本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年3月15日

 三月十五日 金 曇 ライン河 (欧洲出張日記) 今日は朝早く立つので七時に起きた 早速窓掛をかゝげて外を見ると川霧が立込めて景色は未だぼんやりして居るが向岸に高く中世の城の如きものが見へるなどいかにも古風で面白い 昨夜の仏人に別れの印として名札を一枚残し置て立つ 九時十八分の汽車に乗る ライン河畔のマインツ(仏語にてマクヤンス)へ着いたのは十二時四十九分であつた 此処で気車を乗換るのだ 時間が有るから早速ステーシヨン内の食堂で昼飯をやらかし直に馬車を雇つて市中見物に出かけた 馬車屋が如才なく先づ博物館に案内した 一人前五十フエニヒで這入る 此の博物館には古器物は勿論絵画も彫刻も一寸一と通り備ハつて居るがさつぱり縦覧者はないと見へて吾々が見て行けバ至て不景気な老人の番人が先きに立つて窓掛けを開いて廻ハるなどなんだか番人に気の毒なやうだつたから少し許の心附けをやる事と為つた 番人は二人で古器物の部に一人美術の部に一人居る丈だ 此処を出てから馬車屋が川のふちへ引張て行た 此辺のライン河畔の景色は巴里の近在で云へばウヰルヌーヴ サンシヨルジユ辺の如く平たい 又市中へ這入つてお寺の前で馬車を停めやうとしたがもうお寺などを見る暇がないからバンホツフと云つて直にステーシヨンへいそがした 二時五十分に気車が出た これからは彼の有名なライン河の景色だ 先づ第一に右手の川向ふの山に大きな銅像が立つて居る これは普仏戦争の時の紀念碑で仏国の方を向ひて立つて居る 遠方だからよくは分らないが軍神とでも云ふべきものか女の如きものが真中にあつて左右に低くほかの人物がついて居るらしい 仏人が見たらいかにも面にくい銅像であるだらう サア来るなら来て見ろと云ハぬ計のものに見へる 直く其少し先きの岩の上に古い城のくづれたのがある これハ千七百年代に仏人がぶちこわしたのだそうだ これから川の右左に処々に古城が有り又川の中の岩の上に築いた城も有る 中世時代に小さい大名が小ぜり合をやつて居た時分の様子が目の前に見へる様に思ハれる こう云歴史的の想像を丸つきり取り除けて仕舞つて単に風景といふ事丈から云へバ日本の瀬戸内の方がましかも知れないが瀬戸内にハ歴史はあつても歴史を思ひ出させて人にいろいろな想像を起させるのに便利な建築物など即ち歴史的人物の手で出来たものが少しも見へず只天然一天張だから割合に面白く感ずる事が少ない サテ此のライン河畔の古城は大抵皆川に向いた方の左も嶮ハしい岩崖の上に造つてある 岩山の内でも昔し化物が出たといふ名代の処などハ唐山水にでもありそうな形をして居る こう云マアどつちかと云へバ余りきびのよくないいくらかすごみのある景色を見るのにハ今日の天気は至極妙であつた なぜなら朝の内に少し許太陽が面を出しかけたがズーツと其儘曇で仕舞つた 此の中世のいかめしい建築物の残つて居る崖と又其次の岩との間などにいかにも佳よさそうな村の様なものがいくらもあつた 又処によつてハしやれた別荘などの並んで居るのも有る 又切角の此のライン河のいゝ景色の邪魔になるものは引船をして居る川蒸気だ 石炭の黒煙をポツポと吹いていくらも通るのだ いかニも殺風景だ 西洋人がやゝもすると日本の事を評して日本が西洋の真似をしてどうだのこうだのといふがなる程一理ないではない 日本は矢張日本の昔の儘で居た方が見物人にハ面白いに違ないがそうは行かぬ そんなことをして居れバ日本はだめに為つて仕舞ふ 丁度此のライン河の景色の邪魔になるから川蒸気をやめろといふやうなものだ 見物人ハ見物人で又其土地の者は土地の者で考を別々にしなけれバいけない 日本などでも見物人の云ふ事をうつかり聴くととんだ目に逢ふぞ 今日はオレは見物人としてライン河の川蒸気を攻撃する 五時五十分にコローニユに着いてパレスト・ホテルといふのに泊る 夜市中を散歩した 此処はそう早く見世をしめないから賑やかであつた 十二時頃にねる

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