為して居る処で中世時代にハ中々に要害の地で有つて羅馬法王も度度此処に立て籠た事があつたそうだ つまり山上に築いた城だ ステーシヨン前から町迄フヰニキヨレールが有つて一直線に上る それから宿屋の馬車に乗つて行く 此処に来て客を待つて居たホテル・トルヂの馬車は面白い ナポレオン時代とでも云ふ可き極古ぼけたランドウで中に這入るとプーントかび臭い こう云お馬車に三人召されて御本陣へお乗込と云ふ次第さ 此の町ハ人口八千人許だと云ふ事で極ひつそりして居る 宿屋の亭主は髯も何ニも無い男でペロツとした奴だが仏語も分つて便利だ 食堂のボーイも一人でやつて居る 着いて直に町に見物に出て帰つて来て夜食を食た 隣のテーブルで米国人の六人連の女子達が食つて居る丈で其他にハ客は無い 今日などハ羅馬でハあんなに暖であつたが此処に来て見ると路傍に雪が積んで居て寒い 今日の吾々の部屋は客間の隣で其客間に亭主が火をたいて呉れたからねる時まで其処で話をした

1901(明治34) 年3月1日

 三月一日 金 シエナ (欧洲出張日記) 今日は照たり降たりのいやな天気だ 八時頃に起きて珈琲を飲むと直にサンタ・マリヤ寺を見る 此の寺は此のオルヴヰエト内で一番立派な建物で町の南端に在る 伊太利ゴチツク建築としてハ尤も注意す可きものだそうだ 此の寺ハ千三百年の始頃に工事に取りかゝり三百年間程かゝつて漸く出来したのだといふ事だ 白と黒の大理石でだんだらに積上げてある 前面の高い部分にはモザイツクが沢山使つてあり又低い部分にはバルリエフが附いて居る 其バルリエフも至て古いもので随分不恰好な人物もついて居るが面白いコンポジシヨンのもある 向つて右ハ地獄極楽 真中は耶蘇一代記 左は経典だ 堂内の窓の色が尤も面白い これハ薄いアルバアトル石がはめてあるのだ 画としての見物は右手のシヤツペルの天井と壁画だ 天井に二ケ処程アンゼリコがかいた処が有るが其他は皆シニヨレリの筆だ 古い人の事だから裸体人物の干物のやうな処が無いでハないが兎に角大作だ 左手の壁画の中にアンゼリコと自分の肖像がかき込である 寺の脇の横町の写真屋で今見て来た壁画の写真などを買つた 此の見世の神さん中々の愛嬌者で気持よく買物が出来た 宿屋に帰り荷ごしらへをしたが未だ昼めしまでに時間が有るから再び外へ出て城郭とも云ふ可き崖の上を廻つた 何れの方でもいゝ見晴らしだ 北の方にはポリアといふチーブル河に落る川がうねうねと流れて居る 西南の方には崖の下から引続いてオリヴヰエの林が有つて昔しの詩などにあるアルカヂーなどはこんなでハなからうかと思ハせるやうな景色だ 一時二十分発の気車に乗り込んで二時三十五分にキユーシという処で乗りかへて五時四十分にシエナに着いた 羅馬から此方へ来るに随ひ常盤木が少ない 常盤木としては杉のやうな箒形の黒い色の木が処々に見へる計だ 尤もオリヴヰエも常盤木であるが葉の色が白つぽい薄い緑色だから常盤木らしくハ見へない 此のシエナ近辺にハシエヌ樹も沢山見受た 不思議なのハ伊太利の松で日本の松とハ丸で大体の形が異つて居る 上に行て広がつて居る体裁は傘を開たやうだから此の松の林はもこもこして樫か何かゞ集まつて居るやうだ 下枝は皆払つて只上丈がのこしてある 此の松は此のシエナ附近にハ少ない 尤も多く見たのハゼノワとピザとの間だ シエナ辺は山が多い そうして村や何かは皆山の上に出来て居る 平地は耕してあるがうねの間に水の溜つて居るのを見れバ湿地に違ない キユシの近所に可也大きな水溜りが有る キユシではマラリヤ熱がよく流行すると云ふ事だがつまり湿けるからだろう 山や岡の上に四角なやうな家があつて其脇に例の箒形の黒い杉が五六本も立並んで居る景色などはよく古画に有る図柄だ 矢張伊太利の画を解するにハ伊太利の地に来なけれバいけない シエナではヴヰア・カブールといふ此処の銀座通とでも云ふ可き処にあるホテル・ド・アキラネラに泊ることと為つた 夜食後少しく市中を散歩した

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